「イエスの復活」(2019年4月21日礼拝説教)

イザヤ書54:4~8
ルカによる福音書24:1~12

  主のご復活おめでとうございます。
 イエス・キリストは十字架の上で、苦しみの死を遂げられましたが、死を打ち破り、復活されました。キリストは死から復活された。何と不思議なことなのでしょう。
 私たちの教会は、この1ヶ月の間に、HM兄、TR姉、おふたりの大切な兄弟姉妹を御許へと送り、葬りの式をいたしました。また、春の墓前礼拝もいたしました。おふたりの葬送のこと、そして先に召された兄弟姉妹のことを思いつつ墓の前に立った時、思い起こすことは、何より「死は終わりではない」ということでした。兄弟姉妹は、聖徒とされて、今、神の御許におられる。そして何時の日か、復活の時が来る。このことは、私たちの命の希望です。
 そして、この希望は、イエス・キリストの十字架と復活を通して、私たちに与えられている約束です。死と墓を通して、私たちはそのことを改めて、確かなこととして知る恵みをいただいたことを今覚えています。

 そして、キリスト教会は主の十字架と復活を通して生まれました。
 イエス様は愛のお方であられ、この世の中で病を持ち、貧しく、さまざまな困難を持って生きている人たちを大切にして歩まれました。その意味で、イエス様は弱い人を大切にされる良きお方、あたたかいお方であったに違いないのですが、しかし、教会はイエス様の人間的な「優しさ」や、イエス様の立派な人格、目指すべき人格によって誕生したわけはありません。
 キリスト教会は、イエス・キリストの十字架と復活を通して、イエス・キリストは復活された、ということを信じて、生まれたのです。キリストの復活なしには、教会はありませんでした。私たちは毎日曜日の朝、教会に集い、神を礼拝いたしますが、何故日曜の朝なのかと言えば、イエス・キリストが復活をされたのが日曜日の朝だったからです。この日、イースターの朝早く、キリストは復活されました。

 イエス様の弟子たちは、イエス様の復活の証人でした。しかし、イエス様の十字架の時、イエス様を見捨てて逃げ去ってしまった人たちでした。そして、十字架の後も、イエス様の弟子であることが人々に知れて自分たちも捕まえられてしまうことを恐れて、隠れるように戸を締めて、家の中でおびえていたのです。そして、今日の聖書で語られているように、主が復活されたということを聞いてもなかなか信じられない、そのような情けない人々でした。
 しかし、はじめは信じなかった弟子たちはイエス様の復活を信じるようになります。復活のキリストにお会いし、そして罪の中に生きて来た自分が、弱虫だった自分が、罪に死んで、新たに生かされるのだ、弱さの中に新しい力がいただけるということを、キリストによって、自分のうちに主の復活の力が力強く働き始めることを知るようになります。キリストの復活の力によって、弟子たち自身の中に、新しい力が、新しい命が湧き上がることを知り、そして、イエス・キリストの復活を語り伝えることで教会は生まれたのです。
 
 イエス・キリストの十字架と復活。このことは、イエス・キリストを信じる者たちにとって、大きく分けてふたつの意味があります。
 ひとつは、この世の死を超えた永遠の命、神と共にある命。世の死は終わりではなく、キリストに倣うものとして、世の死を超えた祝福に、入れられるということです。
 そして、もうひとつの意味は、私たちは人生に於いて、さまざま失敗をすることがあります。どうしようもない過ちを犯してしまったり、強い罪責や後悔に駆られて、前を向けなくなってしまう時もあります。しかし、イエス・キリストは、そんな罪に悔いる私たちの罪を、ご自分の十字架で滅ぼしてくださり、キリストの復活の命に与るものとされ、世にあって新しく前を向いて、神と共に生きる道がいつでも拓かれるのです。人は、失敗したり罪を犯しても、イエス・キリストの御前で罪を悔い改めた時、罪は赦され、いつでも新しく生きることが出来る、そのようなふたつの意味があるのです。

イエス様の弟子たちは、イエス様を裏切りました。ペトロは、「御一緒なら牢に入っても死んでも構いません」と息巻きながら、その直後にイエス様を「知らない」と裏切りました。他の弟子たちも一目散に逃げてしまった。
 イエス様、神であるお方とそれまで共に歩んでいましたが、裏切ったことにより、その時、弟子たちは罪の闇に堕ちてしまった。大きな挫折です。このことは弟子たちにとってのひとつの「死」と言い換えても良いかもしれません。神の御子との関係を断ち切ってしまったのですから、彼らは世にあって生きてはおりましたが、ひととき「死」を「滅び」を経験したのです。ペトロは自分の咄嗟の言動を後悔し、大泣きに泣きました。泣いて後悔して苦しむ中、イエス様がひとり、十字架に架けられ、苦しみ、死なれるのを、弟子であることを隠しながら遠くから見ているしかなかったのです。
 弟子たちはこの先、どのように生きるのか、頭が混乱をして生きる道を見失った、すべてが閉ざされた思いであったことでしょう。

 イエス様が十字架の上で死なれたのは、金曜日の午後3時でした。十字架に架けられた死体というのは、通常そのままにされたと言います。そして、死体は鳥や獣の餌食となってしまう。十字架刑というのは、通常朽ち果てた体も無残に骨だけにされてしまうような惨い死にざまでした。
 しかし、ユダヤ教の最高法院の議員のひとりで、アリマタヤのヨセフという、善良で正しく、イエス様を信じ、神の国を待ち望んでいた人が、イエス様の遺体を渡してくれるようにとピラトに願い出て、イエス様の遺体を十字架から降ろし、亜麻布に包んで、新しい岩に掘った墓に納めたのです。
 その日は安息日が始まろうとしていた、と書かれてありますので、イエス様が金曜日3時に息を引き取られてから、すぐに、アリマタヤのヨセフはピラトに願い出てイエス様の遺体を十字架から降ろし、墓に葬ったことが分かります。ユダヤ人の一日は夕方日暮れから始まることから、安息日は金曜日の夕方から始まるからです。
 イエス様の十字架を遠くに立って見ていた、ガリラヤからイエス様に従ってきた婦人たちは、悲しみの中、ヨセフの後をついていき、お墓の場所を確認し、イエス様の遺体が納められている有様と模様を見届けました。そして、婦人たちは、安息日の掟に従って休み、安息日が明ける時に備えたのです。

 そして、週の初めの日、日曜日の明け方早く、準備していた香料を持ってイエス様の墓に急ぎました。命の終わりを見届ける場所としての墓です。
 当時のユダヤのお墓は、今の日本人のように火葬して葬るのでも、西洋のように棺に入れて土に埋めるのでもなく、そのまま布を巻いて、洞穴の中に置くのです。体は1年掛けて腐敗し、骨になります。そして1年後に、骨を骨壷のようなものに入れるのだそうです。
 腐敗をするのを待つように洞穴に置くのですから、そこには死臭が立ち込めます。それを少しでも防ぐために、香料が必要でした。強いハーブの香りの香料です。
ガリラヤから従っていた女性たち、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアほか、婦人たちは、イエス様の遺体が腐敗をし始める前に、何としても香料を塗って、きちんと葬って差し上げたかったのです。

 墓に着いてみると、洞穴の墓を閉じていた大きな石が、わきに転がしてあり、マリアたちが中に入ってみると、イエス様の遺体は見当たりませんでした。確かにこの墓のあの場所にイエス様は葬られた、それを彼女たちは見ていましたのに。そして、そこにはイエス様の体を巻いていた亜麻布だけが残されていました。ヨハネによる福音書は、このことを非常にリアルに、「頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れたところに丸めてあった」と記しています。御自分で起き上がり、頭を包んでいた覆いを頭のあった方に置き、体を包んでいた亜麻布は足もとにあった、そのようなリアルなことを思い起こさせます。

 婦人たちは、途方に暮れました。何者かがイエス様の遺体を盗んだのではないか、さまざまな不安が襲っている時、輝く衣を着た二人の人―恐らくは天使―が、婦人たちの前に現れ言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活されることになっている、と言われたではないか」と。

 そうでした。イエス様はこれまでに三度も、ご自身が罪人の手に渡され、十字架に架けられ、三日目に復活することになっているということを弟子たちに告げておられました。しかし、それを聞いても、誰一人、本当に信じてはいなかったのです。信じていなかった、というより、本当の意味では聴いていなかったのかもしれません。
人は、自分の理解を超えた事柄を語る言葉には、耳は自然に拒否してしまうものではないでしょうか。聴いているふりをしながら、聞き流してしまう。この信仰深い、イエス様を愛していた婦人たちすらも、復活を語るイエス様の言葉は、確かなこととして受け止められていなかったのです。天使の言葉に「ああ、そのようなことをそう言えば主は語っておられた」と、その時初めて思い出したのです。思い当たったという意味と捉えてもよいかもしれない。
 しかし耳が聞くのを拒否していたような言葉も、記憶を辿り思い出すことによって、「ああ、あの時、ああ言っていたのだ」ということに気づくときがあります。心の中にたまっていたある言葉を、何かの経験、何かの出来事を通して思い出して納得する。また何かを失い、記憶を辿った時、そこでようやく見えてくる希望があります。
私自身、一昨年父を天に送りましたが、父が生きていた時には、「いつも同じことを言うな」と耳を塞ぎつつも心の中に溜まっていた言葉が、父の人生にとってどれほど大きな意味をもつことであったのか、その言葉を思い出すことで、納得し、希望が生まれ、心が慰められたという経験をしました。
 婦人たちは、天使たちの言葉に、イエス様がかつて何度も語られたけれども、分からなかかった言葉が、目の前にある現実―イエス様は十字架に架けられ死なれた。墓に葬られたけれど、墓は空であったという、そのとき突きつけられている現実に重ね合わせて、イエス様の復活の事実が本当に実現したのだということに気づいたのです。
そして、気づかされた現実は、墓は命の終わりの場所ではない、ということでした。イエス様は死なれ、墓に葬られたけれど、そこにはおられなかった、かつての言葉のとおり復活されたからです。墓は復活の場所となったのです。

 そして、婦人たちは墓から戻り、墓が空だったこと、天使がふたりおり告げられたこと一部始終を、ユダを除く11人のイエス様の弟子たちに話しましたが、弟子たちには婦人たちの言葉はたわごとのように思われ、「信じなかった」と言うのです。天使が語ったこと、イエス様が再三に亘って、復活をするということを話されたじゃないか、そのようなことを言ったに違いないのですが、それでも女の人がたわごとを言っているくらいに思ったのでしょう。彼らは「婦人たちを信じなかった」のです。どこか投げやりな印象です。彼らはまだイエス様を裏切り、イエス様が自分たちの見ているところで血を流され死なれた目に焼き付けられた十字架の姿、そのことに対する罪責と、無力感、喪失感から立ち直ってはいませんでした。

 しかし、そこでペトロはひとり立ち上がったのです。ペトロには、何か気づくことがあったのです。そして墓に走って行ったというのです。ペトロが走って墓に行ったということは、ヨハネによる福音書も語っています。
 この「立ち上がる」という言葉、「復活する」という意味も含まれている言葉です。イエス様を裏切り、自分の弱さと罪に泣いたペトロは、立ち上がりひとり墓へ走って行ったのです。
 そこでペトロが見たことは、婦人たちの語ったとおり、亜麻布だけが残されていて、イエス様の遺体はありませんでした。そして、この出来事に驚きながら家に帰ったと語られます。ペトロの心には、イエス様のさまざまな言葉やなさったこと、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という言葉、イエス様を三度知らないと言った時、鶏が鳴き、イエス様がペトロの方を振り向いて見つめられた、その愛のまなざし、すべてのことを走馬灯のように思い出したのではないでしょうか。しかしながら、帰り道にも「不思議がっていた」ペトロです。空の墓を見てもまだ復活を信じることには至っていなかった。しかし、「立ち上がっ」て、墓に走っていったペトロ、ペトロはペトロ自身の復活に向けて走って行ったと言えるのではないでしょうか。向かった先は死のあるところ、イエス様の墓でした。しかし、墓は空だった。墓は復活の場所となったのです。死にはその先があるのです。

 そして、この後、ペトロはじめ弟子たちは復活のキリストに出会い、教えをさらに受け、主の復活の力に満たされ、世の歩みに於いて「復活」させられていきます。復活されたキリスト・イエスは弟子たちが裏切ったことなど、もう忘れておられるように、この後、愛をとことん表され、教えられ、天に昇られるのです。弟子たちは、罪責と弱さから立ち直り、赦された者として、イエス・キリストを命を賭けて宣べ伝える人に変えられて行きました。
彼らの世に於ける生き様にも、キリストの復活の命が顕されたのです。そして、この命は私たちにも与えられてる恵みです。イエス・キリストにあって、私たちは弱くても、失敗しても、罪を犯しても、主の十字架に縋り、罪を悔い改めることで、すべて赦していただけ、新しい力が、新しい生きる道が必ず開けます。

 そしてイエス・キリストの教会は、世界中でイエス様の復活された日曜日の朝、イエス様の復活を思い起こしつつ、記念しつつ、2000年を経た今も、礼拝を守り続けています。イエス・キリストの出来事を思い出しつつ、丁寧に語り継いでいるのです。イエス様に愛された記憶を、なしてくださったすべてのことを、そして、十字架と復活を。
 人間はすぐに忘れてしまう。説教を聴いても入って来ない言葉もあることでしょう。牧師は同じことばかりを語っていると思われるかもしれない。実際そうなのです。罪と罪の赦しと十字架と復活。でも、入ってこない言葉も、いつか心に「思い出す」時が来ることを、生きた言葉として思い出してくださる時が来ることを祈りつつ、教会は、牧師は毎週、教会が2000年間語り伝えてきた救いの言葉を、語り続けています。

 主は復活されました。この命は私たち信じる者すべての与えられる命の恵みです。もし、今、困難な何かに立ち向かっておられる方がおられたなら、大胆に神の恵みの座に近づき、主の救いを求めてみてください。主は喜ばれ、新しい、御心に適う道を、生き方を、復活の命を与えてくださいます。