「聖霊において明らかにされること」(2019年9月1日礼拝説教)

イザヤ書32:15~17
ヨハネによる福音書16:1~15

 二カ月ぶりにヨハネによる福音書に戻って来ました。ヨハネによる福音書は、13章からイエス様の十字架の前の、最後の晩餐の席での出来事が語られています。
その席で、イエス様がはじめになさったことは、弟子たちの足を、イエス様ご自身が洗うという行為でした。足を洗うというのは、当時の奴隷のする仕事です。それを弟子たちにとっての主であり師、先生であるイエス様が、弟子たちに対して身を低くしてなさったのです。それは、イエス様の弟子たちに対する愛の行為であり、イエス様が去って行かれた後の、弟子たち、教会共同体に対して、互いに愛し合うという模範を示すためでした。
 今日の御言葉の直前は、弟子たちに対する、「迫害の予告」です。16章1節の「これらのこと」と言うのは、この後起こるユダヤ人たちからの迫害、具体的にはユダヤ教の会堂から、イエス様の弟子たちが追放をされる、キリストを信じる群が、ユダヤ教とは分離していくことを余儀なくされたということを前の章でイエス様が語られたことを指しています。その事はこの後起こるけれど、迫害が起こった時に、弟子たちが信仰を捨てないように、イエス様ご自身が迫害を予告して語られたことを思い出して、どんな時にもイエス様が弟子たちに足を洗うことでお示しになったように、互いに仕え合い、愛し合い、キリストを信じる者たちの群を養っていくように、イエス様は弟子たちに最後の教えをしておられるのです。

 それにしても、キリストを信じる人々を迫害するのは、同じ神を仰ぎ望んでいるはずの、主なる神に選ばれたイスラエル民族の末裔であるユダヤ人たちでした。ユダヤ人は、神からこよなく愛され選ばれた民であった筈です。そして、自分たちは主なる神に従っている正しい人間だと思っている。しかし、この時、主なる神が人となられて目の前におられても、そのお方と認めず、憎んで、何としてでもイエス様を捕らえて殺そうとしています。
彼らは、かつてモーセを通して与えられた律法と、それを自分たちの時代に適合させながら人間が解釈を加えた口伝律法と言われるものを「守る」、定められた掟を「守る」ということを最上のことと見做しており、いつしか「掟を守る」ことに於いて、自分自身を誇るようになっていました。まことに神の御心を真摯に問うて、自らを見つめ、神と向き合うことなしに、掟こそが金科玉条となってしまっており、掟を守れない人たちを裁き続け、律法を民に与えられた神の思いと愛を見失っていたのです。
 そして更に、神の御前に自らを低くし、謙遜な思いをもって神に従うという心を失っておりました。いつしか、「自分が正しい」「自分こそが」というように、神よりも自分の正しさを前面に押し出すことに躍起になるようになっていたのです。
人間というのは、本当に自分中心のものだと思います。この長く生きても100年そこそこの弱い肉体を持つ私たち。神の永遠ということを年月で計ろうとするならば、神に比べて計り知れない小さい自分であるのに、この世の生に於いて、多くの人は貪欲で、絶えず人と自分とを比べ、人よりも優れ、また人よりも「正しい」自分自分をみせびらかすというのでしょうか、前面に出そうとする。そのようなことで、人間同士の争いは絶えません。「愛し合う」「身を低くして仕え合う」というイエス様の教えがどれほど人間には難しいことなのだろうか、ということをつくづく思わされます。

 そんな人間の自分を押し出すような心が渦巻くの中、イエス様は「去って」行かれます。
神が人となられた御子キリストは、ヨハネによる福音書の中で、再三に亘って「私と父はひとつである」ということを語られました。イエス様がご自身について証をされることは、自分自身というものを前に前に押し出すことではなく、「父とひとつである」そのことに尽きるのです。
この言葉で、ユダヤ人たちは、「神を冒涜している」と、イエス様を捕らえて殺すことになっていったのですが、「父とひとつである」ことは、イエス様にとっては、大言壮語をして人を欺く言葉ではなく、事実である、というだけのことです。そして、「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった方が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになった」(12:49)、「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っているのである」(14:10)と言われました。
そして、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」と言われ、イエス様は、人間が自分自身を誇るように自分を誇ることなく、父なる神の御心をご自分の心として、退き、去って行かれるのです。
「あなたがたの心は悲しみで満たされている」(6節)とイエス様は語っておられますが、この時、弟子たちだけでなく、イエス様ご自身が愛する弟子たちと別れ、この世の生を終えること、命の終わり、それも十字架というこの上なく苦しみの死を迎えることが、父なる神のご自身に対する御心であることを知りながらも、悲しみでいっぱいであられたに違いありません。
ヨハネによる福音書でこの後続くイエス様の祈りは、感情の抑制された祈りとして語られていますが、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書によれば、この後、イエス様は苦しみ悶えながら、父なる神に祈っておられます。イエス様が完全な人であられたということは、イエス様は、私たちの体の痛みや辛さ、そして心に於いては喜びも悲しみも、嘆きも、私たち同様に持っておられるお方であるということです。自らの人としての死を前にして、この時、イエス様は人間として、悲しみの極みにおられたのです。
 完全な神であり、尚且つ完全な人、それがイエス様でした。
 
 そして「まことの神」としてのイエス様は、父なる神の心を存知であられました。
だから「わたしが去って行くのは、あなたがた=弟子たち、そしてすべての人のためになる」といわれ、イエス様は十字架という苦しみを受け入れて、去って行かれるのです。
 イエス様が人としてご自身のうちに引き受けられたことは、人間が持ちたがる自分自身に固執することなく、世の欲望を退けて、父なる神の御心だけを行うこと、そして、人間としては、世にあって病を持ち、貧しく、虐げられた人たちの傍らに立つこと、人間の肉体の苦しみの極限を味わわれることでした。人間の肉体の苦しみの極限、それは、イエス様の死の姿、十字架の苦しみでした。
 さらに言われます。「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」と。

「弁護者」ということ、14章で既に語られていました。「弁護者」とは、ギリシア語でパラクレートス。人間の傍らに絶えず立っておられて、その人を弁護してくれる者。仲介してくれる存在、すなわちそれは聖霊なる神であるというのです。
 主なる神は、父子聖霊なる三位一体のお方。主なる神は、万物の創造の初めの時から、三つにいましてひとつのお方であられました。
 創世記一章1節2節をお読みいたします。「初めに、神は天と地を創造された。地は混とんであって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』こうして、光があった」。
 神とは父なる神と言われるお方であり、創造の時に、既に「神の霊」が「水の面を動いてい」ました。そして、神は「光あれ」と言われました。ヨハネによる福音書の冒頭には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と語られており、ここで言=神の言とは、イエス・キリストであったということが語られているのです。そして神の言はそのまま事柄を起こします。「光あれ」と言われた神の言葉によってそのまま光が生まれたのです。神の言葉は言葉自体がそのまま事柄として引き起こされる言なのです。
 父なる神がおられ、神の発した言そのものがイエス・キリストであられ、万物は、イエス・キリストによって創造された。そして、その時既に、神の霊=聖霊がおられたのです。
 そして神の霊は旧約の時代もさまざま働いておられました。しかし、まだ際立ったお働きではなく、旧約の時代は主なる神ご自身が語り、民を導いておられました。

 余談になりそうですが、このことを考えていましたら、モーセに語りかけた主の言葉、そして預言者たちに語りかけた主の言は、イエス・キリストだったのだということを改めて思わされました。イエス様は、主なる神のうちに、旧約の時代から父なる神と共に働いておられたということを思います。そして、神の言が人となられた時、イエス様は「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった方が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになった」(12:49)ということが起こったのだということに気づくものです。

 そして聖霊なる神は、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時に、イエス様に降られました。イエス様は神であられますが、弱い肉体を持ったひとりの完全な人でもあられましたので、完全な神であり、完全な人でもあるお方にとっては、宣教の御業を始められる時、聖霊なる神の完全な力がイエス様に必要だったのではないでしょうか。そして、その時まで聖霊の働きは、あくまでイエス様の上にのみ、イエス様が世にある時代にはあったのではないでしょうか。

 そして、この時、イエス様は去って行かれようとしています。十字架に架かり、死なれるのです。そして、復活され、天に昇られる。そのことを私たちは知っています。
イエス様は言われました。「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」(7)と。
 
 イエス様が世に来られた時まで、弁護者なる聖霊は、イエス様のところにのみ留まっておられ、イエス様を励まし続けておられました。
そしてイエス様の十字架とは、生まれながらに神に背く罪という性質を持つ人間、罪の故に、神から引き離されている人間、罪によって滅びに定められている人間と、永遠なる神を繋ぐ執り成しのためのものでありました。
 人間の罪というのは神の領域に於いて、人間を滅びに至らせるものであり、それを償い、滅びから免れるためには「命」が必要でした。これが聖書の世界観です。
旧約の時代は、人間が神の御前に自分自身の命によって罪を償う代わりに、動物の犠牲を献げて、神に罪を赦していただくということを数限りなく続けておりましたが、ある時、主なる神は言われたのです。アモス書5:21をお読みします。「わたしはお前たちの祭を憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない」と。
主なる神は、動物の犠牲を退けられました。そして何をなさったのかと言うと、神の御子がすべての人の罪を赦すための生贄となり、ただ一度命を捨てられる=十字架の上で=そのことによって、人がただ、イエス・キリストを信じ、自らの罪を主の御前で悔い改める、そのことだけで、動物の命も、人の命も罪の赦しのために犠牲として献げられる必要が無くなる。そのような道が拓かれたのです。
「祭を憎み退ける」と言われた神は、動物の犠牲に代えて、自らが人となり、生まれ、生きられ、十字架の上ですべての人の罪に対する犠牲として死なれるということが、神のご計画として為されたです。動物でも人でもなく、ご自身が代わって苦しみを受け、すべての人の犠牲となることを引き受けられたのです。神は人間が傷み苦しむことを望んではおられません。

 そして、神の御子が十字架の上で死なれたこと、そして死を打ち破り復活されたことによって、人間に定められていた死の呪い、定められていた滅びは打ち破られました。
人はただ信仰によって罪の縄目から救い出される道が拓かれました。
 イエス・キリストは、人間の救いの道を自らの苦しみによって拓かれたことにより、栄光を受けられて、天に昇られました。そして父なる神の右の座=支配の座にお着きになられ、父なる神とキリストのもとからこの地に、そして地にある者たちに、神の霊であられる弁護者なる聖霊を、遂に送ることが出来るようになられたのです。
 今、この世は、イエス様が「去って行かれた」世です。イエス様は今は天におられ、ここに人としてのイエス様はおられません。しかし、イエス様が栄光を受けられ、天に昇られたことにより、すべての人間の罪が赦され、神との和解の道が拓かれて、神の霊が―霊であられるから形はなく、ひとところにおられる訳でもなく、すべての人の傍らに立って弁護することの出来るお方として、降せられ、ヨハネ14章で既にお読みいたしました、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」という神のご支配が、イエス・キリストが去って行かれ、迫害や苦しみが残されている、不完全なこの世に、現されるようになったのです。

 そして聖霊なる神は、イエス・キリストを証しし、イエス・キリストに栄光を与えられるお方です。イエス・キリストを信じて、弁護者なる聖霊を受けた時、人は神に、神の御心に対して目が開かれて行きます。
 人間の罪について、神の義=神と人間の和解について、神の裁きということについて、神の言葉である聖書=イエス・キリストに、ひとつひとつ新しく目が拓かれて行き、この世のさまざまな欲望に増して、神との関係を正しく持つことが、私たち自身の命にとってどれほど大切なことであるのか、世は目に映るもので出来ているのではなく、目には見えない、神の支配が小さな人間の考えや体を超えてあるのだということに、目が開かれて行き、新しい命が私たちの内から沸き起こってくることでしょう。そして聖霊に導かれて新しく生きることが出来るようになります。絶えず祈り、主の御心に自らを委ねて行く新しい生き方です。
それでも神と人間との間には人間が世にある限り、さまざまな葛藤がありますが、イエス・キリストを信じて弁護者なる聖霊を受け、神と共に絶えず歩む人は、霊において成長させていただくようになり、やがて聖霊の実を結ばせていただくようになることでしょう。
 ガラテヤの信徒への手紙5章22節からお読みいたします。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。

 世には迫害があり、さまざまな苦難があります。しかし、イエス様はすべての人の救いのために、この後去って行かれ、ご自分の命を捨てて、人間に救いの道を拓いてくださいました。
 イエス様が去って行かれたことにより、すべての人にイエス・キリストの霊、弁護者なる聖霊が降されるようになり、絶えず神が共にいて、信じる者を励まし、慰め、また鍛えて下さるようになりました。

 教会は地上に於ける神の支配の現される所です。私たちの群が、キリストの十字架によって罪赦され、新しくされ、聖霊を受けた者の群として、キリストの愛に根ざした歩みがこれからも力強くなされるよう、求めたいと思います。
 神はすべての人が、信仰によってイエス・キリストの霊、弁護者なる聖霊が共にある新しい生き方を、互いに仕え合い、愛し合い、互いに重んじ合って生きることを主は求めておられます。
 そして、教会の垣根を越えて、おひとりおひとりのご家庭の上にも、神の赦しと神のご支配が豊かにありますことを、強く祈りたいと願います。