2月12日礼拝説教「人生の道案内」

聖書 申命記30章15~18節、マタイによる福音書5章21~26節

経路案内と人生の道案内の違い

最近は携帯端末の地図を頼りに初めての場所でも迷わずに行くことができるようになりました。「経路案内」という機能を使えば今いる所から行きたいところまでのルートが表示され、さらに道の途中でも現在地がわかるので便利です。私はこちらに来て、この機能に助けられています。しかし私が初めて千葉駅から市民会館まで行ったときに携帯端末がどういう訳だかおかしくなってしまい、道に迷ってしまいました。その時は久しぶりに道を歩いている人に声をかけて教えてもらいました。こんなこともありましたが道案内は便利です。

人生にも道案内があればどんなに人生を安心して進んで行くことができるかと思います。人生には思いもかけない出来事が待っているものです。それぞれの方が経験してきたことだろうと思います。そしていくら経験を積んでもこれから先のことは本人であっても分かりません。

本日は人生の道案内と題して証しをしたいと思っています。しかしながらこの道案内はこれから先の人生が決まっていてそれを案内してもらうにはどうすればよいかをお話しするものではありません。そのような決められた道を辿ることは私たちにとって決して楽しいことではありません。それよりもどのようなことに遭遇しても揺るがない人生の道の歩き方を知る方が良いと私は思います。

命と幸いの道、死と災いの道

聖書は人生の道案内についてどのように語っているでしょうか。もちろんこの言葉が聖書の中に出てくることはありません。今日は申命記30章15節から18節の御言葉から人生の道とそれを神はどのように案内してくださっているかを聞きたいと思います。

15節に「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」という神の言葉が書かれています。「命と幸い」と「死と災い」が比べられています。神さまはこの2つの道を私たちの前に置いていると言われるのです。私たちは「命と幸い」だけで良いと思うのですが、神さまは「死と災い」も私たちの前に置いておられます。そのどちらを選ぶかは私たちに委ねられていると言っても良いでしょう。

まず16節には「命と幸い」の道が書かれています。主なる神を愛する。その道に従って歩む。戒めと掟と法を守る。この3つが書かれています。「戒め」とは神さまの命令で、それはイエス様が教えてくださった「あなたの神である主を愛し、隣人を自分のように愛しなさい。」を守るようにというイエス様の命令です。「掟」とは十戒に代表されるものです。そして「法」とは正義や審きです。これらは相互に関係しています。

これらを守る人は「命を得て増える。そして神はその人を祝福される」と言われます。生きている者に向かって「命を得る」というふうに語られる言葉を不思議に思うかも知れませんが、生きるということは生命体として存在するということではなくて、喜びつつ人生を歩むことです。それは悲しみさえも喜びに変えてくださる神に寄り頼む人生と言えます。

一方でもう一つの道も私たちの前に置かれています。私たちはそのような道を歩みたくないと思っているのですが、現実にはそのような道を歩いているかもしれません。その道とは「主なる神に聞き従わない。惑わされる。他の神々にひれ伏し仕える」というものです。他の神々と言っても主なる神以外に神がいるわけはありませんから、神ならぬものにひれ伏し仕えることを意味します。たとえばお金さえあれば大丈夫と考えてお金を追い求めることや、健康が第一だと考えて健康を追い求めることです。これらにひれ伏し仕えていないようでも、よくよく考えてみると、それ無くしては生きられないと思っていることに気づくことがあるかもしれません。世の中には財産や健康などすべてのものを求める欲の深い人がいるかもしれません。

しかしそのような道を歩いている者は必ず滅びる、と神は言われます。「ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地」とは比喩的表現であり、これからの人生の行きつく先を示していて、目標とするところに立ったとしても長く生きることはないと言われます。多くのものを手に入れた金持ちが大きな倉を建てて安心した夜に命を取り上げられるというルカ福音書の愚かな金持ちの譬えに表されているようなことが起きるのです。

不測の事態は人間を弱らせます。どんなに準備して備えていても不測の事態を避けることはできません。やはり「命と幸い」の道を行く方が安心であり、豊かな人生を送ることができます。

命と幸いの道を歩いいている人が陥りやすいこと

マタイによる福音書5章21節から26節に書かれているイエス様の言葉も人生の道しるべでして、このイエス様の言葉は申命記30章の言葉をさらに掘り下げ、私たちが陥りやすい過ちに気づかせてくださるものです。

十戒の第6番目には「殺してはならない。」と書かれており、さらにレビ記24章には「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。」と記されています。

私たちは人を殺すなどという犯罪を犯すことはない、と思っていますが、イエス様は22節にあるように、「兄弟に腹を立てること」や「馬鹿と言うこと」や「愚か者と言うこと」は、人を殺しているのと同じだ、と言われます。これは厳しい言葉です。実際に人を殺すことはなくても、憎む気持ちや馬鹿にする気持ちは多くの人が持っているのではないかと思います。

ここで「馬鹿」とは頭が空っぽの人、咎められた人のことを指します。そして「愚か者」とは不信心な人、神の存在を否定する人、神を信じない人を指します。ですから、人を憎むこと、人を馬鹿にすること、神を信じていなかったり神に背いている人を軽蔑することも、人を殺しているのだとイエス様は言っておられます。

このように言われると私たちは「殺してはいません」と胸を張って神さまの前に出ることができなくなります。申命記30章の「死と災い」の道を行く人は往々にして「命と幸い」の道を行く人を「ばかな生き方をしている」と罵り、蔑みます。

イエス様は「死と災い」の道を行く人の態度がそのようであっても「命と幸い」の道を行く人が「死と災い」の道を行く人を憎んだり、馬鹿にしたり、蔑むのは、その人たちを殺すことだと言われます。一方的に罵りを受け、蔑まれても、憎まず、馬鹿にせず、愚か者と思わないように生きることを求めておられます。

23節にある「祭壇に供え物を献げる」というのは、神さまに罪を赦していただき、神さまが私たちと和解してくださるようにとの祈りをもっておこなう祭儀です。それは大切なことです。

そんな大切なことをしている時に、誰かが自分に反感を持っているのを思い出したら、その祭儀を中断して、まずはその人と仲直りしなさい、とイエス様は言われます。反感を持たれる理由は何であれ、行って仲直りするように私たちに求めています。

さらに訴えている人と一緒に道を行く場合には途中で早く和解しなさい、さもないと牢に投げ込まれ、負債をすべて返すまでは決してそこから出られないと、イエス様は言われます。

訴えている人と一緒に道を行くということは現実的ではないと思われます。ですからイエス様のこの言葉は比喩だということです。私たちは訴えている人がいればその人を憎むでしょう。馬鹿と言い愚か者と言いたくなります。

イエス様はそのような思いが私たち自身の心を牢に閉じ込めて、そのせいで身動きできなくなることがあります。私たち自身が考えを狭くし、怒りによって自分自身を不自由にしているということを指摘しておられるのです。怒りや蔑みや罵りは私たちの心を狭くします。それは人を殺すだけでなく自分をも殺すことになるのです。

私たちがおこなうことはその人たちが救われるように祈ることです。その人たちが「死と災い」の道ではなく「命と幸い」の道を見つけ、そちらを歩むことができるように祈ることです。そして私たちをいわば攻撃する人を赦すことです。

イエス様の言葉の意味

しかしイエス様が言われることは頭では理解できても、到底、自分にはできない、と思うのではないかと思います。私自身、いつもこのような生き方をすることはできていません。私は弱い人間だと、相手を憎んで赦せない自分を嘆き、自己嫌悪に陥ることがあります。どうすれば他人も自分も殺さずに「命と幸い」の道を歩くことができるでしょうか。

それはイエス様のもとに行くことです。イエス様が私たちを赦してくださいました。イエス様を思い、イエス様に祈りたいと思います。「人を赦すことのできない私、人と和解することのできない私を変えてください。人を赦し和解する者に変えてください。」と祈りたいと思います。

私たちが自分の力で人を赦し仲直りすることができるのではありません。「命と幸い」の道を歩むということは、私たちの力でその道を歩むことではなく、神さまが私たちを導いてくださることを信じ、神さまが私たちを赦すことの出来る者に変えてくださることを信じて、祈りつつ人生の旅を歩んでいくということです。

祈りつつ歩む

イエス様が私たちを愛してくださいました。イエス様が私たちを赦してくださいました。

私たちは祈ることを許されています。イエス様に訴える祈りも許されています。継続して祈り続けるうちに私たちは神さまに変えていただけます。このことを信じて、「命と幸い」の道を歩み続けたいと思います。