「到達したところに基づいて進もう」(2018年1月21日礼拝説教)

コヘレトの言葉12:1~2
フィリピの信徒への手紙3:12~21

 本日は今年新成人となられた方々を特に覚え礼拝をおささげいたします。
 ここにおられる多くの皆さんは、自分の若き日を「懐かしむ」年齢に到達しておられる方が多い、と思われます。私もそのうちのひとりです。
 私が20歳の頃に何をしていたかと思い出しますと、劇団の研究生になって夢一杯に毎日忙しくしていた時代でした。子どもの頃、幼稚園で祈ることを教わり、そのことは自分の身についていて、毎晩寝る前に、主の祈りを唱え続けていたのですが、20歳の頃は、「今日も祈れなかった」とつぶやいて、祈れなかったことを覚えながらも祈らずに眠りに落ちていた、そんな、神様に背を向けていた時代だったことを思い出します。
 今日の旧約朗読コヘレトの言葉12章1節をもう一度お読みします。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」。
「今日も祈らなかった」とつぶやく青春時代を経て、私は25歳の時から教会に通い始めるようになり信仰を持ちました。私自身の青春の日々、かなり屈折した時代を送ったという自覚がありますので、この御言葉を聞く時、心が騒ぎます。主は私を覚えておられましたが、私自身が、主に心を背け、創造主を心に留めていなかったのです。そして、青春の日々を、自分の心の赴くままに奔放に、与えられた「自由」を神に対してではなく、自分自身のものとして、用いていた、そして罪に苦しんだことを、少し、苦しい気持ちをもって思い出します。苦しい気持ちを持つのは、子どもの頃から、主に育まれた人たちを目の当たりにするようになったからだと思います。

 教会で私は、教会学校の中高科のリーダーを長く担当しました。教会員の子どもたちがどんどん中高生になる時代でもあり、中高生たちはどんどん増えていきました。そして、一緒に担当をしていたひとりの青年は牧師の息子さんだったのですが、大学のキャンパスクルセードで回心をして、それ以来、どうやったらこんなふうに御言葉をまっすぐに素直に語れるのかしら?と思えるほど、きらきらした眼差しで、中高生に御言葉を語るようになりました。この人は、今アメリカで牧師をやっています。
 その頃から中高科ではギターを弾き、新しい音楽を取り入れて神様を賛美する時間を持つようになりました。保守的だった私は新しい音楽にはじめ抵抗を感じていましたが、自分たちの生活に近い言葉とメロディーで神様を賛美することを覚えた中高生がどんどん洗礼に導かれていったのです。その時居た中高生のほとんどが8割ほどが洗礼を受けました。そして、今も母教会で良き役割を担っている人たちが多く、また多くの人が外に出て行って牧師や牧師夫人になりました。私の担当していた時代の人たちは、私を含めて9人牧師になり、2人が牧師夫人として牧師を支えています。多くの若い人たちが居て、その中からそのような神に仕える仕事をする人たちがどんどん出て来たのです。また、牧師としての召しはなくとも、世で主を証ししながら働く人たちも多く出ました。今思うと不思議なまでに祝福された環境だったと思い起こします。神様は、その当時のまっすぐな青年たちの信仰を喜ばれ、豊かに働かれました。

 青春の日々のまっすぐな心で主に出会い、その後、絶えず御言葉に聞きながら、御言葉に戒められ、励まされつつ人生を歩まれる方々というのは、屈折した罪多き青春を過ごした私の目から見て、独特な祝福というのでしょうか、独特の豊かさの中に歩んでおられることを感じました。
 若き日というのは、私の経験からすれば、やんちゃで傲慢な時代だと思えるのですが、若い時代から御言葉に聞き、毎日神に祈り、神との人格的な交わりの中に生き、また信仰の友人たちとの交わりの中に生きるということは、ある種、聖別されたものとして祝される、そのように感じています。その歩みは、決して浮ついたものにはならず、ひとつひとつ不器用でも与えられたことを大切に、丁寧に、自分自身と、自分に与えられた隣人との人間関係を、神からの賜物として受け取り、自分という存在を謙遜な目をもって受けとめ、また神に絶えず問いかけ、御言葉に従い、忍耐を育んでゆく。またそれだけでなく、全能の神に向かって若い夢を語り祈りつつ、思いがけない道を拓かれて行く場合もある。神の豊かさを受け継ぐ者とされる人を、多く見てきました。そして、御言葉によって養い続けられて、世にある喜びではなく、天来の喜びにどんな時にでも満たされ続ける。
 この年、成人を迎えられる方々に、特に、そのような神の祝福がありますよう、またイエス・キリストを覚えて、イエス・キリストにある命の豊かさのうちを歩んでくださるよう、祈ります。

 しかしひとつ付け加えれば、実は嬉しいことばかりではありませんでした。神を信じたからと言って、何もかもがハッピーに動いてゆくかと言えば、罪のこの世にあってはそれほど単純なものではありません。神は、私たちの人生にひとつの棘を与えられることがあります。使徒パウロが体にひとつの弱さを覚えており、それを取り除けてくださるように三度神に願ったけれど、「わたしの恵みはあなたに十分である」という神からの答えをいただいて、肉体の棘は棘のままであったように。
勢いのある中、一人の洗礼を受けた少年の突然の死という出来事が起こりました。「何故こんなことが起こるのか」、教会全体が悲しみに突き落とされました。
 その出来事が神の御前でどのような意味のある出来事であったのか、私にはまだ答えはありません。今思い出しても、悲しい出来事です。しかしすべてが神の出来事であったことを、今は信じています。
 その後、教会全体が子を失った家族のために祈り続けました。母親とふたりの娘さんたちは、ひとこともその子のことについて語らず、教会生活をそれでも続けられました。ひとりは既に洗礼を受けていましたが、その後、妹が洗礼を受けました。数年後のある日、教会とは無縁と思われた父親が教会に通うようになり、神学校に行き、牧師になりました。その子の姉は、牧師と結婚しました。家族は誰一人、信仰を失うことなく、尚強められて、今も主と共に歩まれています。このことを思う時、主にあるいのちの不思議を思います。

 今日お読みしたフィリピの信徒への手紙3:20に「わたしたちの本国は天にあります」という御言葉がありますが、神の出来事というのは、世の命を超えて、天の祝福―この手紙の言葉を借りれば、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞―死者の中からの復活―が与えられるというその最終的な目標を目指すものなのでありましょう。復活の命こそが、私たちのまことの命の希望であることを聖書は語るのです。
 本日お読みしたはじめ、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」というパウロの言葉は、前の11節の「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」に掛かる言葉で、パウロがここで切に得たいと願っていることは、「死者の中からの復活」です。
 パウロは命を掛けて、イエス・キリストの十字架の贖い、そして復活の命を、旅をしながら、人々に語り伝える伝道者であった人ですが、そのように、ひたすら神に向かって力を尽くして生きながらも、パウロはここで、自分自身が「死者の中からの復活」を遂げられることを完全には得ていないということを語ります。パウロがそれを完全に得ていないのならば、誰がそれに与れるのだろう?と思えてしまうような言葉です。
 そしてパウロは自分が既に完全なもの=死者の復活に与る者とされているのではないと語りつつ、11節で「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」、14節「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るため」、キリストの十字架の苦しみを、その一部を担いつつ、何としても復活に与りたいのだと語るのです。

 このことは、私たち世を生きるキリスト者に与えられる「苦しみ」ということについて、考えさせられる言葉です。私たちは時に、信仰を持ちながらも、苦しみ、大きすぎる悲しみに出会うという現実の前に立たされることがある、このことを否定出来ません。先ほどお話しをさせていただいた教会学校に通う洗礼を受けた子の死の出来事のような、そのご家族にとって、ひとつの棘というにはあまりにも重すぎるほどのことが起こることがあります。このことについては、私自身、言葉を尽くしても、思いを尽くしても、語りつくすことは出来ません。今、語りながらも、この世の不条理とも言える事柄については、薄っぺらの紙のようなことしか語れないもどかしさを思います。
 しかし、神は、必ず御心を以って真実を、苦しみを通られながら、神に対して心で嘆きと苦しみを訴え、時に神を呪うような言葉を心で吐かざるを得ないような状況でも、それでも神に語ることを止めず、神の御許にひたすら留まられる方に、直接何らかの形で語り続けてくださっているに違いないことを信じています。お読みした3:15に「あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことを明らかにしてくださいます」ということが起こることを信じています。
 そして、その経験は、パウロに於いては、「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与」るという、主の苦しみの一端を担うことであると、そこを通らなければ、完全な者にはなれないと、信じパウロは語っているのです。
 私たちの人生に与えられる苦しみは、主の十字架の苦しみの一端として、与えられる場合がある。それは、私たちの人生の目標である、世の死を超えた、天の故郷への、復活の命への道である、3:20~21の御言葉のように、イエス・キリストが十字架に架かり、死なれ、栄光ある復活の体をもって復活されたように、私たちの体も、いつの日か、キリストが再び来られる日、私たちをも復活の栄光の体に変えていただける日が来る。世の死を超えた、神と共にある命の復活が起こる。これが、聖書の語る、信仰の戦いを戦い抜いた私たちに与えられる「賞」であり、私たちにとっての「目標」であるとパウロは語るのです。

 神はすべてを通して、神のまことの祝福、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」をお与えになるために、世で起こる、苦しみも悲しみも、神はすべての事を用いられるのです。

 私たちはそれぞれ、人生の時を重ね、ここまで生きて参りました。子どもは子どもなりに、今年成人される人は20歳という年齢なりに、そしてそれぞれの重ねて来た年月と経験があります。
 パウロにとっては、自分自身の人生の経験は、今日はお読みしませんでしたが、3章5節から語られていますように、「八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」という過去がありました。それは、パウロにとって世を生きるために、有利なことでありました。たくさんの特権を持ち、生まれたままのパウロでいたならば、伝道の苦労も、さまざまな迫害も、困難も―この手紙を書いているパウロは牢獄に入れられているのですが、牢獄に入れられるなどということは恐らく無かった。
しかし、パウロはそれらのことをキリストの故に一切を失いましたが、今やそれらは、キリストを知る素晴らしさの故に、それらを塵あくたと見做していると語ります。それが、パウロが到達して、生きている現実です。
 私自身は、中高生の真新しいスポンジのような時代に主を知ることは無く、屈折した青春期を過ごして、その後悔い改めて主を信じました。そのことを思うと、青春期にまっすぐに主を知り、主に育まれて成長してきている人たちに、ある種の羨ましさを感じたり致しますが、それでも私なりに人生の経験をしてきて、悔い改めて主を知ったという肯定出来る側面が客観的にありますし、それぞれの過去というものは、肯定すべきことだと考えます。そして、ここにおられるおひとりおひとりにとっても、今日のこの日に到達するまで、それぞれの過去の生き様があり、主に導かれて、今ここにおられます。誰一人同じ人はなく、それぞれが神に愛されて、生きて来られ、そして時を得て、主を知り、私なりに主に導かれて、現在があります。
 そして、到達した現在に於いて、喜びもあり、困難と思われることにも遭遇し、迷いの中に悩みます。そして、時に過去を懐かしんだり、今置かれている現状は、選択の誤りだったのではないか?などと考えあぐねることもあるかもしれません。
 しかし、私たち、ここにいるすべての人は、既に主イエス・キリストに出会い、ここにおります。主に見出され、ここにおります。ここに至るまでのすべては、神の御心であり、私たちは主に導かれて、今、ここまで到達しているのです。

 私たちは、今、ここを到達点としてしっかりと現在を見据えて、後ろのものを忘れ―忘れるというより、後ろのもの、過去は否定をするのではなく、肯定して受けとめ、主の十字架に委ね、そこに置いて―そして前のものに全身を向けつつ生きるのです。過去に悲しみや、苦労、人に言えないような思いを抱えている方もおられるかもしれません。しかし、それぞれ到達しているここから、世のこと、世の利益を腹とするのではなく、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を―世の命を超えて、キリストと共に復活する命を―得るために、ひたすらに神を、キリストを求めて、まず神の国と神の義を求めて生きるのです。
 神は、到達したところから、私たちが全身全霊を神に向けて、神に向かって生きることを求めておられます。後ろを振り向かず、罪に心を奪われることなく、前に全身を向けつつ生きるのです。

 人生には苦難があります。私たちの生きるこの世は、神から引き離された罪の世です。苦しみがあるのです。しかし、神は、私たちに世にあって、十字架という救いを与えてくださいました。十字架とは、私たちの重荷を降ろす場所であり、罪の赦しのあるところです。私たちが今、ここで神を礼拝しているということは、既に十字架の許に、罪の赦しのあるところに到達しているのです。罪の世にあって、私たちは、到達した十字架を基点として、赦しの道を、神の光の道を歩むことが赦されているのです。
 ここから神に全身を向けつつ、それぞれが到達したところから、神を求め、どんな時にも神に問い、神に語り、打ち明け、御言葉に聞きつつ、忍耐強く歩む時、神は世の苦難に負けない力、屈しない力、神を信じることによってどんな苦しみをも乗り越える力を、神は私たちにくださいます。
 そして、世の命を超えて、すべてがよかった、と知ることが出来る、キリストと共にある復活の命に、信仰によって入れられることが約束されています。
 ここに立ち、前のものに全身を向けつつ、今日も、この週も歩んで参りましょう。
 ここにおられるすべての方に、神の祝福が豊かにありますように。