「完全な賜物」(2017年3月5日 礼拝説教)

創世記1:1~4
ヤコブの手紙1:12~18

 受難節に入りました。
 お読みした創世記1章2節では「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」とあり、その闇と混沌に向かって「光あれ」と神が言葉を発せられ、光が生まれたと語られています。神の言葉によって真っ先に造られたものは「光」でした。神が創造のはじめに光を造られたということは、「混沌」「闇」に対する神の勝利宣言であったと言えます。
 そして「ヨハネによる福音書」1章では、神が発した「言葉」それがイエス・キリストであり、その言葉によって万物は造られたということが明かされ語られています。さらに「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と、神の言葉なるイエス・キリストが、人として世にお生まれになられたことを告げているのです。
「ヤコブの手紙」1:17では、「良い贈り物、完全な贈り物はみな、うえから、光の源である御父から来るのです」と語られますが、「完全な贈り物」とは、まさしく、光を造られた神のひとり子イエス・キリストをあらわしています。

 しかし「完全な贈り物」として、神が人に与えられたキリストの歩まれた道の終わりは、十字架の死という苦しみの極まりの死でありました。人間の目には、あまりにも惨い死です。イエス様は、ご自身は全く罪の無いお方であられましたのに、人に裏切られ、罵られ、犯罪人のひとりとして殺されるという、世の理不尽の極みを味わわれ、体に於いても、心に於いても、また霊に於いても、人間の経験し得る極限の苦しみを味わわれました。主イエスは、私たち人間の痛み苦しみのすべてをその身に負われたのです。そして、自らの罪を悔い改め、罪の赦しを求める者に、イエス・キリストの十字架をその御苦しみを通して、罪の赦しと救いの道を拓かれたのです。

 これは神がなさったこと。神の御業。神は、人間を愛し、私たちのために私たちに代わって苦しみを受け、命を捨てられました。そして、ご自身の復活を通して、信じる者たちに救いを、新しい命を与えてくださいました。それは、キリストを信じる者たちが、その信仰によって、造られたものの初穂となるためであるとヤコブは語ります。
 聖書は、神が終わりの日にすべてのものを新しくすることを告げておりますが、その日に先立って、キリストを信じる人たちが新たにされることを告げております。
 旧約聖書の律法に於いては、すべての収穫物の初物は、神にささげられておりました。それは、私たちが世で与えられているものはすべて、神から与えられたものである、という信仰の表明でした。それと同様に、イエス・キリストを信じ、救われた者は、神の御前にささげられる尊い初物のささげものであると言うのです。イエス・キリストを信じる者は、真理の言葉なるイエス・キリストを通して、新しく生まれさせられた者、神にささげられる尊い初物のささげものです。

「完全な賜物」とは、イエス・キリストに他なりませんが、もうひとつ「良い贈り物」ということが語られています。「完全な贈り物」は、十字架という計り知れない苦しみを通して与えられたものでした。
 旧約聖書コヘレトの言葉3章11節に「神はすべてを時宜に適うように造り」とあります。神はすべてを時宜に適うように造られている―そして、良い贈り物をくださいます。しかし、私たちは自分たちの人生に与えられるすべてのことが「良い贈り物」と思い、受けとめることが出来ない者なのではないでしょうか。むしろ、私たちの目には悪い贈り物として感じられることが少なからずあります。実際、私たちの日常には「なぜ」と問わざるを得ないようなことが起こります。この世界の現実を見ていても「なぜ」と問わざるを得ない。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜこんな目に遭うのか」。

 ヤコブはこれら「何故」と思わされるような、「良い贈り物」と思えないことを「試練」という言葉で語っています。
 今日の箇所の小見出しに、「試練と誘惑」と記されておりますが、この「試練」と「誘惑」という言葉、ギリシア語に於いては同じ言葉が使われています。「試練」と思われることは、それを受け止める人の心によって、試練にもなれば、誘惑にもなる、そのような意味合いを含んでいるのです。
 しかし、「試練」とは、元来、神からの「良い贈り物」なのです。お読みした箇所の前、1:2に於いて、ヤコブは「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」と語っています。「何故」と思わされるような、「良い贈り物」と思えないことを「この上ない喜びと思いなさい」と語っているからです。

 このような御言葉に出会いますと、私たちはしばしば立ち止まらされます。「試練を喜ぶなんて出来ない」「私の心の方向とは違う」と。
 しかし、聖書はさもそれが当たり前のようにそれを語ります。そして、言うのです。「試練に耐え忍ぶ人は幸いです」(12節)と。そこには、私たち人間の心の思いとは別の、神の側の論理があります。
 
 13節では「誘惑に遭う時、だれも『神に誘惑されている』と言ってはなりません」とありますが、ここで使われる「誘惑」という言葉は、「試練」と同じ言葉ですが、試練を受けた人間の受け取り方が、問題とされて、敢えて「誘惑」と訳されているのだと思います。試練に遭うと、私たちはしばしば、人生のマイナス方向へと誘われます。勇気と希望を失いかけます。絶望や諦めへと傾きます。心くすぶり、自己中心的になり、他者を大切にすることが見えなくなります。そして何より、神に対する信頼を失うことすらあります。信仰が揺らぎ、神と神の愛が見えなくなります。
 そのような私たちの気持が、「神に誘惑されている」(13節)という言葉に表されています。それは、何か良くないこと、悪いことが起こると、神すら悪いお方のように思えてしまう。
 この言葉と、そのようなことを言う人々が居たという背景には、何か悪いことが起こると、他の人のせいにしてしまいがちな人間の性質と共に、当時の社会にあった、ギリシャ神話の神々の影響などもあるのではないか思えます。ギリシャの神々というのは、さまざま人間にいたずらをしたり、誘惑をしたりいたしますから。そのように「神」が「悪に誘惑する」というイメージは、多神教的な、また自分の願望を神に投影する偶像崇拝的な考え方に見られるもので、日本人も、そのような神認識をする人々は多いように思えます。そして、誘惑にあったことを神のせいにし、「神がこうしろと言うのだから仕方ない」のように、投げやりに、自分の欲望の赴くままに自分を貶めてゆく。そのようなことは起こりえることです。ヤコブは、私たちの人生が良くない方向へ傾く原因を、私たち自身の内側に見ているのです。
 しかし、私たちと神との関係は、人格的な愛の交わりの関係です。神は私たちを命を捨てるほどに愛してくださり、私たちによきものを与えようとしておられるのです。神の愛は、私たちの親が子を愛し、間違った方向に行こうとすると戒める、そのような親と子の関係に似ています。

 試練に遭った時、私たちは変化を求めます。外側の状況が変わりよくなることをまず願います。しかし、神は人間の心を見るお方です。私たちをまことにご自身の子として相応しい者となることを望んでおられます。試練を通して、私たちの内側が変えられることを望んでおられます。試練の中で何が起こってくるのか。そこで「信仰が試される」のだと2:3は語ります。どこまでも信じるのか、信仰に留まるのかが問われるのです。
 そこでなお信じるとするならば、真剣に神に向き合わざるを得ません。心を神に向け、祈ります。神の御心を求めます。目を凝らし、耳を澄ませます。するとより良く見えてくる。より良く聞こえてくる。信仰による希望がはっきりと見えてくる。神の言葉、イエス・キリストそのお方そのものである、聖書の御言葉が、読む毎に私に強く訴えかけてくる。そのようなことが試練の中で起こるのです。
 神は、試練を通して、私たちが神を深く知る知識に満たされ、新しい希望に満たされて、どんな時でも、神を愛し、自分を愛し、隣人を自分のように愛し、謙遜に神の御心を生きる者となることを求めておられます。

「思い違いをしてはなりません」(16節)と、ヤコブは注意を喚起します。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(17節)。 
 最初の神の被造物である光には、「移り変わり」や「影」(17節)があります。光も被造物であるからです。それと同じように、神に造られた私たちの人生にも移り変わりがあり、影があります。喜びや楽しみもあれば、苦しみや悲しみの時があります。
 けれども、「光の源」(17節)である父なる神は、変わることなく私たちを照らし続けておられます。そして、試練に耐え忍ぶ私たちを、「命の冠」を得ることが出来るよう、導かれます。
 何故なら、「完全な賜物」であられる、イエス・キリストは、苦しみを受けられましたが、復活され、今も生きて働いておられるからです。闇は光へと変えられたからです。イエス・キリストに対する信仰によって、私たちにとって、「闇」と思える試練は、キリストにあって光に変えられ、復活の新しい命へと導かるのです。
 神は既にすべての闇に勝利されている。私たちは、光の源なる神の、その支配にあるということを絶えず心に留めたいと思います。そして、信仰によって希望を抱きつつ、試練を通して備えられている神の新しい創造の業を仰ぎ望みたいと願うものです。

 今日の礼拝では、神からの完全な賜物であられる、イエス・キリストを信じ、罪の赦しの洗礼を受けられる姉妹がおられます。先日牧師と話をしておりました時、姉妹は、「この私が洗礼を受けるなんて奇跡だと思う」と言われました。奇跡、私たち人間の側からすれば、そうとしか思えないことかも知れません。しかし、主は洗礼を受けられる姉妹を生まれる前から知っておられ、姉妹が新しい命へと入れられるこの時を待っておられたのだと思います。そのために、イエス・キリストは世に来られたのですから。この時を与えてくださった、主なる神、イエス・キリストの限りない愛に感謝いたします。

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