「わたしたちの救われるべき名」(2019年9月8日礼拝説教)

箴言16:31
使徒言行録4:1~12

 今日は敬老感謝日として、ご高齢の方々を特に憶えて礼拝を献げます。
 歳を重ねるということ―このことにおいてまず、さまざまなそれまで思いもよらなかった生活の面での困難が起こって来ることになり、私たちを不安にさせます。私は一昨年、父を御許に送り、今は87歳の離れて暮らす母のことを気にしながら暮らしています。近くに住む姉妹が多く対応をしてくれていますが、いろいろな問題が起こって来て、対応に窮することも多くあります。
 また私自身も「高齢」と言われる年齢が目の前にあり、同世代の友人をはじめ、大切に思っていた人、お世話になった方々が地上の生涯を終えられることが増えて来て、残されていく寂しさも感じるようになりました。歳を取ることは不安で寂しい、そのことを、肌で感じてしまうことがあります。
 若い時代は、いくつかある選択肢の中から何をしようかと思っていたけれど、歳を重ねていくことは、選択肢の中からひとつを選び取りながら前に進んでいくことで、選び取って行くことで自分自身をつくり上げていくことになります。そのようにして、余分なものをそぎ落としてながら人は生きているようにも思います。
 しかし、そんな時の流れの中で、私たちは人間の生きる時の流れとは違う「時」に出会って、ここにやって参りました。聖書の書かれた原語であるギリシャ語によれば、「時」にはふたつの「時」という言葉が語られています。ひとつはクロノス。一分、一時間、一年間・・・私たちの経験している時の流れ、人生の流れの時。もうひとつがカイロス。これは神の時。神の決定的な出来事が起こる時。決定的な神の出来事とは、イエス・キリストが十字架に架けられ、復活された、この2000年前に起こった、神の救いの出来事を指します。
 十字架の出来事は一回限りのことですが、その救いが、私たちひとりひとりに現された時は、ひとりひとりにとっての特別な時、カイロスであったと理解してよいでしょう。神が私たちの人生に介入された「時」です。
 世界の各地には教会が立てられています。今日お読みした、使徒言行録にある、ペトロやヨハネをはじめとする初代の使徒たちの命を掛けた伝道からはじまって、イエス・キリストに出会える種は至るところに蒔かれていて、私たちは立てられている十字架を見つけて、ある時教会に来ることを選びました。私たちが教会に来ることを選んだ前に、神による招きがあったに違いありません。そして、神が、神の時、私たちの人生の流れの時、クロノスの中に、十字架の救いの時という特別な時を介入させられたのです。
 それ以来、私たちの人生の選択肢の中心には、イエス・キリストがおられたのではないでしょうか。イエス様ならどうなさるか、私の置かれているこの状況の中、救われた者として、神は私に何を望んでおられるのか。そのようにして、私たちは、イエス・キリストと共に歩んで来ている、また歩み始めようとしているのではないでしょうか。
 そして歳を重ねるにつれて恐らく、イエス・キリストが大きく大きく、私たちの内に生きておられることを知ることになるに違いありません。体の変化があり、弱さを持つようになり、世の別れがあり、ひとつ、またひとつと世のことを失っていると思える時、何を失ったとしても、すべてを私たちが失ったと思ってしまった時にも、そこに必ずイエス・キリストがおられ、私たちを愛の眼差しで包んでいてくださいます。そして、守り、必ず導いてくださいます。
御言葉を読ませていただきます。イザヤ書46章3,4節。「わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。
 先々週、M兄が奨励で選ばれ、また3月に召されたH兄が、ご自身の命の実感としていつも大切にしておられた御言葉は、コリントの第二の手紙4:16「だから、私たちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます」でした。
H兄は社会生活に於いてもご活躍をされた方でしたが、晩年はイエス・キリストだけが、先生の内側から輝き出でておられたことが忘れられません。歳を重ね、体が弱くなる時、イエス・キリストは、私たちと共におられ、新しい命を輝かし始められるのです。
 私たちが体験したキリストの十字架による救いの時=カイロスから始まる神と共にある人生の時の流れの中、神の救いの時に現された恵みは、年齢を重ねる毎に、私たちの内に力強く命の光として、新しく輝き出でてくださいます。
 何故なら、イエス・キリストは十字架で死なれたけれど、復活をされたお方であるからです。十字架という弱さを通して、復活の命が顕されたように、イエス様の復活の命が、信じる者、そして信じてイエスの名の権威のもとに生きることを赦される者には現される。人はキリストに於いて、日々新たにされるのです。主の力は弱さの中にこそ力強く顕されるのです。
 神の時、カイロスを得て新しく歩み始めたキリストと共にある生涯は、祝福そのものです。本日の旧約朗読をもう一度お読みいたします。
「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」。
 白髪は、歳を重ねること=クロノスという時を重ねて来て老齢となっていることを表しますが、神、イエス・キリスト、聖書の御言葉に従い、高齢となる時、白髪は輝く冠となるのです。歳を重ね、高齢となることは、悲しむべきことではない、神からの祝福であり、神との交わりが豊かになる時です。神の力は弱さの中にこそ現されます。年齢を重ね、さまざまな弱さの中に途方に暮れそうになる時、イエス・キリストの復活の命が私たちを満たしてくださいます。そして、絶えず私たちを新しくしてくださるのです。年齢を重ねるということは、私たちの内に神がより大きく働かれる時であり、大いなる祝福の時です。

 さて、使徒言行録4章は3章から続いています。
 生まれながら足が不自由で、いつも神殿の美しい門のところに運ばれて、物乞いをしていた人が、ペトロとヨハネに出会い、「何かもらえるかもしれない」と思って、じっと見つめ、見つめ合っていましたところ、ペトロの「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエスの名によって立ち上がり歩きなさい」という命令、言葉が発せられた時、この生まれた時から足が不自由だった人が立ち上がり、踊りながら、ペトロたちについて神殿の中に入って行きました。神の不思議な業が、ペトロたちを通して現されたのです。
 この「時」は、この足の不自由な人にとっての40年の人生の時を生きて来た中に、遂に神の時=カイロスが現された時と、言い換えられましょう。
 その癒しと解放の出来事をペトロは、「イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです」と申しました。

 この人は、「イエス様を信じます」と言って、癒されることを望んだ訳ではありませんでした。いつもそうであったように、門を入って行く人から、その日の糧を得たいと思っていただけでした。
 しかし、そのような何気ない日常であったはずの中に、この人の想像もしていなかった根源的な救いと解放の出来事が「イエスの名によって立ち上がり歩きなさい」というペトロの言葉を通して起こったのです。それをペトロは「信仰による」と申しましたが、この人はイエス様がいつも神殿に出入りしている姿を見ていたことは考えられますが、その時点で信仰と言えるものがあったとは思えません。
 今日の御言葉の中で、ペトロたちが祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人々から尋問を受けている、謂わば、自分も逮捕されるかもしれない危険な中にも、ペトロの傍におりました。しかしこの人は、自分も捕らえられることを恐れて逃げたりはしていませんでした。生まれた時からの病が癒されたことで、この人には「イエスの名のもとにこそ救いがある」という救いの確信、「ここにのみ救いがある」ということに、この人は目が開かれていて、動じることがなかったのでありましょう。ペトロがこの人と目と目を合わせた時、ペトロを通して働かれるイエス様の霊・聖霊なる神は、この人にイエス・キリストを信じる信仰へと導かれる、揺るぐこと無くイエス・キリストに付き従う人になることを見抜かれたのでしょう。そのことをペトロは「その名を信じる信仰」と語ったのだと思われます。

 この箇所でペトロたちを尋問をしている祭司、神殿守衛長らというのは、ユダヤ教のサドカイ派に属する人々で、サドカイ派というユダヤ教のグループは、神殿の奉仕に携わる人々で、今日の週報に記しました神殿礼拝のための役割を担ったレビ人の末裔と思われますが、この人たちは主に旧約聖書のはじめの五書、律法の書のみを信じている人たちでした。もうひとつのユダヤ教の大きなグループであるファリサイ派は旧約聖書の全部を持ち、信じておりましたので、律法の書以外の預言書に書かれている復活信仰、義人が死者の中から復活するということを信じており、イエス・キリストの復活と結びついていく信仰を持っておりました。しかし、律法の書だけを正典として持っているサドカイ派の人々にとって、律法の書に死者の復活は書かれていないため、全く信じられない絵空事です。ですからペトロたちがその時、民衆に向かって「イエスに起こった死者の中からの復活」ということを語っていることに対して、心底いらだっていたのだと思われます。そして、ペトロとヨハネを翌日まで牢に入れたのです。

 次の日、議員、長老、律法学者がエルサレムに集まりました。イエス様を十字架に架けた裁判と同じユダヤ教の最高法院サンヘドリンを招集したのです。
議会は、ペトロはじめ使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問をしました。「ああいうこと」というのは、足の不自由な人が、立って歩くようになったという出来事です。病の癒し、解放が起こる事に対し、ユダヤ教の権力者たちは、自分たちの持つ権威が「イエスの名」に取って代わられることを恐れているのです。
 ペトロは聖霊に満たされて、堂々と語ります。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレ人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」と。

 イエス様は、神が人となられたお方。そのお方が、ユダヤ教の権力者たちの悪意によって、十字架に架けられ殺され死なれた。イエス様は、ユダヤ人たちから捨てられる石のように「不要なもの」とされて、十字架に架けられ死なれた。イエス様は、人の目には、十字架の上で「滅びた」と見做されました。
しかし、イエス様は復活されました。復活によって、その名、イエスの名を信じる人に、世の命を超えた、永遠の命の道を拓かれました。永遠の命とは、イエス・キリストを信じて、自らの罪を悔い改め、罪赦された者たちに与えられる、世の死を超えた、神と共にある命です。それは、生まれながら神と離されている罪人である人間が、イエス様が捨てられた石のように十字架の上で滅びことによって、信じる者たちに与えられることが出来るようになった命です。イエス様が十字架の上ですべての人間に対する贖いの死を遂げてくださったことで、滅びない命を人がいただける道が実現しました。
 捨てられた石であるイエス様は「隅の親石」となられました。隅の親石とは、石造りの家の門を造る石のひとつ。他の石が取られてもその門は壊れることは無いけれど、門の隅に無くてはならない、その石が取られると、すべてのバランスが崩れて建物全体が崩れてしまう石。それを「隅の親石」と言われています。
イエス様は、捨てられたけれど復活され、永遠の命という新しく建てられた家の堅固な隅石となられました。イエス様の十字架があったからこそ、建てられた新しい家になぞらえられる新しい命が現されました。
 この40年間足が不自由だった人は、イエス様の十字架と復活によって成し遂げられたすべてイエス・キリストの名を信じる信仰によって信じる者に与えられる、「イエスの名」による権威によって、ペトロを通して癒され、解放され、この時から、イエス・キリストの復活の命に新しく生かされるようになっていきました。歩き踊り、神を賛美し、信仰に生きる人とされたのです。

 今、イエス・キリストは天におられます。そして、天よりご自身の霊、聖霊を注ぎ、信じる者と共に居てくださり、また世には「イエスの名」による権威を残して下さいました。
 聖書に於いて、「名」とは、その名を持つお方そのものの権威を表しており、そのお方は世ではなく天におられつつ、世にあっては他国の大使館が置かれているように世に置かれています―大使館ということは、その国の権威と機能があるということです―世にあってイエス・キリストの十字架によって救われた者たちには、その名の権威を行使する権限が与えられています。ペトロが、この足の不自由な人を「イエスの名によって立ち上がり歩きなさい」と、イエスの名を使って、イエス様の権威を用いてこの人を癒したのと同様に。そして、私たちにも、神に「イエス・キリストの御名によって」祈りをささげることが赦されています。

 ユダヤ人たちは、イエスの名を用いることによって多くの癒しの業をはじめとする神の解放が起こり、自分たちの権威が失墜することを恐れて「今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」と言って、ペトロとヨハネを呼び出して、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように命令をしました。しかも再三脅しました。民衆は、ペトロたちの行ったイエスの名による神の業を賛美し続けており、ユダヤ人たちは、ただ脅すことしか出来なかったのです。
しかし、私がちが救われるべき名は、イエスの御名しかないということを知っているペトロやヨハネは、癒された人同様、この後もひるむ訳はありませんでした。この後、使徒たちの命を掛けた、イエス・キリストの十字架と復活を語り伝える宣教の業が大胆に始まっていきます。この人も、ペトロもヨハネもすべての使徒たちも、キリストを親石とする新しい命に生かされるようになっていきます。

 神の時=カイロスがその人生に介入し、「隅の親石」となられたイエス・キリストの拓かれた命を頂いた者の人生は不思議に満ちています。歳を重ね、さまざまなことがそぎ落とされて、小さく弱くされたように思えても、不思議なまでに新しい力を与えられる。神に委ねれば委ねるほど、主にある新しさが、イエス・キリストにある新しい命が輝き出でてきます。
 2年前に106歳で天に召された、クリスチャンで聖路加国際病院院長を務めておられ、生涯現役を貫かれた日野原重明氏の書かれた『いのちを創る』という本の中で、日野原氏は「人は、いつからでも創められる」と述べています。(この創められる、という言葉は、開始するではなく、創造するという字を使っています。)また続けて、「老いることはまた楽しからずや。ただし、はじめることを忘れさえしなければ・・・」と。
 イエス・キリストは十字架に架けられ死なれたけれど、復活された―「隅の親石」となられたイエス・キリストによる救いによってもたらされる新しい命は、信じる者たちをいつでも新しく創めさせてくださる命です。失われたと思えるところから力強く輝き出で始める命です。イエス・キリストは、絶えず新しく私たちを生かしてくださいます。それは、世を超えて永遠に至るまで。
 イエス・キリストによって与えられる命の豊かさが、おひとりおひとりの上に豊かにこれからも現され続けることを心より祈ります。