「主はすぐ近くにおられます」(2016年12月11日 礼拝説教)

「主はすぐ近くにおられます」
士師記13:2~14
フィリピの信徒への手紙4:4~9

「心が躍る」という経験を、どなたもなんらかの形で経験をされてきておられると思います。
 子どもの時代は、明日が遠足だと思うと眠れない、私はそんな少女でした。それは今でも同じで、明日から旅行!などの嬉しいことが待っている前の晩は、いい年の大人が情けないくらいなかなか眠れず、だいたい寝不足のまま朝を迎えます。心がわくわくして抑えられないのです。そのような「心が躍る」という経験、その心の嬉しさ、心の高まりというのは、私は「信仰の喜び」と非常によく似た心の情景なのではないかと思っています。

 ある時期、私はよく祈る時を過ごしていました。
 牧師なのだから、祈るのは当たり前、今こそもっともっと祈らなければならないのですが、今は祈る時、非常に具体的な教会の祈りの課題などを折々に祈るということが多いのですが、その時期の祈りは少し違っていました。30歳を過ぎた頃、大きな喪失感を覚える出来事があり、人生の大きな転機だったのですが、そこから立ち上がるために、自分自身を立て直すために、必死で忙しく過ごしていた時代でした。昼は会社で働き、夜は神学校ではない、ある趣味の学校に通って、土曜日は学校の課題や家のことをやり、日曜日は教会での奉仕。自分の心を自分の内側に向けると、悲しさしかなく、他はからっぽのような自分を奮い立たせるように、とにかく動き回っていました。そんな中、夜間の学校が夏休みになり、ぽっかりと時間が出来てしまったのです。
 ぽっかりと空いた夜の時間を、私はひとり、家での礼拝の時として過ごすことにしました。その頃、教会のご婦人からいただいたイスラエルのオリーブの木で作った小さな十字架を持つようになりまして―これは今でも大切に持っています―、それを、壁にくっつけて置いていたテーブルの前の、その壁の中央に、両面テープではりつけました。そして、小さな十字架を真ん中にして椅子に座り、その場所を礼拝する場所に決めて、毎日礼拝をする気持ちで聖書を声を出して読んで、賛美歌を歌い、祈るということを、短くとも一日1時間はそのようにして過ごすようになりました。神様に自分自身の全部を向けて、神様を賛美する時間でした。おそらくあの時期が無ければ、私は牧師になることはなかったことでしょう。
 一日1時間。たった一時間、されど一時間。イエス様は、神を賛美し祈ることを生活の中心に据えた私を、本当に喜んでくださったのだと思うのです。あの時ほど、イエス様が、私の近くに居て下さるということを実感した日々はありませんでした。いつかお話しする機会があると良いなと思っている、ある信仰の体験も、祈りの中でいたしました。喪失感しかない、からっぽだった心に火がつけられたと言いますか、まさしく聖霊によって満たされていくことを感じました。そして、心が嬉しくて仕方がないのです。自分の置かれた当時の生活の状況は、内側を覗けば空しいのですが、その反面、そのような現実とは似つかわしくないほどに、心が嬉しく、わくわくするような喜びに躍るようになっていったのです。
 当時、目白駅で降りて、神学校とは反対の方向に歩いて会社に通っていたのですが、歩いていて、心が嬉しい。「マラナタ、アーメン主イエスよ、来てください」のように、心の中に、イエス・キリストを求める御言葉が絶えず行き巡って、聖霊による力を受けて勢いよく歩いていたことを思い出します。そして、生活は徐々に整えられ、安定していきました。

 フィリピの信徒への手紙は、別名「喜びの手紙」と呼ばれるパウロの手紙です。
 お読みした4章4節では「主において常に喜びなさい」と語られており、同じ言葉が3章1節にも語られており、パウロ自身がこの手紙を書きながら、喜びに満ち溢れていることが分かるのです。
 しかし、パウロがこの手紙を書いているのは、捕らわれ、監禁された牢獄の中です。パウロは宣教の旅を続ける中、多くの困難に遭いました。何度パウロは投獄されたか分かりません。鞭打たれ、死ぬような目に何度も遭いながら、命をかけてパウロはイエス・キリストを宣べ伝えていたのです。
 1章12節をお読みいたします。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他すべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」
 パウロは、自分自身の置かれた状況を「福音の前進に役立った」と、福音宣教の観点から理解し、語っています。自分の地上の生活の安全や幸福、またパウロ自身が受けている、さまざまな困難や暴力によって受ける傷など、牢獄の中にいながら、その中にあっても福音を宣べ伝えているパウロにとっては、もはや決定的な意味を持っていないようです。パウロは、パウロが牢獄に入れられることによってパウロ自身と、兄弟たちの上に、キリストが宣べ伝えられることが、より勇敢なものになったと、自分の置かれた、人間的に見ればマイナスとしか思えない状況を福音のために寧ろ良かったのだと前向きに捉えています。そしてそのような喜びをパウロは、この手紙で絶えず語っているのです。

 またフィリピの信徒への手紙は、「喜びの手紙」であると共に、「福音にふさわしく」生きる、生活する、ということが語られている手紙です。1章27節をお読みいたします。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」。
 パウロの語る「福音」について、先週の説教でお話をさせていただきました。福音とは、神の御子イエス・キリストが世に来られた、その地上の生涯をすべてあらわすものであると同時に、パウロに於いては、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を指します。イエス・キリストがすべての人の罪の贖いとなってくださり、十字架の上で、罪を滅ぼし、そして復活をされた。この福音を信じる者たちは、罪赦され、キリストの復活と共に、新しい命へと入れられる、これが良きおとずれ、福音です。
 そしてこの手紙でパウロは、「福音にふさわしく」生きるとはどういうことかを語り、今日お読みした4章では、「福音にふさわしく」生きることの最後の勧めとして「主において喜びなさい」ということを語っているのです。

 パウロは語ります。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。これは「喜びなさい」と命令されて私たちが「喜ばねばならない」と自分の心を敢えて鼓舞して、辛いことに蓋をして無理をしてでも笑って過ごしなさいとパウロは告げているわけではありません。
 ここで使われている言葉は、「エン キュリオウ」。パウロは「エン クリストゥ」=キリストのうちに、キリストに結ばれて、と言う言葉をよく使うのですが、ここではキュリオウ、「持ち主」「主」「主人」「お父さん」という言葉を使っています。
ギリシャ語の「エン」というのは、置かれている場所をあらわす「~のうちに」「~の中に」「~において」という意味の言葉ですので、エン キュリオウとは、直訳すれば、「持ち主、主のうちにあって」、「お父さんの中にあって」という意味となりましょう。
 イエス・キリストの福音を信じる者、イエス・キリストの十字架と復活を信じる者は、生きる場所が、置かれている場所が、福音を信じる前と後では、全く違うのです。信じる前は、その罪によってキュリオス=本来の主人、お父さんとは、離された場所に生きていたけれど、福音を信じる者となった後は、キリストの十字架によって赦されて、本来の主人、お父さんである主なる神のうちに生きる者に変えられるのです。

 教会は、洗礼を授けますが、私たちが洗礼を受けるということは、イエス・キリストの福音を信じて、イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、キリストの復活の命と共に新しい、神と共にある命に入れられることです。私たちは神と共にある命のうちにありながらも、この罪の世にそれでも生きるもので、そのことをなかなか実感出来ないのですが、私たちの目には見えない神のご支配に於いて、命の置かれている場所はすっぽりと変えられています。「主にある命」に入れられているのです。
 それまで、ひとりぼっちで、世をさまようように生きていたかもしれない。しかし、福音を信じることにより、神のものとされ、神の命のうちにある者として、新しい命をいただきます。その命の中、パウロは「常に喜びなさい」と語るのです。

「いつも喜んでいなさい」という言葉、パウロはフィリピの信徒への手紙だけ語っているわけではありません。テサロニケの信徒への手紙一でも、パウロは同様のことを語っています。テサロニケに於いては、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と語ったのちに、「“霊”の火を消してはなりません」と語ります。霊すなわち、聖霊を指します。聖霊の火を消してはならないと語るのです。喜びとは、聖霊によって与えられる喜びであるのです。
 イエス・キリストの十字架によって罪赦され、新しくされ、復活の命、主人である父なる神のうちにある命の中に入れられる。これは、エン クリストゥ=キリストのうちにある、ということとほぼ同じ意味です。そのように主のうちにある命を生きる者は、聖霊の火が灯される。それは私たちの内側から溢れ出る喜びとなってあらわれます。
 イエス様は、ヨハネによる福音書7章38節に於いては、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と、私たちの内側から溢れる生ける水、泉に譬えて語っておられます。これは、「聖霊の火」と非常に近い意味で語っておられる御言葉だと考えます。
 神は父子聖霊なる三位一体の神であられます。その三位一体なる神が私たち人間に働かれる時、キリストによる赦し、神と共にある命、さらに聖霊の火がともされ、私たちが力を受け、喜びに満たされる。このように、信じる者のうちに、神は父子聖霊なる三位一体なるお方として働いてくださるのです。そして、パウロは、そのような神のうちに入れられた命を生きる者として、「主において常に喜びなさい」と語るのです。

 しかし、信じて新しい命へと入れられ、聖霊を受けているからといっても、私たちが生きる現実は、今、ここ。不完全な罪深い、また誘惑の多い世です。信じて救われても、そのまま御言葉をなおざりにして聖書を読まず、礼拝を重んじず、神を思わず、祈らないままに生きていたとしましたら、心は世の思い煩いや不満や不安に覆われて、喜びの火は消えてしまいそうになります。
内から喜び火がいつも溢れているためには、絶えず何事につけ感謝を込めて祈ること。そのようにして主にある命にしっかりと結びついていなければなりません。

 さらに、主にある命に入れられた者たちの、世にあってあるべき生き方をパウロは語ります。
「あなたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。
「広い心」とは、寛容ですとか、温和な、優しいという意味の言葉です。それを「知られるようにしなさい」というのは、「自分は寛容な優しい人ですよ」ということを分かって貰えるようにアピールするということではありません。聖書に於いて「知る」という言葉は、「認識」ではなく、体験的に「知る」ということを表す言葉です。ですから、向かい合う相手が、優しさ、寛容さを体験出来るように、行動をするということが求められていると言えましょう。
 そして言うのです。「主は近くにおられます」と。この「近くにいる」という言葉は、遠い近いという幅、間隔を表す言葉ではなく、むしろ間隔を測定することが出来ないほどの、近さを表す言葉です。福音によって、キリストの十字架と復活によって、主にある新しい命のうちに入れられている、信じる者にとって、主は距離を測ることをするよりも、もっと近くにおられる。私たちは主の命の中に入れられているということが、この「近くにいる」という言葉の意味と言えましょう。
そのような命の中に入れられていることを、私たち自身がはっきりと「知る」べきなのです。そのような者とされた私たちは、今の生きる現状が世に於いては将来の不安でいっぱいの現状で仮にあったとしても、思い煩うのはやめるべきなのです。やめて良いのです。
 私たちはついつい、ぐずぐずと悪い方へとものごとを考えて、暗く沈んでしまうことがあります。しかし既に、命は神のものです。信仰者がこの世を生きるということは、神に委ね、どのような時にも落ち着いて生活することです。パウロはテサロニケの信徒への手紙一4:11でこのように語っています。「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と。
 そして、何事に於いても、神に感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい、とパウロは語ります。
 ここで語られている「求めているもの」とは、神への感謝の祈りのうちに置かれています。私たち人間が求めるものというのは、通常、「自分に足りないもの」「不足しているもの」「不満」を補ってもらうことを求めてしまいます。しかし、「感謝をこめて」祈りのうちに求める時、その「求め」は自分の「求め」以上に、神が私たちに求めていることを知ることになるでしょう。神に向かって求めたことは、必ず、神によって受けとめられ、神の御心を通して、私たちのもとに戻されます。祈ったことは、受け入れられたことを信じて、祈って与えられたことは、神から与えられたものと信じて、感謝をもって受けるのです。感謝をもって、求めを訴え、その求めの応答を、感謝をもって受けるのです。

 その時、主はすぐ近くにおられることを、私たちは「知る」ことになるでしょう。私たちは神の命のうちにあり、命のうちにある者の祈りを、神は受け止められ、御心をもって返される。その時、私たちの心は、平和と喜びで溢れるに違いありません。
主におけるいのちは、平和と喜びです。
 それは、たとえ、世を生きる今の状態がどのようなことであろうとも、必ず与えられる、人知を超えた、溢れるような喜びです。
 そして、その喜びは、まことのいのちを生きる力へと変えられていきます。

 パウロ自身、牢獄に居て、取り巻く環境は劣悪で、命の危険にさらされる、人の目には希望の見えないような状況にありながら、パウロは喜びに溢れておりました。
 この喜びは、イエス・キリストの十字架と復活の福音によって救われた者すべてに与えられ得る喜びです。
 主に信頼し、主のいのちのうちを、福音のうちを生きて参りましょう。主はすぐ近くにおられます。

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