「イエスは知っておられた」(2017年6月11日礼拝説教)

創世記28:10~19
ヨハネによる福音書1:43~51

 今日の御言葉には、ナタナエルという人が出て参ります。この人は、イエス様の弟子となったとここで語られておりますが、他の福音書に於いては12弟子として名前はありません。
 他の福音書によりますと、イエス様の弟子の名前は、シモン・ペトロ、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、今日出て来ました、フィリポとバルトロマイ、トマス、マタイ、アルファイの子ヤコブ、タダイ、シモン、ユダの12人です。
 そして、フィリポの後に名前の出てくるバルトロマイという名前は、ヨハネによる福音書には出て参りません。バルトロマイという名前は、ヘブライ語で、バル=息子、トロマイ=人名で出来ている名前で、トロマイの息子という意味です。シモン・ペトロは、「シモン。バルヨナ」、ヨナの息子シモンと呼ばれている箇所がありますが、シモン・ペトロの「バルヨナ」=ヨナの息子と同様に、バルトロマイという名は、トロマイの息子という意味であり、ある意味バルトロマイとは「苗字」のようなもので、この人自身の名前は、ナタナエルなのではないか、そのように思うと合点がいきます。しかし、これはあくまで推測です。
 ナタナエルという名前は、ヘブライ語のナタン=与えるという言葉と、エル=神という言葉が合わせられた名前です。「神が与える者」という、非常に信仰的な良い名前だと感じます。名前は、聖書に於いて、その人の人格を表します。その良き名に加えて、イエス様は、ナタナエルを「見て」、ナタナエルのことを「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われました。イエス様は、ナタナエルのことを、ものすごく褒めておられるのです。
 しかし、賞賛されているナタナエルですが、その直前で、フィリポから「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子だ」と言うことを聞いた時、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と、フィリポの証言に対し、否定的というか、懐疑的な言葉を返している。素直で、ただ信仰深い人という訳ではなさそうです。

 今日は名前のことばかりを言っていますが、このイスラエルという名称は、旧約聖書創世記、今日お読みした箇所に出てくるヤコブが、神と格闘をし、「祝福してくださるまで離しません」と言った時に、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と闘って勝ったからだ」と言われ、与えられた名前です。そこから「イスラエル」という名前が始まりました。エルとは神―これはナタナエルのエルと同じでした―、イスラは闘う、この二つの言葉が合わせられて、イスラエル=「神が戦う者」という意味の名前となります。

 私は今日の御言葉を読みながら、ナタナエル「神が与える者」という名前の人に、イエス様が「まことのイスラエル(=神が戦う)人だ。この人には偽りがない」と言われたことは、この御言葉の重要なポイントなのではないかと思っています。
 何故ならイスラエルという名は、ヤコブが神と格闘して勝って与えられた名前ですが、51節で、イエス様はナタナエルに向かって、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に上り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と、今日お読みした創世記28章のヤコブ物語の出来事をはっきり意識した言葉を、敢えて語っておられるからです。
 ヤコブは、主なる神が「すべての民族の父とする」、また「祝福の基とする」という契約を結ばれたアブラハムの孫にあたる、イスラエルの族長と言われる人のひとりです。イスラエルと名づけられたヤコブの子孫は、イスラエル12部族と呼ばれるようになり、12部族というのは、旧約聖書の世界に於いて、重要な意味を持ちます。
 この箇所は、一人の人の召命の場面と読んでしまいそうになりますが、実に、神の選びの民イスラエルからはじまり、すべての人に及ぶ救いの、ひな形なのではないか、そのように思えるのです。今日の御言葉の最後「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に上り降りするのを、あなたがたは見ることになる」というイエス様のナタナエルに対する言葉ですが、ナタナエルに対する言葉でありながら、「あなたがたは見ることになる」「あなたがた」と、複数形で語られ、ナタナエル以外の人たちに対しても語っておられるからです。

 今日の箇所も「その翌日」という言葉から始まっています。バプテスマのヨハネの「私はメシアではない」という自己証言から、4日目の出来事ということになります。
 この日、イエス様は故郷ガリラヤに行こうとしておられました。それまでのイエス様は、バプテスマのヨハネが洗礼を授けていた、ベタニア辺り―エルサレムの東側―におられたことがこの前の記述から窺えます。
 そこで、フィリポに出会います。フィリポは有名な弟子です。使徒言行録8章で、ステファノが殉教した後、エルサレムで起こった迫害を逃れるために、各地へ散っていったのですが、フィリポがサマリアで異邦人に福音を告げ知らせ、またエチオピアの宦官に洗礼を授けたということが語られています。初めて異邦人に福音を告げ知らせたのは、フィリポであったのです。そのような使徒です。
 イエス様は、フィリポに出会い、「わたしに従いなさい」と言われました。フィリポは、イエス様に出会い、「モーセが律法に記し、預言者たちが書いている方、それはナザレの人イエスだ」、すなわち「ナザレ人イエスこそが、救い主だ」ということを知り、イエス様に即座に従いました。その後、フィリポはナタナエルに出会い、そのことを告げました。
 35節から始まった、弟子たちの召命の記事は、イエス様に出会った最初のバプテスマのヨハネの弟子のうちのひとり、アンデレは、兄弟シモン・ペトロに、「メシアに出会った」ということを告げました。そして、今日の個所でも、フィリポはナタナエルにメシアに出会ったということを告げています。見たこと、聞いたこと、知ったことを、出会った人に伝えるということ、パウロはコリントの信徒への手紙一1章21節で、「神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と語っておりますが、救われたこと、救いを見たことを出会った人に告げ知らせることは、私たちキリストに召された者たちに神から託された、宣教の働きであるということを、ここでまず心に留めたいと思います。
 
 フィリポから、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言うことを聞いたナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と懐疑的な言葉を語ります。ナタナエルは、伝え聞いた言葉を信じることが出来なかったのです。
 それはそうかもしれません。ナタナエルは、同じガリラヤですが、カナの出身であったと福音書21章に記されています。ナザレは当時、本当に小さな町だったのだそうです。そんな小さな町の、大工のヨセフの子であるイエスという人が、メシア=救い主だと聞かされても、俄かには信じられないということは、非常に人間臭い反応だと思います。
 それでも、しぶしぶ、なのでしょうか。フィリポから「来て、見なさい」と言われ、イエス様の方にフィリポと共に歩いて行ったナタナエルを見たイエス様は、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と、彼を褒めたのです。
ナタナエルは、その賛辞に対し、謙遜するでもなく、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と問い直します。それに対し、イエス様は「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。イエス様は、ナタナエルに会う前から、ナタナエルを知っておられたのです。そして、どこで何をしていたかも知っておられた。
 ナタナエルは驚いたことでしょう。確かに、ナタナエルはフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下に居たのです。そのことを言いあてたイエス様に対し、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と、信仰を告白いたします。
 それに対し、イエス様は「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか」と言われます。「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と先に言われていたイエス様ですが、ナタナエルはイエス様の不思議な言葉=知り得ないことを知られる神の力を知って、信仰を告白したのです。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか」という言葉は、厳しい、ナタナエル自身の信仰を、問い直す言葉でもありました。しかしイエス様は、さらに言われるのです。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に上り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と。

 このイエス様の言葉の背景にあるのは、明らかに今日お読みした旧約朗読創世記28章です。
 イスラエルという名をいただくことになる、ヤコブという人は、双子の弟なのですが、生まれる時に自分こそ長男として生まれようと、兄のエサウの踵を掴んで生まれました。性質は「穏やかな人」であったと記されていますが、穏やかで、静かに見えて、内心、とても激しいものを持っていた人でした。まず、兄のエサウの長子の特権を奪い、父イサクから長男が受けるべき祝福を、母のリベカと共謀して、エサウから奪い取ります。これらの話は、一見、ただ貪欲で狡猾に見えますが、根本には、神の祝福を何が何でも自分のものにしたいという激しい一途な思いがヤコブを突き動かしていたのだと思われます。恐らく問題多く、罪深い性質を持つ人であったことが窺えますが、それでも、ヤコブの求めたものは、ひたすら神の祝福であったのです。
 お読みした創世記28章は、兄の長子の特権を奪ったがために兄エサウから命を狙われるようになったヤコブが家を出て逃亡し、石を枕にして横たわった時に夢を見たというところです。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、神の御使いたちがそれを上ったり降りたりしているのを、ヤコブは夢に見たのです。神の御使いたちが上り降りをする、それはこの地と天を繋ぐ、天の門、地上に居ながら天上の神と結ばれる場所、それをヤコブは夢で見たのです。そして、主なる神がヤコブの傍らに立ち、アブラハムに言われたのと同様に、この土地をあなたとあなたの子孫に与えるということ、子孫は砂粒のように多くなること、地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入るということを告げられたのです。さらに、32章で、ヤコブは神と一晩に亘って格闘し、遂に勝ち、イスラエル=神が戦う者という名をいただき、子孫はイスラエル12部族として、祝福の基となって行きました。

 イスラエルと名づけられたヤコブの生涯を思う時、求め方のまずさのようなもの、また失敗だらけのように見える生涯を思います。しかし、ヤコブは求め方が間違っていようと、欠点だらけであろうと、神を求めることには一途でありました。神は、そのようなヤコブをまことに祝福され、天の門を見せてくださいました。

 ナタナエル=神が与える者という名を持つ、イエス様の弟子となった人も、疑い深く、またナザレという小さな町を蔑むような言葉を思わず吐いてしまうような人でした。しかし、イエス様はそのナタナエルを見て「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われました。

 ナタナエルがいちじくの木の下に居たということには、さまざまな説があります。まず、創世記の3章で、蛇の誘惑に遭い、罪を持つようになったアダムとエバが、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いたということから、ナタナエルは罪と死の陰に生きていることの徴だと言う説。また全く逆に、旧約聖書(ミカ4;4、ゼカリヤ3:10)の中で、いちじくの木とはぶどうの木と並んで豊かさの象徴であり、神様の祝福の象徴であるから、そこに既に座っていたナタナエルは、理想的なイスラエル人であったという説。また、いちじくの木の下は、ユダヤ教の教師であるラビがその弟子たちに神の言を教える場所であり、ナタナエルはそういう学びの中に居るのをイエス様は見たのだという説。
 私には、このナタナエルの物語は、これら3つの説のすべてが含まれているように思えます。
 ヤコブがそうであったように、ナタナエルも人間的にはおそらく問題の多い人であったのでしょう。偏見に満ち、疑い深く、人を蔑む言葉も口にする。その意味で罪の下にいる人であり、また、反面いちじくの木の下で、神の教えに耳を傾ける人でもあった。
 人間は、一筋縄ではいかず、複雑な存在です。見かけは悪態をついているように見えても、心の奥底では、救いを渇望している。しかし、そういう罪人だからこそ、いちじくの木の下にいる。救いを求め、神の言に触れたいと願っている。しかし、気がつけばまた罪を犯してしまう。そういう人間、もしかしたら、私たちのような人間、それがこの時のナタナエルなのではないでしょうか。いちじくの木の下は罪の陰でありつつ、そして、そうであるが故に、罪の赦し、罪の支配からの解放を願いつつ神の言に触れる場でもある。その神の言を通して、心の奥底で、神の救いを待ち望んでいる。
 イエス様は、ナタナエルがいちじくの木の下に居るのを「見て」、ナタナエルというその人のあり様のすべてを知り、「まことのイスラエル人だ。この人には偽りはない」と言われたのではないでしょうか。
 イスラエル、それは罪を犯さない人間たちのことではありません。イスラエルは神の与えられた律法を守ることは出来ず、神に背き続け、神を悲しませました。しかし神はそれでもイスラエルを愛し、すべての救いの道を示されました。イエス・キリストを通して。まことのイスラエルとは、「にも拘らず」神を求め、神の赦しのもと、教えのもとに留まる人です。そして、神様からの罪の赦しと新しい命という祝福を与えられる。イスラエルとは、どのような時にも神の支配の中を生きる人々であり、その故に偽りのない人々なのです。

 ナタナエルは、今の私、私たちではないでしょうか。
 複雑な性格を持つのは、ヤコブもナタナエルも、そして私たちひとりひとりも同様でありましょう。
 しかし、それでも、イエス・キリストに従おうとするならば、イエスの救いを仰ぎみようと従うならば、イエス様は私たちを「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と褒めてくださり、御許で養い育て、やがて、天の門を開ける者とさせていただけるに違いありません。
 イエス様は、罪があり、またさまざまな悩みや問題を持ちながらも、心の奥底で、神を真剣に求め、神に出会いたいと願う私たちを、そのまま愛してくださっておられます。イエス様は私たちを知っておられます。聖書に於いて「知る」ということは、「激しく愛する」という言葉でもあります。ナタナエル、神が与える者という名前は、神が「激しく愛する」ほどの愛を与えられる者、という意味なのかも知れません。そして、それは私たちひとりひとりです。

 イエス様の愛の下、わたしたちもいちじくの木の下に居る者であらせていただきましょう。そのような私たちにイエス様は言ってくださいます。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と。

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