「言葉は世にあった」(2017年4月23日礼拝説教)

創世記1:1~5
ヨハネによる福音書1:1~18

 先週は主のご復活、イースターを多くの主にある兄弟姉妹と共に、祝えましたことを感謝いたします。
 主が死を「打ち破り」復活された―時々「死を越えて」「死を乗り越えて」と、言ってしまいそうになるのですが、主は死を「打ち破り」復活されたのです。陰府と呼ばれる旧約聖書の時代の死の国、滅び行く者の国を打ち破り、永遠の命に至る救いの道を拓かれました。そしてただ、イエス・キリスト、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えられました。信じる者には、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって新しく生まれさせられる、そのような命の道を、主なる神は、イエス・キリストの十字架と復活を通して拓かれたのです。

 その命を、ヨハネはゾーエーというギリシア語で語ります。ゾーエーとは、神と共にある永遠の命をあらわす言葉です。それに対し、滅び行く人間の命は、プシュケーという言葉です。イエス・キリストのうちには、プシュケーではなく、ゾーエー=永遠の命があると語るのです。ゾーエーとは神の領域に於ける、滅びることが無い命であり、イエス・キリストのもとにある命。そして、その命は、人間には陰府を打ち破り、復活されたイエス・キリストを通して、イエス・キリストを信じる信仰に於いて与えられるようになった新しい命です。
 何という不思議な出来事でしょうか。何という神の愛でしょうか。

 金曜日、私たちの愛するTK姉が御許に召されました。105歳4ヶ月というご生涯でした。TK姉は、昨年7月31日、104歳で洗礼を受けられました。TK姉は、幼少の頃から教会に通っておられましたが、洗礼を受けるまで100年近く掛かられたことになります。どうして洗礼を受けないままだったのか、分かりません。何となく機会を逃してしまったままだったのかも知れません。しかし、主はTK姉を愛しておられ、どうしても御救いにお入れになられたかったのでしょう。104歳のTK姉は、娘さんのHY姉の信仰を通して、20年近く前に通っていたこの教会に再び来られ、牧師の「イエス様を信じて洗礼を受けますか」の問いに、はっきりと三度頷かれ、洗礼へと導かれました。
牧師が最後にお会いしたのは、先週の日曜日。イースターエッグをお持ちし、訪問をいたしました。帰り際、「また来ますね」と言いましたら、その時は、ぱちぱちとまばたきをふたつして、明るい顔でお返事をくださいました。TK姉は、牧師のことをはっきりと覚えておられ、またお会いする毎に、健康で命の輝きに満ちておられ、主と共にある、新しい命を喜んでおられることを感じました。
TK姉は、ご家庭でよく賛美歌を歌っておられたと聞きました。TK姉のご家族は、TK姉が歌っていらしたので賛美歌を覚えられたと言っておられました。
そんなTK姉は、イエス・キリストにずっと愛され、またイエス・キリストをずっと愛しておられたに違いなく、遂にその信仰を告白し、そして神の子となる資格を与えられ、与えられたこの世の生を全うし、今、天の御国で、主の許で安らいでおられることを信じます。TK姉が、信仰の告白と洗礼によって与えられた命は、イエス・キリストの十字架と復活を通して、人間に与えられるようになった命。TK姉は、イエス・キリストを通して神の子となる資格を与えられ、古い体を脱ぎ捨て、天におられるイエス・キリストの御許におられます。この希望は、私たち、ひとりひとりにも与えられている命の希望です。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」
 ヨハネによる福音書、冒頭の言葉です。不思議な不思議な言葉です。初めに言葉があり、その言葉は神と共にあり、また、言葉が神であったというのですから。
 ヨハネ福音書の著者は、この言を、永遠の命の源であられる、イエス・キリストを指し示すものとして語っています。
「初めに、イエス・キリストがあった。イエス・キリストは神と共にあった。イエス・キリストは神であった」
 このように読み替えることが出来ましょう。

マタイ、マルコ、ルカという三つの福音書は、共観福音書と呼ばれ、同じ資料を基に書かれたと言われており、書かれていることが同じに思える箇所も多くあるのですが、ヨハネ福音書は違います。独特のイエス・キリスト理解があります。
これまでルカによる福音書の講解説教を続けて参りましたが、今日からヨハネ福音書の講解説教を始めさせていただきます。ルカは、3年半読み続け、終盤に入り、イエス・キリストのご受難の語られるところに入って参りましたので、時々、ルカに戻りつつ、ルカについては、出来れば今年度の受難節を中心に読み進みたい、出来れば次のイースターはルカを読みたい、そのように考えています。

イエス・キリストを、ヨハネによる福音書は「神の言」と語っていることを申し上げました。
「初めに言葉があった」、この最初の言葉は、旧約聖書創世記第一章で、神が万物を創造される時、「光あれ」と神が言葉を放った時、「こうして光があった」と語られていますが、神の言とは、その言葉によって万物を造られた言葉です。つまりこの言とは、言葉が発せられることによって事柄を起こすのです。旧約聖書ヘブライ語のダーバール=言葉とは、「言葉」という意味と同時に「事柄」も意味する言葉であるのです。その神の創造の初めから、神と共にあった「神の言」が、神の御子イエス・キリストである、とヨハネ福音書は語るのです。
これは、言は神の被造物ではなく、言は創造以前にあったもの、言は時間のうちに存在するような私たちの住む世界の一部ではなく、言葉は神と共にある永遠の一部であり、時間と世界が造られる以前に神と共にあった、神ご自身である、ということ。言い換えれば、世界を創造した神の力であるとも言えましょう。
そのように万物、すべてのものは、この言なるイエス・キリストによって成ったというのです。

さらにその命は人間を照らす光であると語ります。イエス・キリストが世の光であると語るのです。
光は暗闇を照らします。「人間を照らす光」と語られているこのことは、私たち人間―はじめの人アダムの罪によって、神から引き離された世に生きる人間の世は、暗闇である、ということでしょう。
世とは、ギリシア語でコスモス。神によって、神の言を通して造られた神の被造物でありますが、罪によって神から引き離された、現在の世界を意味する言葉です。さらにヨハネ福音書は、コスモスを、悪の力に支配されているということを強調いたします。
今、世の中を見渡すと不穏な事柄があまりにも多く、戦争や戦争の噂すらある。国と国、民族と民族が憎み合い、人の命を奪うことを、それぞれの「正義」のもとにいとも簡単に行おうとする世の為政者たちがいる。私たちは不安です。特に若い人たちのための未来はどのようになるのだろうと思います。
しかし、永遠の命の光なるイエス・キリストは、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのです。すべての暗闇は、イエス・キリストの光によって照らされているのです。そして、すべての人を、悔い改めと救いへと導こうとしておられます。

しかし、光はすべてに届いていないように思える。それは、多くの人々がその罪によって、光を理解せず、光に背を向けているからなのではないでしょうか。
光に向き直れば、そこは明るい。しかし、光に背を向け、光に映し出されている自分の影ばかりを見つめていると、自分に与えられているまことの光に気づきません。
先日、私は車を降りて、夕方の明るい光の中、駐車場を歩いていました。私の影が傾いた太陽の明るい光に照らされて、長くアスファルトに映し出されていて、私は自分の影を見つめながら歩いていました。影ばかりが気になりました。そこに車がやってきました。影を見つめていた私は、咄嗟に自分の影が車に轢かれてしまって可哀想だなぁなんてばかなことを考えました。でも、影は車に轢かれてしまったりはしませんでした。私の影は車の下に隠れたりはしませんでした。通った車に私の影はしっかりと浮き彫りにされ映っていて、影はどこまでも光によって写しだされていました。影ばかりを見つめ、自分の影が轢かれて咄嗟に可哀想だなんて思った自分に苦笑しました。光はすべてをどこにあっても映し出す。しかし、人間が光に背を向けて、自分を映し出す影ばかりを見つめていると、くだらないことに囚われた思いにかられて、本当のことが見えなくなる、柔軟な考えが出来なくなるいうことも、本当に小さな小さな日常の経験から思いました。向き直れば、そこに光があるのに。

光なるイエス・キリストは、私たち人間を、罪の暗闇を絶えず照らし、私たちが光に向き直った時に、必ず「そこにある」、そのような光です。しかし、暗闇は、人間の罪は、光を理解しないのです。罪ある人間は、イエス・キリストをなかなか理解することは出来ないのです。
イエス・キリストは十字架に架けられ、死なれましたが、復活されました。鞭打たれ、血を流し、苦しみぬいて死なれたイエス様。そのような、人の目に弱くみじめな姿の極まりを人前にさらしたイエス様を、人はどうして神であることを理解出来ましょうか。人間は、この肉体にある目に映ることでさまざまなことを評価いたします。立派な姿で、偉そうにしている人を見ると、もしかしたら、本当に立派な人なんじゃないかと思ったりする。イエス様の十字架のお姿は、本当に悲惨なものでした。そのお方が復活されたと言われても、また復活ということは、人間の持つ常識と言われるものの中には存在しない概念でありますので、とても信じられない。人間は、自分の影だけ、自分の目に映るところだけを見ていては、神のまことの光を理解することは出来ないのです。
また、世は言によって成った。けれども、世は言を認めなかったとも語られています。言はイエス・キリストであり、光もイエス・キリスト。人間は、イエス・キリストを受け入れることが本当に難しいのです。

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名=イエスの名を信じる人々には、神の子となる資格を与えられました。
神の言であり、光であるイエス・キリスト。
神の言は、すべてが造られる前から神と共にあられた神であり、光は神の言によって造られた最初の神の被造物です。
イエス・キリストはすべてに先立つ神であられ、また、神の最初の被造物であったとも言えます。イエス・キリストはまことの神であり、またまことの人である。これが私たちの信仰ですが、その前触れが、神の言と、言葉によって造られた光、その両方がイエス・キリストである、というヨハネの言葉に込められています。

さらに、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とヨハネは語ります。
すべてのものに先立ち、神と共にあり、神であられるその言が、肉=人間の体をとって世に来られたのです。
そのお方が、イエス様。聖霊によってマリアの胎に宿られ、大工ヨセフの子としてお生まれになり、ガリラヤ湖のほとりで大工として生きられた、イエスというひとりの人。そのお方として、神の言が世に来られました。
その言葉には権威があり、神のひとり子としての栄光を帯びて、恵みと真理に満ちておられました。
旧約聖書の時代、神はモーセを通して律法という、神への礼拝の仕方と、人間の行いに関する掟を与えられましたが、人間にはそれを行いきることは出来ませんでした。人間の罪は律法を行うには、あまりにも重過ぎました。
そのような人間に対し、神は遂に、神ご自身が人間と同じ肉を持つ人として世に来られ、人として生きられ、神の国を教え、最期はすべての人の罪をその身に背負い、十字架の上で死なれました。
律法では人間の罪の贖いのために、牛や羊など、限りない数の動物たちが殺されていきましたが、神が肉となって来られたお方、イエスというひとりの人が、動物の犠牲に終止符を打たれ、神の御子自らが、人間の罪の犠牲として、十字架の上で死なれました。

イエス様の十字架―それこそ、神の栄光の現れでした。神は罪深い人間をどこまでも追い求め、救おうとされます。人間の滅び行く命―プシュケーを超えて、罪と死の縄目を打ち破り、イエス・キリスト、その名を信じる人々に、ゾーエー=永遠の命を与える道が拓かれました。
イエス・キリスト、恵みと真理に満ちておられるそのお方を通して、神は、ご自身がどのようなお方であるかを示されたのです。

私たちのすべては、このお方を信じ、永遠の命を受ける、その真理の道へと招かれています。このお方を絶えず見上げ、自分自身の影ではなく、私たちを絶えず照らす光を見つめ、まことの光の道を、まことの光の道を見いだし歩む者とならせていただきたいと願います。そして、神の言である、イエス・キリスト、その言葉、神の言葉そのものである聖書の御言葉に、どんな時も絶えず聞き、それを行う者となりたいと願います。
さらに、世がイエス・キリストを理解し、その恵みと真理を受け入れるように、絶えず祈り続けたいと思います。
光は、世に来てすべての人を照らしておられます。
神の言、そして神の光、私たちはこの神から与えられた真理なるイエス・キリストを見いだし、信じ、まことの命の道を歩む者とならせていただきたいと心から願うものです。
神の言であり、まことの光であるイエス・キリスト。そのお方が何を語り、何を為されたのか、ヨハネによる福音書をこれから味わいつつ、神の栄光を仰ぎ望みたいと願います。

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