「イエスの十字架」(2019年4月14日礼拝説教)

イザヤ書53:11~12
ルカによる福音書23:26~43

 先週の火曜日、敬愛するTR姉が突然ご自宅で天に召されました。95歳。教会の最長老でいらっしゃいました。ずっと礼拝出席は月に二度を守っておられましたが、この一年近くは腰の痛みが強くなられ、それでも聖餐式のある月初めには、ご家族に伴われて礼拝に出席しておられました。
 先週もいつもと変わらず、その席に座って礼拝をささげ、聖餐を受けておられましたので、今も信じられない思いでおります。
「主は与え、主は取られたもう。主の御名はほむべきかな」ヨブ記の御言葉が心を過ぎります。全く突然、何の予兆もないままに、主はR姉をご自身の御許へと静かに引き寄せられた。命の不思議、命は私たちのものではなく、全く神のものであることを思わされた時でした。命の源なる主イエス・キリストにR姉妹のすべてを感謝し、主に栄光をお返ししたいと思います。

 受難週に入りました。今日は棕櫚の主日。イエス様が、エルサレムに入城されたことを記念する日です。今日の聖書の御言葉は、その日からはじまるおよそ一週間の後半。イエス様の十字架への道行きです。
ローマ総督ポンティオ・ピラトは、イエス様に死刑にするような罪があることは認められず、またイエス様の死に自分が関わりたくはないという思いも強く、イエス様を十字架刑に架けることを躊躇い、鞭打ちで終わらせ釈放しようと民衆に語りましたが、暴徒と化していた民衆の声に圧倒されたまま、人々の要求を受け入れ、イエス様の十字架を許したのです。
 
 ルカは記していませんが、十字架刑に架けられる前のローマの犯罪人は、十字架を担がされる前に体を鞭で打たれます。マタイ、マルコでは、イエス様が鞭打たれたことが記されています。この鞭打ちはローマの法に於ける鞭打ちで、ユダヤの鞭打ちは「40にひとつ足りない」、39回までと律法で定められているのですが、ローマ法に於いては制限がなく、また、ローマの鞭というのは、短い木の棒の先にベルトのような革紐がつけられ、その先に動物の骨とか金属片が付けられていて、その鞭で囚人の背中を打つと、それが肉に食い込み、激痛を与えるばかりか、肉をずたずたに引き裂き、骨を砕くほどの威力のある鞭でした。10数年前、話題になった『ミッション』というキリストの苦難を描いた映画は、その描写があまりにもリアルでした。普通なら、それだけで外傷性ショックで死に至ることもある刑罰でした。
そのような鞭打ちの後、イエス様は自分がそれに釘打たれる重い十字架を担がれ、ゴルゴタの丘までの道のりを歩かなければならなかったのです。
 その道は今エルサレムで、ヴィアドローサ(悲しみの道)と呼ばれている道であったと言われています。約1キロ程度の緩い上り坂の道です。
そしてイエス様の十字架までの道のり、そして十字架に於いて、イエス様に関わったと言いますか、イエス様に出会った何人かの人々のことが語られています。十字架を担がされたシモン、イエス様の後を嘆き悲しみながら従った婦人たち、イエス様を十字架に架けた、おそらくはローマの兵士。さらにイエス様と共に十字架に架けられたふたりの人。1度の説教ではすべてを語りつくせないほど、印象深い多くの出来事、エピソードが今日お読みした御言葉には記されています。
そして今日は、イエス様の十字架への道のりで出会った人々の出来事を通して、「救いとは何か」ということに焦点を当てて、このイエス様の十字架への道行き全体を読んでいきたいと願っています。

 鞭打たれ、背中の皮や肉まで抉られ、棘が頭に食い込む茨の冠を被せられ、体中血だらけになられたイエス様。担ぐ十字架の重さは40~50キロあったと言われています。それだけの重さの十字架を、鞭打たれた体で背負いながら、上り坂の道を歩くのは相当なものです。傍目から見ても、傷まれ、苦しんでおられるイエス様が、ゴルゴタへの道を十字架を担いで歩かれるのは無理と思えたのでしょう。
その姿に、恐らくはローマの兵士たちが、田舎から出てきて、たまたまイエス様が十字架を担ぐ姿に出くわした、シモンというキレネ人―キレネというのはアフリカの地中海沿いの西側にある、離散したユダヤ人たちが多く住んでいた町でした―を捕まえて、イエス様が背負う十字架の後方を背負わされ、イエス様と共に十字架を担がされたのです。
何故シモンだったのか。想像ですが、体が大きくて「この男なら担げる」と勝手に見込まれたのではないでしょうか。ローマの兵士に命令され、逆らったら何をされるか分かりません。十字架を担がされることになったシモンにとってはまさに災難とも言えることでした。
しかし、この出来事は、9章23節で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたイエス様の言葉を思い起こさせます。また14章27節でも「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」とおっしゃいました。
イエス様と共に十字架を無理やりに担がされたシモン。そして名前が敢えて残されているキレネ人シモン。マルコによる福音書には、この人のことを「アレクサンドロとルフォスとの父」と語られています。ルフォスとは、ローマ書16章によれば、パウロの同労者であったことが語られています。シモンとその家族は、イエス様の十字架を経て、信仰を持ち、福音宣教のために仕える人たちとなっていったのです。
イエス様と共に十字架を担がされることになったシモン。この出来事とこの人の名前が残されているのは、私たち信仰者のあるべき姿を表しているのではないでしょうか。
それは、信仰を持つということ、神に出会うということ、私たちは順風満帆の生活の中ではなかなか起こらないことなのではないかと思います。世にあって何らかの思いがけない問題や苦労を通して、私たちは世のことでは説明のつかない肉眼では目に映らない「真理」に心が向けられることがあります。目が開かれる時があります。それは、主の十字架に於いてしか与えられ得ない救い。キレネ人シモンは、思いがけずイエス様と共に十字架を負うという災難とも思える苦難を与えられてしまいました。そこにただ居ただけでそのようなことになってしまったのですから、「貧乏くじ」を引かされたようなものです。
しかし彼はイエス様の十字架を共に担ったのです。イエス様と共に重荷を負い、イエス様の後から従ったのです。シモンは、十字架を背負われるイエス様の背中を見つめながら、重い十字架を背負い歩きました。そして、イエス様が十字架の上で命を失われるまで見届けたのではないでしょうか。そこで、彼は、イエス様の後姿に、「何か」を見たのではないでしょうか。それはシモンだけにしか分からない、心の体験であったのかもしれません。信仰とは、理屈で与えられるものではなく、神から恵みによって与えられるものです。シモンは、十字架の主の姿に、彼にしか分からないありかたで「救い」を見たのではないでしょうか。そしてシモンは、キリストに従う人として生きるようになったのです。

そして、さらにイエス様の後ろからは、「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して」イエス様に従っていたと言います。この人たちも、「従った」、イエス様の背中を見ながら後を付いていった人たちですが、果たして彼らはシモンのような「弟子」となる姿だったでしょうか。
嘆き悲しむ婦人たちについては、いろいろな解釈があります。ガリラヤからイエス様に従ってきた弟子としての女性たちという説がありますが、しかし、その人たちは、23章49節、イエス様の死を見届ける時、「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」と語られていますので、イエス様が十字架に向かう道で、イエス様から声を掛けられる距離に「民衆」と共に歩いていたということとは、少々違和感があります。
また、イエス様はこの婦人たちに振り向いて、「エルサレムの娘たち」と声を掛けておられますことからも、ガリラヤからずっとイエス様に付き従ってきた人たちではないのではなく、エルサレムに住む婦人たち、もしくは祭のためにエルサレムに上ってきていた婦人たちなのではないでしょうか。
そして、恐らくは、葬式など人の死の場面において派手に泣いてみせることによって嘆きを表すことを習慣としていた人たちだったのではないか、と言われているのです。「泣き女」と呼ばれ、そのようなことは、当時のユダヤ教では「功徳」とされており、十字架の死刑が行われる時に、誰もその囚人のために嘆いてやらないのは可哀想なので、敢えて大げさにその引かれていく沿道で嘆いてやっていたのではないか、というのです。
イエス様は、婦人たちのほうを振り向いて言われました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け」と。
このことは、21章に於いてエルサレムの滅亡をイエス様が預言されたことと重なります。
この婦人たちは、おそらく葬式の慣習に従って、イエス様に同情をして、大げさに泣いていました。しかし、それは単なる上面の同情と嘆きでしかありません。良いことをしようとする偽善とも言える嘆きの姿でした。そのように泣く婦人たちに、イエス様は「自分と自分の子どもたちのために泣け」と言われました。それは、やがて終わりの日が来る。偽善者のように偽りの同情で泣くのではなく、来るべき時を見据え、自分のために泣け、自分の罪を知り、罪を悔い改めなさいと、イエス様は婦人たちに仰っておられるのです。
主の十字架は、ただ嘆き悲しむものではありません。「同情」で終わる痛みなどではありません。主の十字架は、「私のため」のものとして受け取るべきものです。イエス様は、この時、後ろから泣きながら付いて来る婦人たちに、自らを知り、悔い改めることを求めて語っておられるのです。罪の悔い改めなしに、「救い」は実現しないからです。

そして、イエス様は遂に「されこうべ」と呼ばれるゴルゴタの丘に着き、イエス様とふたりの犯罪人は釘打たれ、十字架に架けられました。イエス様を真ん中にして、三本の十字架がゴルゴタの丘に立てられました。
十字架で打たれる釘は、太さ6センチ、長さ15センチほどの太く大きなものであったと言われています。掌に釘を打つと、すぐに重さで掌が崩れてしまうから、手首の辺りに釘は打ちつけられたのだそうです。余りにも残酷なことです。
その時、イエス様は言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。イエス様は、ご自身に釘を打ち付けるローマ兵のために、肉が抉られ釘打たれる苦しみと恐怖の中、祈られました。
イエス様は、ルカ6章27節から語っておられました。「あなたがたの敵を愛しなさい」「あなたたちを侮辱する者のために祈りなさい」と。
私たちは知っていて行う罪があり、また知らずに犯す罪があります。同じことをしても、旧約聖書律法に於いては、「知っていたか」「知らなかったか」「故意であったか、意図せずして誤って行ってしまったことなのか」では、罪の重さが違います。知らずに誤って何かをしてしまった場合には「逃れの町」に逃げ込めば、また幕屋の祭壇の角に触ればその罰から逃れられるとされていました。
イエス様を十字架に釘打ったローマ兵たちは、「命令」による仕事としてそのことを行いました。いえ、そのこと以上に、イエスという人がどういうお方であるのか知らなかった。神の御子を釘打つということは、神を殺す行為とになります。それがどれほどの恐ろしいことであるのか、知らなかった。その恐ろしい罪を犯すローマ兵士をイエス様は憐れまれ、赦しを父なる神に願い、自らも赦されたのです。

周囲にはイエス様を嘲笑う民衆がおり、十字架に架けられる前に脱がされた服を分け合い、口々にののしりました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」、また痛みを軽減するためのぶどう酒を含ませた布を突きつけながら、「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と言い、イエス様の頭の上には「これはユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられてありました。無論、これは嘲りとののしりのしるしです。
その時、イエス様と一緒に十字架に架けられていた犯罪人の一人も、イエス様をののしり言いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。この人にとって救いとは、世に於いて利益を得る、奇跡が起こって今の苦しみから解放されるということにどこまでもとどまっていることを思います。これから苦しみの死が訪れることははっきり分かっていることなのに、苦し紛れに心を荒立て、イエス様を罵っている。この人も、イエス様にとっては「自分が何をしているのか知らない」、父なる神に赦しを願い祈らなければならない人であったに違いありません。

イエス様は、この人に対して何も言っておられませんが、十字架に架けられていたもうひとりの犯罪人は、痛みと苦しみの中で、イエス様を罵る人をたしなめるのです。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。さらに「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。
苦しみの中で、この人は、自分の罪を認めていました。そしてイエス様がどなたであるかを、悔いる心で知っていました。そして、悔い改めた心で、死の彼方にある救いを見据えているのです。それは、永遠の命への渇望と言えるのではないでしょうか。
「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」
「救ってください」と言っているのではありません。この人は、罪人である自分を救ってくださいとは、とても言えなかったのではないでしょうか。そして、「思い出してください」と、自分が主と共に十字架で死んだこと、それをただ「思い出してください」と言ったのです。イエス様は、この言葉に答えられ言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。

 イエス様は「わたしと一緒に」と言われました。救いとは何より、「わたしと一緒に」、イエス様と共にある、神と共にある命に入れられることです。罪によって分断された世に生きる私たち人間。神と引き離された人間が、主の十字架と共に罪に死に、悔い改めて、神と共にある命に入れられることなのです。
 この人の出来事は、私たちひとりひとり、救われた者の姿ではないでしょうか。
 私たちも、罪のために、イエス・キリストと共に、十字架に架けられなければならない罪人なのではないでしょうか。しかし、この人と私たちが違うのは、私たちが自分の罪のための十字架を、イエス様が代わって負ってくださっているということです。私たちは十字架に架けられる苦しみは担っていない。イエス様が、私たちのために、代わって苦しまれたのです。そして、主の苦しみによって、私たちは、「死」を、滅びを、免れ、ただ信仰によって、「わたしと一緒に楽園にいる」=神共にある命へと入れられ、救われたのです。
 
救いを得るに何よりも、自分の罪に気づくことが大切なことです。罪を知ることから、まことの救いに至る道は拓かれます。気づかされるために、シモンのように思いがけない十字架を負わされることもあるかもしれません。しかし、神の御心のあるところには、必ず苦しみに代えた、私たちの思いもよらない救いと恵みの道が拓かれます。
 
 主の十字架への道行きを思い、この受難週を、深く己を見つめ、主の十字架によって赦され、生かされている、その恵みを味わいつつ、歩みたいと願います。