「わたしにつながっていなさい」(2019年6月30日礼拝説教)

イザヤ書5:1~4
ヨハネによる福音書15:1~17

 聖書の舞台イスラエルではぶどうの栽培は古来盛んです。そのため旧新約を通して、ぶどうやぶどう酒に纏わる聖書の御言葉はとても多いのです。
 私がこれまで少しずつ関わった、四谷新生教会、千葉南教会には、庭にぶどうの木がありました。ぶどうの木の幹は細く幹から伸びる枝は、どんどん伸びて増え広がっていき、枝から枝がたくさんあって、それらを支えるためにはぶどう棚を作ることが必要になってきます。細い幹から無数の枝が張り巡らされ、ぶどう棚の下から見るぶどうは、緑の葉を隠すほどにたわわになることもありました。
そんな季節を超えて、秋になり冬になると、ぶどうの木の葉はすべて落葉し、見事に枯れ果てて死んだ木のようになります。枯れ木に見える張り巡らされた枝がむき出しになります。その様子は折って棄てられてそのまま放置されている枝と見分けがつかないほどみすぼらしい姿です。でもそんな枯れ木のような中に、春になり、乾燥しきった枝から、小さな緑が芽吹き始め、その枝が生きていたのだということを知るのは、感動的な光景でした。
 そんなぶどうの木を、旧約聖書ではイスラエルの民の象徴として描かれています。今日お読みしたイザヤ書はその代表的な御言葉です。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」(5:2)よく耕して、石を取り除き、見張りの塔まで立てて大切に育てたぶどうの筈が、「酸っぱいぶどう」、食べることが出来ないようなまずいぶどうが実ってしまった。それが、神が作り、神が愛して育てたイスラエルの民だったと言うのです。

人間は、神の創造のはじめ、主なる神と共にありました。しかし、はじめの人アダムとエバの罪によって、主と共にある命から引き離され、人間には「死」が入り込むようになった。このことを聖書はすべての事柄の原点として語っています。
 しかし、神はご自分の造られた人間を愛して愛して愛し抜かれました。神は人間がご自身から離れ、「死」という滅びに至ってしまうことを、そのままにしておくことなどお出来にはならなかったのです。
 そして律法を与え、預言者を立てて神の言葉を語らせ、何とかして、人間を神のもとに立ち返らせようとされましたが、人間は人間の造った、手に取り、目に見える偶像に心を奪われ、主なる神を選ぶことを拒み続け、主なる神は人間に裏切られ続けられました。律法をイスラエルの民に与えた実りは、酸っぱいぶどうだったのです。

 旧約聖書には、主なる神は熱情の神、妬む神とご自身を自ら語られ、旧約の神は恐ろしいなどと言われたりしますが、恐ろしいと思われることは、神が人間を遥かに超えておられることから来るその有り様によりましょうが、語られているのは人間に対しての狂おしいまでの愛なのです。主なる神はご自分を裏切り、偶像に心を寄せ続ける人間、酸っぱいぶどうに育ってしまった人間に対し、激しく怒り、熱情に燃やされながらも、その姿は神の激しいまでの人間への愛と熱情だったのです。
 今日はお読みしませんでしたが、旧約聖書ホセア書には、人間を姦淫の罪を犯した妻になぞらえて、しかし、赦し、自分のもとに取り戻そうとされる神の姿が語られています。
11章には、神の愛がどれほど激しく、狂おしいほどに人間を愛おしみ、神ご自身がどれほど葛藤をしておられるかが、語られています。特に8節には「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と語られ、この「心を動かされ」というのは、原語では上と下がひっくり返るという言葉で、この意味は、「神は人間に律法を与えて、人間の側が神に立ち返ることを望み、待っていたけれど、人間は変わることが出来なかった。人間が変わらないならば、私=神が心を変えよう」、人間が変わることを求め続けるのではなく、神ご自身が変わろう、人間に変わることを求めるのではなく、ご自身が変わることを決心され、心の上下をひっくり返された、そのような意味が込められているのです。
 そして、心を変えられた主なる神がなさったこと、それはひとり子イエス様を世に送られて、すべての人の罪をその身に帯びて死ぬ。神の御子が、旧約聖書の律法の中に語られている、罪の贖いのための犠牲の動物のように死なれること、命を捨てられることによって、すべての人の罪の代価となられる。すべての人の罪は、ただ主の御前に「私は罪を犯しました。私はイエス・キリストこそ救い主と信じます。私はイエス・キリストの御前に自分の罪を心から悔い改めます」と、心からの信仰を告白した時に、ただそれだけでそれまでの罪は帳消しになり、初めの人、アダムとエバが、その創造の初めに神と共にあったように、神と共にある命を回復することが出来る、そのような道を、神ご自身、神の御子が、十字架の上で苦しみ死なれたことを通して開かれたのです。
 神の人間に対する愛とは、今日お読みしたヨハネによる福音書15:13、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ということそのものでありました。神は、姦淫をする妻のように主なる神を裏切り続ける人間を、それでも愛し抜かれ、御子を遣わされ、十字架の上で、命を捨てられ、これ以上にない大きな愛を現されたのです。

 お読みした15章は、14章から続く、十字架にお架かりになる前の、最後の晩餐の席でのイエス様の弟子たちに対する告別説教の続きです。イエス様は言われました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と。
 この「まことの」というのは、人間存在の本来的意味をあらわす「まこと」です。「真理」とも言い換えられます。イエス様が、人間存在の根底としての、それにつながらなければ生きることは出来ない他とは比べることも出来ない「ぶどうの木」であり、父なる神は、農夫であられると言うのです。
お読みしたイザヤ書の「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。」のは、父なる神に他なりません。旧約聖書に於いてはじめに植えられた「ぶどうの木」とは、「律法」というぶどうの木だったと読んでよいでしょう。律法に連なるイスラエルの民は、酸っぱい実にしか生らなかった。父なる神は、律法によっては、人間の側を変えること、神に立ち返らせることが出来なかった。それでも人間を愛して救うために、遂に人となられた神の御子イエス様という、繋がる人にイエス・キリストと共にある命を与え、人間存在の根底を支えるまことのぶどうの木を、地上に神が生えさせられたのです。
イエス・キリストという一本のまことのぶどうの木。弟子たちを、そしてイエス・キリストを信じて救いに入れられた者たちを、それにつながる枝であると語られるのです。ぶどうの枝、無数に、枝から枝が広がりゆく枝。その栄養はイエス・キリストというぶどうの木に繋がっている、生きた枝です。

 しかし、続く言葉はちょっと恐ろしく思えます。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と。
 この言葉は、イエス様の弟子たちに語られています。まだ、イエス様の十字架の御業は成し遂げられていない時に話されている言葉でありますが、3節で「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言っていただいている弟子たちです。この時、弟子たちは既に、イエス様につながっているのです。しかし、「つながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言われました。
 この厳しい言葉は、裏切り者のユダに対する言葉だと理解をする説もありますが、私は、すべての信仰者に対しての戒めであろうと、厳しいですが理解をいたします。それは、この章で語られているイエス様の「命令」「掟」を行うことが出来ないならば、ということです。
イエス・キリストの救いはただ信仰による救いであることに違いはありませんが、信じて、過去の罪を悔い改めても、その後も信じて救われたはじまりの場所に留まり続け、いえ、人間は忘れっぽいですので、いつしか信仰をないがしろにしてしまい、実を結ぶことがないまま、ぶどうの木に繋がりながらも、よそ見ばかりをして心が定まらず、力の無い枝となってしまうことがありましょう。
 信仰というのは、成長させていただくものです。
 ペンテコステの前から、聖霊なる神についてお話をさせていただくことが続きましたが、信じた者にはイエスの霊であられる聖霊が与えられます。聖霊なる神が信じる者のうちに生きてくださり、共に居て、信じる者を励まし、力をくださいます。
 しかし人間にこびりつく罪は頑固ですので、信仰を持ち、聖霊を受ける者とさせていただいても、罪の縄目の頑固さに苦しみます。しかし、イエス・キリストというぶどうの木に連なり、神の愛の中に入れられ、愛されている者として、しっかりと主に結ばれていることを確信として持ちつつ、すべての目の前に起こってくる事柄に、信仰を持って為してゆくならば、私たちと共にいてくださる聖霊なる神が、私たちを成長させてくださり豊かに実りを与えてくださいます。時間が掛かるかもしれないけれど、すべての事柄に御言葉に従う信仰を持って歩み続けるならば、ガラテヤの信徒への手紙5章に語られている、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実を豊かに与えていただく者とさせていただけるのです。そして、イエス様の命令、「互いに愛し合いなさい」という掟を心から行うことが出来る者とさせていただけることでしょう。

 今、聖霊なる神が信仰を持った私たちの内側に生きて働いて下さる、ということを申し上げましたが、イエス様がヨハネによる福音書の中で再三に亘り語っておられることは、「わたし=イエス様が父の内におり、父がわたしの内におられる」ということでした。さらに14章で、イエス様が去って行かれたのち、聖霊が与えられることを語られた時には、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」ということを語っておられました。
 父、子、聖霊は三位一体なる神様。三つにいましてひとりのお方です。ですから、イエス様が、父なる神の内にあり、父なる神がイエス様の内におられるということは、父なる神とイエス様はひとつであるということです。さらに、聖霊なる神は、イエス様を信じる人に与えられる。イエス・キリストを信じる信仰によって人には聖霊が与えられ、聖霊が共にある者とされた人は父子聖霊なる三位一体の神のうちに入れられる―共にある―命へと入れられると言うのです。
すごいことだと思われませんでしょうか。信じられないような神の恵みです。罪によって、神から離れ去り、神を裏切り続けた人間を、もう一度御自身のもとに取り戻すために、父なる神は、御子イエス様を世に送られて、まことのぶどうの木とされ、信仰によってその木につながる枝が、成長して実を結ぶことによって、イエス様のまことの弟子とさせていただき、人が実を結び、イエス様の弟子とさせていただくことによって、父なる神が栄光をお受けになると語られるのです。
そしてそのことは、19節以降、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と語られるように、神の愛のうちにすっぽりと包まれて生きることに結びついていきます。
 父子聖霊は、愛によって結ばれたお一人の神であられる。その内に人間も信仰によって入れられる。決してそれによって人間が神になるなどということではなく、神の愛によってイエス・キリストの贖いを通して神の御許に招かれ、イエス・キリストというぶどうの木につながる枝として、その愛に応えて、神を愛し、共に神にある交わりの中に入れられた人たちを愛し、互いに愛し合いなさい、良き実を結ぶ者となりなさい。それがイエス様の命じられた掟でした。そうするならば、イエス様は、人を弟子ではなく、友と呼んでくださるのだとまで語られたのです。

 更に16節「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」と言われました。
 私たちは、信仰によって既に父子聖霊なる三位一体の神の愛の交わりの中に入れていただいている者たちであり、命は既に、世のもの、滅びに至るものではなく、神と共にある命=永遠の命の中に入れられています。その命をいただきながら、イエス・キリストというまことのぶどうの木に連なる枝として苦労の多い、罪多き世に生きています。神と共にある命をいただいている者として、「世に」出かけて行って、世に於いてもその実りが残るほどの実を結ぶ者とするために、「わたしの名」、イエス様のお名前によって、父なる神に願うものは何でも与えられるようにと、イエス様がわたしたちを「任命した」と語られたのです。イエス・キリストというぶどうの木につながり、イエス・キリストというまことのぶどうの木の枝として、良き実を結ぶ者には、「イエス様の名」を使って願い祈ると、何でも与えられる、そのようなイエス様の名を用いる権威を与えられるとまで仰るのです。世に出て行く根拠も「互いに愛し合う」ということです。
 イエス・キリストというぶどうの木につながりよき実を結ぶ者たちは、神と共にあり、また人と共にあり、どこにあっても神の愛によって、神と人、人と人をつなぐ者として、生きなさい、またそのための力を主なる神は惜しみなく与えて、助けてくださり、「イエスの名を使って願い祈ると、願い祈ったものが与えられる、それが世に於ける証しとされるとイエス様はここで語ってくださっているのです。

 そのような命を、私たちはどれだけ自分が今、既に与えられていることを信じて生きておりますでしょうか。「神と共にある命に入れられている、命が回復されている」、これは信仰者に対する聖書の約束ですが、命は目には見えませんので、このような牧師の説教を聴いても絵空事と思えたり、そのように愛されて、命を与えられていると一時は思っても、世に出て行き生きる中で、困難や忍耐が必要なことが生じた時、私たちの命の場所を忘れてしまい、不安におののき、神に祈り求めることすら諦めてしまったりすることはないでしょうか。
 私は思うのです。ぶどうの木は冬は丸裸になります。みすぼらしい、死んだような木に見える。でも、そんな中にも、イエス・キリストの命は脈々と生きているのです。そして、やがて時が来て、緑の小さな葉っぱが出てきます。そして、やがて豊かな実が実るのです。
 人生には時に苦しみの時、困難な時があります。しかし、イエス・キリストというまことのぶどうの木につながっているならば、御言葉に絶えず聴き、目の前の状況に落胆してしぼまず、「私は、私たちは神と共にある者。イエス・キリストに結ばれている者なのだ」と信じて、希望を持って忍耐をし、冬の時期を乗り越えるならば、必ず新しく芽吹き、豊かな実を結ぶ時がやって来ます。私たちにはイエス・キリストの命、神が自らの命を捨ててまで与えてくださった、世のことに押しつぶされることのない、まことの命が与えられているのです。
 この命が与えられていることを信じて、この週も世に出て参りましょう。愛されている者として、御言葉に導かれて、愛、愛し合うという良き実を結ぶものとならせていただきたい、またイエスの名によって絶えず真剣に祈る者とさせていただきたいと願います。