「貧しき者への福音」(2019年1月6日礼拝説教)

イザヤ書61:1~11
マタイによる福音書2:9~12

 主の年2019年を迎えました。今日は主の公現日。お生まれになられた神の御子イエスさまが、その姿を、東方の三人の占星術の学者たちの前に現されたとされている日です。
 この三人の学者たちは、旧約聖書民数記24章、イエス様の時代から更に遡ること1300年程前の、異邦の預言者バラムの「ひとつの星がヤコブから進み出る。」という預言の言葉を知っており、ひとつの星がイスラエルに救い主が現れるしるしであると、その日が来ることを待っていたのです。さらに、イエス様から遡ること700年程前の、旧約聖書ミカ書5章で、ベツレヘムにユダヤ人の救い主が生まれると預言されていることも知りその時が来るのを待っていました。そして遂に「ひとつの星」、ユダヤ人の王としてお生まれになった方の星を見つけ、まずは喜び勇んでエルサレムに居るユダヤの王ヘロデのところにやって来たのでした。
 三人の学者たちの言葉を聞いた当時のユダヤの王ヘロデは、「自分こそがユダヤの王なのに」と、嫉妬に煮えたぎる心を隠しつつ、学者たちを送り出します。すると、東方で見つけていた星が、学者たちに先立って進み、その星が幼子イエス様のいる家の上に止まり、学者たちはそこに入って幼子イエス様に伏し拝み、持っていた宝である、黄金、乳香、没薬を献げたのでした。長い時代を経た、預言の言葉はイエス・キリストに於いて成就いたしました。預言の言葉、これは神様から私たちに与えられた約束の言葉です。
 この学者たちは、東方の学者ですから、聖書では異邦人と言われる人たちです。ですからこの日は、ユダヤ人を超えて、すべての人のために救い主がお生まれになった、すべての人の前に救い主がその姿を現された、主なる神は、ひとつの民族を超えたすべての人の主、神であるということが明らかにされた、そのことを記念する日とも言えましょう。
 クリスマス、イエス・キリストのご降誕の出来事は、世の暗闇を照らすまことの光が表された時でした。主は世の最も低く、貧しい馬小屋に、暗闇を照らす光としてお生まれになられ、その貧しい姿を、世の人々に公に顕されたのです。これは、主なる神の計り知れないご計画の中に顕された救いの出来事でした。救いは既に私たちのもとにあります。このことを、私たちは今、新たに、私たち自身のものとして携え、主なる神が共にいてくださる希望のうちに、この一年を歩みたいと願います。

 さて救い主が現れるということ。この異邦の占星術の学者たちが知っているほどに、旧約聖書に於いて、いろいろなところで預言をされていました。預言の言葉が与えられるということ、それは、主なる神は、救いの計画をはっきりと持っておられるということです。

 今日お読みしたイザヤ書61章も救い主の預言のひとつです。そして、この御言葉は、ルカによる福音書4章で、イエス様がガリラヤで宣教を始められ、ナザレの会堂で聖書を開かれ、自らが読まれた御言葉でもあります。イエス様が、その宣教の初めにご自身を語る御言葉として読まれた御言葉なのです。朗読の後、主は言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。
イエス様がお生まれになり、宣教の業を始められて実現したイザヤ書61章の御言葉、それは今日、イエス・キリストを信じてここに集う私たちにも向けて語られている言葉なのです。

イザヤ書は長い66章ある長い預言書ですが、三つの違う時代の3人の預言者によって神の言葉が語られ、一巻の書物として纏められた書です。
61章は、55章から始まる第三イザヤと呼ばれる預言者の言葉です。この時代は、バビロン捕囚の後の時代、新バビロニア帝国が、ペルシアによって滅ぼされ、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民は、ペルシア王キュロスによって捕囚の地バビロンからエルサレムへの帰還が赦され、新しく神殿を建てることが赦された時代でした。旧約聖書の歴史書で言いますと、エズラ記、ネヘミヤ記との関連のある時代です。
バビロン捕囚によって、ひととき、すべてが滅ぼされ失われたように思われましたが、神の救いの約束は破棄されることはありませんでした。主なる神は、自ら力ある御腕を奮われ、自ら動き、働かれ、捕囚となっていたバビロンの地から、イスラエルの人々をエルサレムに戻されたのです。
しかし、バビロン捕囚は約50年続いていました。50年と言いますと、現代で言えば人の一生には足りないと思える年月ですが、今から2500年程前の人々にとっては、多くの人にとっての一生の長さでした。バビロニアでは、捕囚となったといえども、それなりに自由な生活が許されていたと申します。生まれ育ったのがバビロニアだった人たちの方が増えている。そしてバビロン捕囚を自ら体験した人たちは既に年老いていました。故郷に戻れる、と言っても実感もなく、帰っても生活と生活の拠点を一から作り直さなければならない。神殿を再建することが許されても、その地に既に住んで居る人々からの妨害を受けて工事が中断されたり、人々は帰還後の生活に幻滅し、信仰に対する熱意を失い、神への信頼を弱め、神を忘れ、自分勝手に生きはじめようとし始めていたのです。その姿は、私たちがイエス様を信じていると言いながらも、時に自分の置かれている現状に失望し、神は何故このような苦しみを私に与えられるのか、と思い、自分の思いで何とか生きようとする私たちに似ています。
そのような民に対し、主なる神は、預言者第三イザヤを立てられ、民を励まし、苦しみの中から立ち上がらせるために、ご自身の言葉を語られたのです。

1節から2節のはじめまでお読みいたします。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人々に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年」。
この御言葉は、イエス様に於いて実現をしたのです。貧しい人々への良きしらせ、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を与えるということが。暗闇を照らすまことの光として神の御子が来られたということに於いて実現をしたのです。

「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた」、「油を注ぎ」とは、「王の即位」を表します。これはまさに、この時代の遥か先に顕れるイエス・キリストを指し示している言葉でありましょう。その目的は、「貧しい人に良い知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」でありました。

「貧しい人」とは、ここでは具体的にバビロン捕囚によって故郷を追われ、しかし、50年を経て故郷に戻ることを赦されたイスラエルの民を指しています。彼らは実際貧しさの中に置かれていました。故郷を失い、捕囚とされるという経験を経て、自分の思いや願望など果たされることは有り得ない状況の中、ただ置かれている現状に翻弄されることを余儀なくされていました。
私たちのこの国は、70数年前、戦争によりその多くが焼け野原となりました。そこから立ち上がり生きてきた人々がいます。この時の、帰還した人々は、かつての焼土と化したこの国の人々と類似するものがあったのではないでしょうか。
そして、イスラエルの民には、信仰があった筈ですが、この時、現実の悲しみと苦難に、神への希望が見失われていました。主なる神は、そのようなイスラエルの民を憐れまれました。そして解放の言葉を告げて、これから起こることを告げ、彼らを励ますのです。神は人間を励まし、とにかく生かそうとなさるお方です。
 何より、主は打ち砕かれた心を包んでくださると言うのです。主は住む場所も一から造らなければならない、生活の基盤が失われた民を憐れまれ、包んでくださいます。
新年礼拝で触れましたが、主は自ら動かれ、私たちを背負い、救い出してくださるお方です。たとえ、今、目に映る現実が困難に思える状況であったとしても、主なる神は、人間の思いを超えた壮大なご計画を以ってすべてのことに、神ご自身が仕えていてくださいます。

 3節からは、シオン=エルサレムの故に嘆いている人たち、これはバビロン捕囚から帰還した、エルサレムの現状に嘆く人々に向けて、深い悲しみを表す灰をかぶるという行為に代えて、冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の心を纏わせてくださると語られます。
 そして、主によって打ち砕かれた心を包まれ、解放を告知された人々は、「主の輝きを現すために植えられた正義の樫の木」と呼ばれ、廃墟となった都エルサレムを建て直すという祝福が告げられます。実際、バビロン捕囚から帰還した人々は、エルサレムにこの後、神殿を新たに建てるのです。
さらに少し進んで7節では、「あなたたちは二倍の恥を受け、嘲りが彼らの分だと言われたから、その地で二倍のものを継ぎ、永遠の喜びを受ける」と語られます。イスラエルの民は恥を受けました。罵られ、暴力を受け、家も家族を失い、捕囚とされました。その民に主は「二倍のものを継ぎ、永遠の喜びを受ける」と言われました。
私たちもまた人の二倍の恥を受け、嘲りを受けることがあるなら、神は私たちの涙と共にいてくださいます。そして、恥に代えて、地に於いて二倍のものを、永遠の喜びを受け継がせてくださいます。
私たちがこの世で受ける困難や悲しみを、神は決してお見過ごしにはならず、神に縋りつく私たちを愛し、良きもので満たすことを約束してくださっているのです。

これらの御言葉は、直接的には、第三イザヤの時代のバビロン捕囚からの帰還民のために語られているという御言葉としてまず受けとめるべき御言葉と思いますが、しかし、バビロン捕囚からの帰還民のための言葉というだけでは、説明の出来ない不思議と思える預言の言葉もいくつか61章にはあります。
例えば5節の中の、「他国の人々があなたたちのために羊を飼い、異邦の人々があなたたちの畑を耕し、ぶどう畑の手入れをする。」
8、9節、「まことをもって彼らの労苦に報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。」そして2節のはじめ「主が恵みをお与えになる年」。
これらの御言葉は、第三イザヤの時代の後に起こる出来事、イエス・キリストによって現される救いの時を明確に見据え、預言されていると思われます。
2節の「主が恵みをお与えになる年」とは、旧約聖書に於いて、レビ記25章で律法に定められてある「ヨベルの年」のことです。これは50年ごとにやってくる解放の年のことなのですが、その時にはあらゆる借金が棒引きになり、また、奴隷に売られていた人々は解放されて家に帰ることができました。無条件の恵みの大解放の時です。無条件の恵みの大解放の時とは、やがてこの世界に救い主が来られ、罪に囚われている人間を解放してくださる、罪によって苦しんできたこの人類がその罪から解放され、その罪を問わないという救いの時代がやってくるということ、イエス・キリストの十字架と復活によって、信仰によって罪が無条件に赦される、ということがやがて起こるということが、「主の恵みの年」「ヨベルの年」を通して語られているのです。
さらに異邦の人々=異邦人が羊を飼い、畑を耕し、ぶどう畑を手に入れるということ、異邦人の救いは、三人の占星術の学者たちがイエス様のもとにやって来て、主の救いが異邦人にまで及ぶことが表されたように、民族を超えて、イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人に与えられる救いの言葉です。
また8節の「とこしえの契約」は、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる救いの約束です。律法の行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰による救いの契約です。信仰によって、無条件に大解放が起こる。そしてすべての人が、ただ信仰によって、まことに「祝福を受けた一族」となるのです。
今は、既にイエス・キリストは来られ、大解放が起こっている時です。私たちがイエス・キリストを受けいれた時、それは起こります。私たちは世のさまざまな困難を持ち生きています。世の目に見えることに心を奪われ、囚われ、あくせくとし、心を小さくして生きています。しかし、イエス・キリストを信じる時、新しい道が拓かれます。私たちの思い煩いを引き受けてくださる主がおられます。委ね、希望を見据え、歩むのです。その時、神は私たちを豊かに絶えず導いていてくださることを知ることでしょう。救いは、私たちのもとに既にあります。
私たちは私たち自身の思いを超えた、神の御救いの御手のうちに、ご計画をもって生かされています。神は、私たちが、喜び踊る、まことの祝福に入れるご計画をもって、歩ませてくださっておられます。
それを受けとめるのは、心を高く上げ、主なる神への希望を見据える私たちの信仰です。
この預言の御言葉に信頼し、自らを委ねたいと願います。

私の姉は信仰を持ち歩む人なのですが、最近さまざまな問題で困難や辛さを覚えること多いことを聞いています。そんな姉ですが、先日、母と雑談をしていて、私たちの母方の4代前の先祖が、日本のプロテスタント伝道草創期に信徒として大きく関わり、姉が洗礼を授けられた牧師が今牧会をしておられる札幌の教会の開拓と、今姉が所属している教会の牧師が、次の春転任が予定されている室蘭の教会の開拓に大いに関わり、ふたつの教会とも、その始まりは、先祖が家を解放したことから始まったということを知ったのだそうです。このことを知って姉は喜び、「神様のご計画は素晴らしい、このどうしてこんなにと思える毎日の中で、このことが分かったことは、私に対する神様のご計画は、先祖の生まれた180年前から計画されていたことなんだという、神様からの励ましなんだと思える。すべてが神様の御手のうちにあるから大丈夫だという、自信と確信が与えられた」と申しました。本当に、きっとそうなんだと思いました。姉は、自分の信仰の場が、先祖に遡って結びついていることに、自分自身の思いを超えて備えられている神のご計画に思い至ったのです。そして、神の計画の中にあるから、すべてのことは大丈夫と胸を張ったのです。
そのように、神のご計画は私たちひとりひとりをそれぞれの形で覆っています。私たちは神に憶えられ、神のご計画の中に生きるひとりであることに、胸を張りたいと願います。

私たちは時に弱くされ、困難な時を通り、またさまざまな外側からの問題に囚われ、思うように身動きが出来ないこともある。しかし、すべては神の御手のうちにあります。主は私たちのあらゆる闇にまことの光を与えてくださいます。
私たちのすべては神のご計画の中に生かされています。主の御業が、主の私たちに対する祝福の御業が、やがて鮮やかに顕される時がやがて来ることを信じて、信仰と希望を持ち、どんな時にも歩みたいと願います。
新しい年、主は私たちを導かれます。どのような時にも信仰と希望を持って歩ませていただきたいと心から願います。