「エルサレムへ」(2017年1月22日 礼拝説教)

「 エルサレムへ 」
ゼカリヤ書9:9~10
ルカによる福音書19:28~48

 アメリカ新大統領が就任いたしました。国家元首という、あまりにも大きな権限を持つ、世界の大国の大統領が、聖書に手を置いて誓いを立てました。聖書の時代と照らし合わせれば、この世の権力のすべてを掌握した王のような立場の人。聖書に誓いを立てたのですから、この人が聖書の御言葉の前に忠実にかつ謙遜に立ち、誓いを忘れることが無いことは勿論、また自分の願望に合う御言葉を聖書の中から探すのではなく、御言葉そのものが語ることに聴き、イエス様がそうであられたように、あらゆる偏見や差別、暴力を退け、弱い人と共にある平和を打ち立てる人として、歩むことを祈ってやみません。

 先週は「ムナの譬え」をお話しさせていただきました。エルサレム入場を前に、群衆がイエス様を、自分たちを今すぐに救ってくださるこの世の王、救い主になられる方と思い、その期待が熱狂的に高まっている時、イエス様はご自身は群衆の望むような、地上の王になるのではない、そのあり方は世の王や権力者とは違うのだということを語りつつ、まことの王の位を得るために、「遠くへ旅立たねばならない」、遠くへ行かなければまことの王、救い主・キリストとなることが出来ないのだという、イエス様の十字架の死と復活、昇天を暗示させつつ、主のひととき遠くに行かれている世に、残され生きることになる弟子たち、そして後の世の私たちに対しても、神から平等に与えられるキリストの僕としての権利を、どのように主が再び来られる日まで用いて生きるかを、それぞれが問われる譬えであったということを語らせていただきました。

 ルカの講解説教を続けていて、つくづく思うことは、イエス様の語られることの多くは、聞く者にとって実は心地のよい言葉ではないということです。心地のよい愛や励ましや勧めを絶えず語って下さったらどれだけ分かりやすく、納得出来るかと思いますが、イエス様の言葉は一筋縄ではいかず難解です。
 旧約の時代、バビロン捕囚の少し前の時代、厳しい神の裁きの言葉を発する預言者エレミヤの言葉が人には退けられ、心地良い、偽の預言ばかりを語った預言者ハナンヤの言葉に人々は耳を傾けていた、という記録がありますが、人は自分に心地よい言葉を求め、また自分の願望に沿った心地のよい言葉に聴く性質があるということも思います。聖書を読む時、私たちも絶えず自戒しなければ、自分の意に沿わない御言葉は脇へ追いやり、自分の好む御言葉だけを携えて信仰生活をする、という過ちに陥りかねません。聖書はすべて、私たちに心地良い言葉も、引っかかって時に目を背けたくなるような言葉も、すべて神からの言葉です。
しかし、この時、イエス様の周囲にいた人々、そして弟子たちすらも、恐らくはイエス様が語られた厳しいムナの譬えを聞きながらも、その意味を理解せず、イエス様の思いを実は分からないまま、自分たちの願望だけをイエス様に投影しつつ、イエス様の周りを取り囲んでいたのだと思われます。そのような、人々の思いとイエス様の思いに隔たりがある中、イエス様は、遂に時を迎えられ、人々に先立ってエルサレムへと上って行かれます。

 エリコから山道を登り、エルサレムの東側、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいた時、主はふたりに弟子に、「そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい」と命じられます。そして更に、「だれかが『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と言われました。
 これは、イエス様の奇跡のひとつと言えましょう。イエス様は初めて出会ったザアカイの名前を知っておられたように、人間には知り得ないことを知る力がおありでした。
 弟子たちがイエス様に示された村に入りますと、そこには繋がれた子ろばがおり、それをほどいているとその持ち主たちから、イエス様の言われたとおりの問いかけがあり、弟子たちは主が言われたとおり「主がお入り用なのです」と答え、そして子ろばをイエス様のところに引いて来ました。
 ここで「主が」とありますが、原文では子ろばの本当の主人という意味で「その主人=子ろばの主人」と書いてあります。「子ろばの本当の主人は、人間であるあなたではなく主なる私であり、私がそのろばを用いる時が来た」と、イエス様はおっしゃっているのでしょう。何故なら、このことは旧約聖書の預言の成就でありました。ゼカリヤ書9章をお読みいたしましたが、「王は高ぶることなく、ろばに乗って来る」、そのとおりのことが起こったのです。
 当時、馬とは軍馬、戦いのための動物でした。主は、世のありていの戦いによって勝利を収められる王ではありません。世の戦闘によって勝利される王ではない、まことの王であられるイエス様が必要とされたのは、立派な強い馬ではなく、小さな無力な、子どものろばでした。主が必要とされるのは、世にあって強い者ではない。小さな無力な、片隅にいる目だたない存在、神はそのような存在を、ご自身の働きのために必要としておられるのです。この子ろばが主のご用のために用いられることを思う時、私なども、自分では何の力もないような罪人が、罪人であるが故に、罪をイエス様に贖っていただき=買い取っていただき、主の者となり、弱いところを強くしていただき、主の働きに就いていることを思うのです。

 また、ここで、子ろばの飼い主が、「主がご入り用なのです」という言葉にすぐさま応答して、子ろばを弟子たちに差し出したということ。自分がろばの主人であると思っていた筈ですが、まことの主人は旧約聖書で預言されていた救い主であったのだということを、このろばの主人は、この時悟ったのでありましょう。そして自分のろばを主のために差し出しました。
主の山には備えがあり、備えられているところに人々の信仰があるとでも言うのでしょうか。私たちも、私たちの信仰の故に、神の思いがけないご計画の中、備えられている者として用いられてみたいと願うものです。

 人々はイエス様の進まれる道に自分の服を敷きました。
 エルサレムへの入場行進は、その時代、多くの王や征服者たちが繰り返し行ったことであったと言います。王を歓迎する人々は、身につけている高価な服を敷き、王を迎え入れたと申します。集った人々は、イエス様のエルサレム入場に、世の王、征服者の凱旋を思い描いていたことでしょう。ついさっき語られたイエス様の厳しい言葉、ムナの譬えは忘れられ、人々は今すぐにでも、神の国が地上に来ると信じていたのです。
 この時イエス様の周りには、漁師、徴税人、貧しさに医者に掛かることも出来ず、イエス様にさまざまな病気を癒していただいた人たちが、多く取り巻いていたことでしょう。イエス様のご生涯は、そのように貧しく、病を持つ人々と共にありました。イエス様は、人々の苦しみに寄り添われ、癒し、他の人たちがその人を受け入れようとしない時にも、人を受け入れ、希望を与え、神の愛を現されたからです。
 彼らの多くはこの時、取り巻きとして主と共にいて、イエス様の入場の時に敷かれた服は、王や征服者を迎える人々の高価な服ではなく、彼らによって敷かれた、擦り切れたショールや、汗とほこりにまみれた古着であったことでしょう。

 しかし彼らは希望に溢れていました。今こそ、イエス様が王となるために、旧約聖書に書かれていたとおりに、ろばに乗ってエルサレムへと入って行こうとされている、その姿を目の当たりにしているからです。イエス様ご自身も、その時が聖書の預言の成就の時であることを、勿論知っておられました。しかし、人々の願う「神の国」と、イエス様が実現しようとしている「神の国」は、全く違うものです。
 人々はイエス様の思いを理解しないまま、自分たちが見て、また体験したあらゆる奇跡を喜んで、声高らかに賛美を始めました。
「主の名によって来られる方。王に祝福があるように。天には平和。いと高きところには栄光」
 これは詩編118編からの賛美です。主なるヤハウェの名によって来られる方、王に、祝福があるように――群衆は、イエス様を「王」と呼び、先のムナの譬えはどこ吹く風。目の前に現れんとしている神の国の到来は今か今かと興奮の絶頂です。人々の熱狂的な言葉に包まれて、イエス様は子ろばに乗ってエルサレムへの道を歩まれました。
 
 そしていよいよエルサレムに近づき都が見えた時、主は都=エルサレムのために泣いて言われました。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中に石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」と。
 イエス様が泣かれた、ということが書かれている箇所は、聖書の中で、このエルサレムを思って泣かれたということと、ラザロが死んだ時、マルタとマリアの姉妹はじめ人々が泣いているのをご覧になり、涙を流された、この二か所だけです。
 この時、イエス様はこの時から40年後に実際に起こった、エルサレムがローマによって陥落させられることを、神の目でその起こる未来を見ておられたのでありましょう。当時のことを記した歴史書によれば、エルサレム陥落によって、人々は飢えて、子どもを地に叩きつけて殺したこと―そして食べた―ということが記されています。また神殿の石は破壊されてしまうこと、それらの差し迫った残虐と破壊の起こることを、神としての目で見て、泣かれたのでありましょう。
 そして、「石」ということで言えば、39節で、ファリサイ派の人々が、イエス様に「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った時、イエス様は「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」と不思議な言葉を言われましたが、この叫び出す石とは、迫害され、苦しめられた人々の流した血を受けた、壊された石なのではないでしょうか。
 旧約聖書創世記3章で、兄のカインが弟のアベルを殺した時、主なる神がカインに「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」と、言われましたが、それと同様に、救い主到来の喜びに叫んでいる人たちが、黙ったとしても―それが仮令、的外れの神の国の認識であったとしても、叫んでいる人々にまことの救いが必要であることには違いなく、神は、イエス様に従っている貧しく虐げられた人々の叫びを聞き届けられる。そして、過去のエルサレムに於いて行われたさまざまな残虐なことども、また未来に起こることに於いて、苦しめられた人々の流された血のしぶきを受けつつ、崩された石が、人々が救いを求める声を止めたとしても、イエス様にまことの救いを求めて叫び出す、救いを求める声を止める事は出来ない、また、神はその救いを求める声に答えられるということなのではないでしょうか。

 涙を流されたイエス様は、神殿の境内に入られ、そこで売り買いをしていた商人を激しく追い出されました。この事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書が共に記しており、弟子たちにとって衝撃的な出来事であったようです。主は言われました。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」と。
 神の支配の中にあって、特別な意味を持つエルサレムという町、ご自身が苦しめられ、死を迎える町に、イエス様はこうして入場されました。神の宮を清めるために商人を激しく追い出したイエス様に対し、人々は驚いたことでしょうが、その後、境内で教えられるイエス様の教えに夢中になって聞き入っていたと、ルカは語っています。

 聞き入っていた人たちは、イエス様の言葉を本当に理解したでしょうか?この後、しばらくすれば、ほとんどすべての人が、心を変えて、イエス様を憎み、「十字架に架けろ」と叫び出すことになります。
 人々は、本当の意味で、「神の言葉を聞く」ことをせず、どこまでも、自分の願望を、イエス様に対して投影していただけなのではなかったのでしょうか。
 自分の願望の投影、それを聖書は「偶像」と呼びます。旧約聖書の十戒の第二番目の戒めは、「あなたはいかなる像も作ってはならない」、即ち偶像崇拝を排除する教えでした。
 十戒で一番大切な第一の戒めは「わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めですが、第一の戒めから瞬く間に人間の目を逸らすのが、第二の戒めの「偶像」です。ですから、聖書は徹底的に偶像を排除します。
 しかし、このエルサレム入場の時、人々は、イエス様の言葉をそのまま聞かず、また理解せず、イエス様を今すぐにでも、自分たちを救い、神の国を地上に打ち立てる王として、自分たちの願望の目でイエス様を見ていました。まことのお方を前にしても、人々はこの時、自分の願望をイエス様に投影していたのです。
 そして、この後、しばらくして、イエス様が打ちたてようとしている神の国は、自分たちの願望とは違うものであったということを知り、思いは憎しみに変わり、イエス様を十字架へと追いやるのです。

 私たちの中にも、イエス様に対し、自分の願望を投影たり、自分勝手なイエス様像をつくり上げていたりすることはないでしょうか?自分の願望を投影し、自分で作り出した、自分に都合のよいイエス様像を「信仰」していないでしょうか。すべての御言葉に従順に聴こうとしておられますでしょうか。
 福音書の講解説教をしておりますと、「どうして?」と思い、語り難い御言葉にもしばしば出くわします。しかし、私たちは、まことに主はどのようなお方であられるか、その厳しさも受け止め、そして私たちに今すぐ理解の出来ないことに対しては、知る事が出来るよう、まず礼拝を守ることを重んじつつ、謙遜に祈り求める者でありたいと願うものです。

 エルサレム―遠い昔には、アブラハムがイサクをささげたモリヤの丘であり、ダビデ王が契約の箱を携えて上り、ソロモン王が神殿を建て、やがて破壊され、多くの涙と血が流された町。
 この町は多くの血が流された町ではありますが、エルサレムという名前は「平和」を意味する名称であると言われています。
主は、平和の王。武力に拠らず、自らを誇るために人を抑圧したり、国のために戦いで人が死ぬことは当たり前だなどと言うような支配者などとは、全く対極にある、人を生かすために自らを犠牲として与えるお方です。
 まことの王なるイエス・キリストは、すべての人の救いと平和を与えるために、自らを犠牲とされました。まことの王なる主は、人々を自分のために利用する王ではなく、人々のために身を、命をささげるお方です。その流された血によって、その受けられた苦しみによって、人間には罪の赦しと救いの道、神と共にある永遠の命への道が拓かれることになったのです。
聖書の最後のヨハネの黙示録の最後の最後、21章に、新しいエルサレムが天から到来する場面があります。これが、イエス様の目指される、まことの神の国です。新しいエルサレム、神の完全な支配、神の国に、私たちもいつの日か、イエス様と心を同じくして、高らかに主を賛美しつつ、子ろばに乗った王と共に、エルサレムへと入場する時を待ち望みたいと思います。