11月6日召天者記念礼拝説教「主の愛は永遠」

聖徒の日 召天者記念礼拝 「主の愛は永遠」

聖書 コヘレトの言葉7章1~2節、ローマの信徒への手紙8章31~39節

召天者と共に礼拝

日本キリスト教団では11月第1日曜日を「聖徒の日」と定めて、召天者と一緒に神を礼拝する時としています。聖徒は聖人―徳が高く人格高潔で生き方において他の人々の模範となるような人―ではありません。キリストを信じて生活し、神のもとに召された人たちのことです。またキリストを信じて生活をしている人たちも聖徒です。

礼拝は召天者を供養するのではなく、すべての召天者が復活の主キリストに結ばれ神の御許にあるという平安に私たちが感謝するひと時です。今日はこちらに土気あすみが丘教会で信仰生活を送り天に召された兄弟姉妹、またそのご家族や関係者の写真が飾られています。この方々も礼拝にあずかり、イエス様を信じて、神様の愛を信じて一所懸命に生きて、そして天に迎えられた人たちです。

孤立死した人のことを思う

この前私はラジオのドキュメント番組『さだまさし 音楽50周年』を聞いていまして、その中でさだまさしさんが遺品整理業のドキュメント番組を見て「遺品整理業の人たちはたとえば孤立死してしまった人たちが自分の残したものをどうなるか心配して逝かれたかもしれないけれども、その後始末をちゃんとしてあげている、こんな尊い仕事があるんだ」といたく関心して本を書いたお話をしていました。

遺品整理業の会社の代表者がインタビューでこんなことを言っていました。「部屋で孤立死される方は高齢者のイメージがあるかもしれませんが50代での孤立死が増えています。仕事場では人間関係がありますけれども、私生活では友人がいないという方が多いのです。生活はワンルームマンションやコンビニのご飯と言ったものの充実によって一人でも快適になり携帯電話やパソコンと言ったものを通してつながっているように錯覚してしまっている」。このように言うのです。またこんなことも言っていました。「普通に見えるお宅の玄関を開ければ中はSOS状態なのにそのシグナルが表に出ないのが残念です」。マザーテレサはインドで路上に倒れてそのまま死んでしまう人たちを救う尊い働きをしました。今、日本では家の中で孤立して、そして知られずに死んでしまう人がいるという現実があります。

代表は続けます。「これは私たちの生活スタイルが変わって来たからです。昔は家業を継ぐとか長男が家を任されると言った習慣によって、煩わしいことがあってもそれは当たり前のことであってその煩わしさを我慢する方が生きやすい社会でした。でも今は考え方や生活スタイルの変化によって煩わしさを我慢しても何のメリットもない時代になりました。今の人が欲を追求していくと昔のような生活スタイルは否定されます」。この代表の言葉はある面では日本の現状を良く言い表わしていると思うのですが、問題の原因を血縁関係にある家族の問題に落とし込んでいるとことに私は少し違和感を感じました。この違和感の原因が何であるかについて、私は今日与えられました御言葉をもとに黙想してみました。そのことをお証ししたいと思います。

コヘレトの言葉 死は生にまさる

まず旧約聖書の「コヘレトの言葉」に聞いてみたいと思います。コヘレトの言葉7章1~2節には「生」と「死」が対比されており、死は生に優ると告げられています。2節に「弔いの家に行くのは酒宴の家に行くのにまさる」という言葉があります。弔いの家に行く人は私たちが普段は忘れている真理に出会います。人は確実に死ぬということをそこでまざまざと知るのです。亡くなられた方が横たわっている現実を見るのであります。「そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。」(2節後半)。「心せよ」というのは心をそこに置きなさい、という意味です。心を死というものの所に置くということです。それはなぜかと言うと、そこが私たちの生きる出発点になるからです。死を以て私たちは生を見ることができる。そういうことをコヘレト入っているわけであります。

「死ぬ日は生まれる日にまさる」(1節前半)というのは、私たちにとって生き続けるということがいかに大変な事なのか、そして死はそれが終わりになる、完成するのだということを表しています。新約聖書にパウロという伝道者が書いたフィリピの信徒への手紙があります。パウロが牢獄にいる時に書き送った手紙ですけれども、こういう風に言っています。「私にとって生きるとはキリストであり、死ぬとは利益であります。生き続ければ実り多い働きができます。一方ではこの世を去ってキリストと共にいたいと熱望していますが、他方では生きている方があなた方(パウロが心にかけている人たち)のために必要なのである」。すなわち、自分のために生きるというよりもその人たちのために生きる必要があるから、今、私は生きている、とパウロは語っています。パウロは早く神の御許に行って安らぎたいという思いを持ちつつ、しかしこの世で与えられている役割、使命を果たすという自覚を持っていました。私たちもそうなのです。この世にいるということはこの世での働きが与えられている、存在するということには存在するだけで価値があるのです。

神の愛から離れることはない

次にローマの信徒への手紙8章31節から39節の言葉から私たちに与えられる神の言葉を聞きたいと思います。ここには生も死も超えるキリストの愛が証しされています。キリストに出会ったパウロは生も死も超えるキリストの愛に目覚めたのです。この愛に気づいたのであります。そしてこの愛から私たちを引き離すことはできない(38~39節)ということに気づいたのであります。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(31節)。敵対できるほどの力を持ったものはいないのであります。神が私たちに味方しているから、私たちの生き様がどんなに大変であろうとも、それは神によって「よし」とされているのです。神は「あなたの生き方はそれでいいんだよ。あなたはあなたの生をしっかり生きていきなさい。私が味方なんだから大丈夫。しっかりと歩いて行けばいいんだよ。」と伝えているのであります。それは生きている方と天に召された方のすべての人に神はそうされています。特に天上におられる方々はすでに神の御許にいらっしゃるから安らいでおられるわけですけれども、私たちもそのような神の愛の中にいるのであります。

生きている間も死の後もキリストは私たちを愛しておられます。それは何でわかるか。それは主イエス・キリストの死によって明らかなのであります。イエス様は何の罪も犯していないにもかかわらず私たちの罪を背負って死んでくださった。そして父なる神に私たちの罪をすべて赦してくださるように執り成してくださいました。私たちが生まれる前から、また神を知らずにいる時から、あるいは私たちが神に敵対している時から、イエス様は私たちのためにご自分の命をささげられたのであります。洗礼を受けた方は聖餐にあずかりますけれども、これはイエス・キリストの尊い犠牲にあずかりそのことを覚えることなのです。洗礼をお受けになっておられない方にとっては、これは単なるちっちゃなパンのかけらと小さな盃に入ったぶどう液でしかありません。しかし洗礼を受けた者にとってはイエス・キリストの救いのしるしなのであります。ですから、洗礼をお受けになっておられない方は今日、聖餐式があります時にそのことを覚えて見守っていただきたいのです。そしてできることならばキリストを主と仰ぐ信仰共同体の群れに参加していただきたいと心より願っています。キリストの救いにあずかるためです。ここに写真が飾れている方々もそのように生活して天に招かれましたし、またそのような生活をしている家族に守られ天に招かれたのです。

神は洗礼を受けている人たちだけを愛しているのではありません。すべての人を造り、愛し、祝福しておられる。礼拝はそのことを私たちが知るということなのであります。それを知った時に初めて自分がいかに傲慢なことをしてきたか、いかに自分のために人を欺いてきたかということを思い起こさせられます。神が救ってくださったことを知った時に、初めて私たちが如何に貧しいものであったかということを知るのであります。このように主イエス・キリストの十字架の贖いによって私たちは神が私たちを愛してくださっていることを知るのです。神は私たちの味方、私たちを愛して、愛して、愛しぬいておられます。ご自分の独り子ですら死にお渡しになるほど私たちを愛しておられます。

天に召された方々とは永遠の別れではない

キリスト教という形に整えられて300年ほどした頃にアレクサンドリアというところの司教(牧師)にアタナシオスという人がいました。この人はイエス・キリストの出来事を通して次のように言っています。

「実にいまや我々は有罪の宣告を受けた者として死ぬことはない。むしろ我々はよみがえらされる者として万物の復活を待つ。それは御子の死と復活の業をなさった恵み深い神が定められた時に現わしてくださることである。」

主は十字架で死なれただけではなく、父なる神によってよみがえらされたのであります。私たちも一旦は死にますけれども、またよみがえらさせていただき霊の体として復活する希望を持っています。そういう意味では天に召された方々とは永遠の別れではないのです。また再び会える時を信じて待つことができます。御子を復活させてくださった恵み深い神は定められた時にそのことを起こしてくださいます。孤立死した人も裕福で悲しむ人に囲まれて死んだ人も死ぬときは一人ですが、キリスト・イエスの恵みを信じるならば神の愛のうちにおります。どのような力も神の愛からその人を離すことはできません。それぞれの人の生を慈しんでくださっています。私たちは安らかに主の御許に行くのであります。キリストにつながる者はキリストの恵みを受け神の愛のうちに生きて、そして死ぬのです。ただこの神を信じればよいのです。天に召された方々もそうでありました。

私は土気あすみが丘教会には神の家族としての豊かな交わりがあると確信しております。この交わりに積極的に関わるか、少し遠慮がちに関わるかというのはそれぞれの方の事情がありますし、画一的に深く関わらなければならないということではありません。それぞれの方がご自分の状況に合わせて関わっていけばよいのです。しかし、大切なことは、そのような交わりの中に入ろうと思えば、関わろうと思えば、関わることができる主にある豊かな交わりがここにあるということです。そこには主がおられます。主がおられるから豊かな交わりができているのです。このような神の家族はお互いがお互いを思いやります。助け合います。神の家族はこの世の法的な家族の範囲から解放されています。私たちは法律の条文に書かれているような家族ではなく、主を信じることによってつながっている神の家族です。その家族は一人ひとりがそれぞれの生活を送りますけれども、共に人生を歩いていく人生の同伴者です。教会の同伴者はすべての神の民です。血がつながっていることを最重要に考えることなく、神のつながっているというこの一点において強固に結びあわされ、豊かな交わりの中に置かれるのであります。

もし神を信じるならば孤立死を恐れることはありません。孤立の中で独りで死んでいかなければならないとしても、そこに主イエス・キリストが共にいてくださいます。もちろん遺品整理業の方々は孤立死をした人の家族や関係者が孤立した人のことを思い、その慰めとなるためにと思って整理されているのですから、それは大切なことです。そして神の家族もその中の一人が亡くなったら葬儀に参加する、遺品整理を手伝うといったことをします。心を込めて地上のでお別れをし、天上での再会の希望を分かち合うのであります。

しかしもし教会がキリストの恵みを忘れ、神の愛から遠ざかってしまったなら、教会はサロンのようになり、あるいは同好会のようになってしまうでしょう。そこに神はおられません。教会で神のことが語られなくなった時、あるいは神のことをなおざりに語るようになった時、危機が訪れていると知らなければなりません。

キリストの十字架による恵みは私たちにあふれ、神の愛が私たちを捉えています。神の愛は何ものによっても私たちから離れることはありません。もし私たちが神の愛から離れたとしても神はどこまでも探し求めて私たちを立ち帰らせてくださいます。この愛のうちにある教会はお互いに豊かな交わりのうちにあります。この教会に主人は主イエス・キリストお一人です。私たちはすべての人がここに招かれたゲストです。そこには洗礼を受けた者、受けていない者の区別は一切ありません。どなたもここに招かれています。洗礼をお受けになる時は神さまが教えてくださいます。

そしてまたこのような交わりは孤立死を防ぎます。豊かな交わりの中にいるならば友のことを思い、その友に、神の兄弟姉妹に「今どうしてる」と声をかけることが気軽にできるのです。その関係があるならば孤立死はないと信じるのであります。教会に連なる神の家族は豊かな交わりの中にいます。天に召された方々も一緒です。天に召された方々の方が私たちのことを心配しておられるかもしれない。なぜならこの方々は神の御許で安らいでおられるからであります。

神に感謝

今日は天に召された方々と共に礼拝することができました。この幸いを父なる神、主イエス・キリスト、聖霊の三位一体の唯一の神に感謝いたします。