「あなたがたは地の塩、世の光」(2020年7月5日礼拝説教)

レビ記2:13
マタイによる福音書5:13~16

 8つの幸いについて、ひとつずつ読んで参りました。イエス様の仰る「幸い」とは、人間が世の繁栄を求め生きる、自分中心に生きるような生き方、世の価値観をひっくり返すものでした。神と共にある者の幸いの姿とは、世の繁栄に心奪われることなく、心貧しく、へりくだり、からっぽのような自分のすべてを神によって満たしていただくほかない人であり、悲しむ人であり、柔和で絶えず主なる神を見上げつつ生きる人であり、また神と共にある命=義に飢え渇く人の姿でした。後半の四つは、そのような神共にある幸いな人々の世にある生き様が語られました。憐れみ深く、心清く、平和を実現すること、そして義のためには迫害されることも厭わない人。そしてこの8つの幸いの姿とは、イエス様ご自身であると言えないでしょうか。ある人は、この8つの幸いを「キリストの姿を表すキリスト論だ」と言いました。
イエス様は、そこにいる、ご自身に従って来た、病を持ち、主に癒された人々、癒しを求めて来た人々、権力のもとに虐げられ、貧しく生きることに困難を覚えている人々に「幸い」について語られたのち、続けて語られました。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と。

 私は東京世田谷にある女子高に通っていたのですが、その建学の精神というのでしょうか、生徒たちの目指す人間像が「世の光になろう」というものでした。学校のHPを初めて見て確認してみたのですが、「世の光になろう」が「学園目標」とあり、「世のため人のためになる、愛と理解と調和を旨とする・・・」と書かれてありました。キリスト教主義の学校ではなく、創立者が文豪トルストイに傾倒していたことから、聖書ではなく、キリスト教徒であったトルストイによる言葉の引用としての「世の光」であったということが分かりました。
そんなことで、私の中では「世の光」というと、世の光「になろう」と無意識に続いてしまうのです。そして、どうしてもこの言葉から、「世のため人のためになる」というニュアンスを植えつけられているようで、またそのようになれない自分に引け目を感じながら、このイエス様の御言葉をいつも読んでいたように思います。

 しかし、イエス様はここで「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と、宣言をしておられます。ここにいるあなた、病に苦しみ、生きる困難を抱えているひとりひとりが「地の塩」「世の光」と言われるのです。神の目に、イエス様に従う者、イエス様を信じて、イエス様に縋り生きる者たちに向かって「あなたは地の塩ですよ」「あなたは世の光ですよ」と言われるのです。
「になりなさい」というイエス様の願いが込められていることは、確かなことでもありましょう。「地の塩」「世の光」とは、神の目に、人間のあるべき理想的な姿を語っておられるとも言えますが、しかし、「あなたがたは地の塩」「あなたがたは世の光」、あなたたちはそのような者なのですよ、とイエス様はここで語っておられるのです。

 まず、「あなたがたは地の塩である」と言われた「塩」ということについて、どういう意味なのか、考えてみたいと思うのですが、3年前でしたか、初めて梅干を自分で作ってつくづく分かり、感心したのは、梅干は大量の塩で作る保存食だということでした。何であれ、塩漬けにすると腐敗が免れ、保存食となります。塩は「腐敗防止」の意味があります。
 また調理の際、殆どのものに塩は用いられます。小豆を甘く煮るときにさえ、少量の塩を加えることで甘みが引き立ちます。今は塩で甘みを引き立てられた塩キャラメルや塩分補給の甘いドリンクなどがあり、良い甘みと共に、汗をかく夏に必要な塩分を、塩を用いて味付けをした美味しい甘みで採ることが出来ます。
 しかし塩自体でお腹を満たすことは出来ません。塩分の採り過ぎは健康を害します。塩だけ食べたとしたら、お腹を壊し、すぐに私たちは吐き戻してしまうことでしょう。塩は食べ物の中心にはなり得ません。しかし体内に塩分は必要です。イエス様は「塩は塩で味付けは出来ない」と言われましたが、塩は塩そのものに役目がある訳ではなく、塩は食べ物の味を引き立てる役目なのです。
 そして旧約聖書の律法の中で塩というのは重要な概念のひとつです。お読みしたレビ記2:13をもう一度お読みします。「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」。神への献げものにはすべて塩をかけることが定められているのです。穀物だけでなく、エゼキエル書43:24によれば、主なる神が求める献げ物のあり方として、焼き尽くす献げ物を献げる際には、犠牲の動物の上に塩をまいて燃やすことが語られています。
 少し変わったところでは、エズラ記4:14に「王室から俸給をいただく臣下として」という言葉があるのですが、「俸給」は、原文では「塩」と書かれています。ここでの「俸給(塩)」とは、王からの俸給として語られていますが、「塩(俸給)」が表すことは、何者かに属し、所属する者として働き、与えられる恵みとしての分け前の意味です。
 それらのことと関連して、「塩の契約」という言葉が旧約聖書に於いて出てくるのですが、これは神に属するもの、神と結ばれ恵みを与えられた者が、自らを前面に押し出して自己中心的に生きるのではなく、神を頭として神に従い、他者を重んじ、他者を助け、また犠牲を献げる覚悟をもって、人と人との和解のために働くのと同時に、この罪の世の腐敗を防止する役割を持たせられていると言うことなのではないでしょうか。
 イエス様は、マルコによる福音書9:50で「自分自身の内に塩を持ちなさい」と語っておられます。イエス・キリストに属する者たちは、世に於いて、神と人、人と人とを結ぶ和解の役目と、罪によって世が腐敗していくことを食い止める「塩」なのだ、イエス様はそのように、私たちのことも見てくださっているのです。
そんなことをあれこれ考えていて、イエス様に付き従った女性であるマグダラのマリアのマグダラというのはガリラヤ湖畔の町の名前で、マグダラは塩漬けの魚の産地だったことを思い浮かべました。もしかしたら「マグダラのマリア」という呼び名には、イエス様の求められる「塩」を持ったよき弟子としての意味があるのかもしれない、などとちょっと深読みをして想像しています。

 そして「光」ということ。
 神が万物を創造された時、最初に造られたのは「光」でした。「光あれ」という神の言葉=イエス・キリストによってはじめに造られたのが「光」。そして、ヨハネによる福音書の冒頭では、イエス様のことを「その光は、まことの光であり、世に来てすべての人を照らすのである」と語られています。
人間自身は光ではありません。世は暗闇に属しており、私たちの持って生まれた性質というのは、闇を好むもの、罪の性質であることは明らかです。まことの光はイエス・キリストであり、イエス・キリストに救われ、贖われ、世にありながらイエス・キリストの命のうちを今、生かされている者たちは、「光」そのものではなく、「世」の光であるとイエス様は言っておられるのです。
「世」というのは、ギリシア語で「コスモス」。神の被造物世界。そこを生きる人間が罪に染まっているために、滅びに定められたこの世を表す言葉です。
 パウロはコリントの信徒への手紙二4:4以下で次のように語っています。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。・・・「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」
「この世の神」とは、ちょっと恐ろしいですが、サタン、悪魔を指しています。この世はサタンの支配の中にあるということは、聖書が語るところです。このことは、私たちは覚えて、世にあるさまざまなことを見て、イエス・キリストを見上げつつ、世に救いが顕されることを祈らなければなりません。世にはイエス・キリストを認めない人々があまりにも多くいます。世には福音の光を見えなくさせる力が働いています。
 しかし、イエス・キリストは、信じる者たちの心のうちに、神御自身が光となって輝かれ、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
 イエス様は、神の光を心の内にいただき、イエス・キリストの栄光を悟る光を与えていただいている、イエス様のもとに集まってきている人たち=私たちに、私たちがイエス・キリストから受けた光を、隠すことなく、燭台の上に置き、家の中のものすべてを照らし、あなたがたの光=神からいただいている光を輝かしなさい、8つの幸いの姿を生き、人々の前に受けた光を輝かし、イエス・キリストを証しする者となりなさい、御言葉を宣べ伝えなさい―塩が世の腐敗を防ぐものであるように、滅びに定められた闇の世に神の光を灯し続け、神の光を灯すことで、神の救いがあらわされていることを世に示し、人を励まし、闇を闇のままに放り置くのではなく、神がおられること、神が暗い世を生きる人々ひとりひとりを救い出すために働いておられることを現しなさい―「あなたがたは世の光である」という言葉を、そのような意味で、イエス様は語っておられるのです。

 昨日は、九州地方を豪雨が襲い、被災をされた方々の全容もまだ掴めていない状況です。多くの人が命を失われました。
新型コロナウィルスは、一旦収まりかけたように見えましたが、また拡大の勢いで先が見えません。そんな中、今日は東京都知事選挙が行われています。感染の広がる東京にとって大切な選挙と思えますが、あまり話題にも上っていないように思われます。多くの人が押し黙り、自分の無力さを感じ、語ることを恐れているようにも思えます。
 またこの数年の世の流れは、私たちのこれまでの常識のようなものを覆されることばかりで、私たちは恐れ、また対応に窮しています。
しかし、私たちは、イエス様から「あなたがたは地の塩ですよ」「あなたがたは世の光ですよ」と、励まされている者たちです。主は私たちの心に、神の光を灯してくださり、主が共におられること、私たちは既に主のものであることを告げてくださっています。
この不安な世ですけれども、神の光が、ところどころにぽつぽつと灯されています。私たちはその中のひとりです。いただいている光を輝かせ、神の救いを証しする者でありたいと願います。
 神はすべての人を愛しておられ、すべての人が救いに入れられることを熱望しておられます。私たちは世に置かれた光、神の光をうちにいただいている者として、世に、また社会に、近隣に、主の義、神共にある者として神を証しする行い、行動をする者であるべきであり、また、世の腐敗を防ぐために置かれた塩として、ある時は世を見張り、ある時は人と人との間をイエス・キリストによって繋ぎ、その間を良い味つけを出来る、そのような者であらねばなりません。
私たちのそれぞれ置かれた場で、イエス・キリストの光を輝かせ、また地の塩としての役割を果たして行けるものでありたいと願います。