「更にまさった約束の仲介者」(2018年11月18日礼拝説教)

出エジプト記3:7~10
ヘブライ人への手紙8:1~13

 先々週からクリスマスを前にした降誕前、イエス・キリストの到来に先立つ旧約聖書の出来事に思いを馳せる時に入っています。
 今日は、ヘブライ人への手紙をお読みしました。
「ヘブライ人」というのは、ユダヤ人、イスラエル民族の古い名称です。創世記でヤコブが、「神」と格闘して「イスラエル=神が戦う」という名を神からいただいて、それは民族を表す名称となっていきますが、しかし、ヤコブが息子たちと共にエジプトに移住して、400年経った頃、モーセの時代にも、イスラエル民族はヘブライ人と呼ばれています。一説には、イスラエル民族以外の人々からヘブライ人と呼ばれていた、と言われたりいたしますが、比較的新約聖書に近い時代からは、「ユダヤ人」の敬称=敬意を表す呼び名として、同胞のユダヤ人同士で用いられていたようです。敢えて自分たちを「ヘブライ人」と呼ぶことで、先祖から受け継いでいる信仰を強く意識していたのでしょう。
この手紙は、その名のとおり、ヘブライ人=ユダヤ人に対する手紙であり、旧約聖書の律法を知りながら、イエス・キリストを信じる信仰に入った人たちに対する礼拝説教であったと言われています。ですから、旧約聖書の引用が非常に多く、また、旧約聖書を知らなければ、分からない言葉が多くあります。
今日は旧約聖書の律法についてお話しをしつつ、イエス・キリストの贖いの恵み、私たちの信仰のど真ん中に迫って行きたいと願っています。

 律法というのは、主なる神の憐れみによって、奴隷であったエジプトの地から出エジプトをし、自由な民とされたイスラエルの民=ヘブライ人、400年もの間、奴隷として、恐らく何の教育も為されていなかったイスラエルの民族に対し、モーセを通して与えられた、主なる神からの「このように生きなさい」という戒めと掟であり、神と人との間に取り交わされた契約です。契約ですから、ただの口約束のようなものではありません。その契約には旧約朗読でお読みしましたが、神がイスラエルをエジプトから救い出されたという恵みが先にありました。そしてイスラエルの民は、神の救いの恵みへの応答として神から与えられた律法を守り生きるという使命が伴ったのです。
律法の内容は大きく分けると二つに分類されます。ひとつは道徳律法。これをしてはならないという禁止条項ですとか、このように行いなさいという勧め。
もうひとつが、今日の御言葉に関わって来るのですが、「儀式律法」。神の御前に人間の罪を「贖い」のために、動物を犠牲として献げるという儀式です。旧約の時代、この儀式が神への礼拝の中心でした。
「贖い」という言葉、難しい言葉ですが、これは一般的に「罪の償いをする」という意味の言葉ですね。例えば「死をもって罪を贖いとする」のように。
 聖書に於いては独特な意味が加味され、ひとつには、「人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すこと」を「贖い」と語られます。また「身代金を払って奴隷を自由にすること」、これも贖いです。さらに、「罪のつぐないをするために、犠牲の動物を献げること」を贖いと言うのです。儀式律法の中心は、今申し上げた「贖い」の意味を含みつつ、即ち、「買い戻すこと」「奴隷=罪の奴隷となっている者を罪から自由にすること」を含みつつ、具体的な行為としては三つ目、「罪の償いをするために、犠牲の動物を献げる」という儀式が、絶えず行われていたのです。

 それは人の目にとても残酷な行為でした。例えば「焼き尽くす献げもの」と呼ばれる儀式は、レビ記の1章に語られているのですが、罪の赦しを願う人=奉納者が、傷の無い雄の牛を臨在の幕屋の入り口に引いて行き、手を牛の頭に置くと、それは、その人の罪が引いてきた牛に移されることを意味して、その人の罪を「贖う」儀式として神に受け入れられたものとなります。そして、奉納者がその牛の首、頚動脈を切って、屠るのです。首から血が流れます。その血を、祭司たちが器に取り、祭壇の四つの側面―この聖餐卓が私たちの信仰に於いては祭壇となります―に、血を注ぎ掛けて、血を神に献げるのです。さらに奉納者が牛の皮をはぎ、その体の各部を分割すると、祭司たちが、祭壇に薪を整え並べて火をつけてから、祭壇の燃えている薪の上に置いて、牛の体を焼き尽くして神に献げるのです。ちなみにこの聖餐卓はイエス様が犠牲の献げ物として祭壇で献金げられ、私たちの罪が赦されたということとを表しています。今は2000年前の十字架、イエス様の贖いによって動物犠牲はありませんがイエス様がそのように屠られたことを今、まさにこの礼拝堂の真ん中でそれが行われているということを想像してみてください。
 旧約聖書の時代には、そのような儀式による礼拝が絶えず行われ続けていました。ひとりの人の一つの罪に対し、動物が殺され、焼かれるのです。凄まじいものだと思います。目に映るものは残酷で、耳には動物の断末魔の叫び声が聞こえ、血の臭いがし、奉納者の体もそこもかしこも血でまみれる。人間の五感に強烈なまでの不快感をもたらす儀式、それが人間の罪の贖いをするための儀式律法なのです。

 さて、祭司の中でもただひとり、大祭司と呼ばれる、祭司たちと区別される最高位の祭司がおりました。大祭司は年に1度だけ、すべての民の罪の贖いための犠牲動物の血を持って神殿の中でも最も奥深い、大切な、普段は誰も立ち入ることの出来ない、至聖所に入ることが出来、祭壇の角に血を塗り、律法が記された板が納められている契約の箱に向かって血を注ぎます。そして、贖いのふたに雄牛の血をふりかけるということによってイスラエルのすべての民の罪の贖いの儀式をしました。その手順を間違えるとすぐさま死が訪れるという、大変な緊張が伴うものでした。命がけで大祭司は、すべてのイスラエルの民の罪の贖いのための儀式をしていたのです。大祭司は主なる神とイスラエルの民を繋ぐ「仲介者」とされていました。

 人間には罪がある、これは聖書が語る根源的な人間の問題です。しかし、神は人間を罪から、罪の奴隷となっている状態から解放したいと願っておられるのです。そして罪の贖いのためにこのような残酷なまでの儀式を制定されたのです。そのような残酷なまでの儀式が必要なほどに、神の目から人間の罪というのは重いものなのです。
しかし罪というものに対し、私たち人間は鈍感だと思います。神への背き、罪が、人間に死をもたらし、滅びに至るという、人間の目には見えない神の支配構造に対し、人間はどこまでも鈍感で、自分に罪があると聖書が語ること自体不快に感じたりすらする。
 しかしこの残酷としか言えない、儀式律法による動物犠牲が、旧約の時代、人間の罪を贖うためのただひとつの方法として神から命じられた事柄だったのです。
 
 イスラエルは12の部族に分けられておりましたが、祭司という役割は、イスラエル12部族の中でもレビ族が担う役割でありました。祭司、そして勿論大祭司はレビ族から選ばれていましたが、今日は読まなかった7章にメルキゼデクという、レビ族という存在が現れるはるか前の、「謎の」祭司のことが語られています。この人は、古の昔アブラハムが戦いに勝利した時、「いと高き神の祭司であったサレム=エルサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た」と言われる人であり、またアブラハムを祝福したと記されている、それ以上、何も分からない謎に満ちた人物です。そのような人に、父祖アブラハムは、後に民がレビ人に献げたように、すべての持ち物の10分の一をメルキゼデクに献げたというのです。
 アブラハムの時代ですから、まだレビ族の先祖であるレビは生まれていない時代。レビというのはアブラハムの曾孫に当たる人ですから。祭司職はまだヘブライ人には無い時代です。その時に父祖アブラハムにパンとぶどう酒をささげた、エルサレムの祭司メルキゼデク。レビ族の血統によらない、すなわち、普通の所謂祭司ではない、系図もなく、また生涯について語られてもいない、生涯の初めも、命の終わりも語られていない人、その故に、メルキゼデクは「神に似た者」「永遠の祭司」と呼ばれています。

 前置きが非常に長くなりましたが、8章1節で「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き」とあるのは、そのようなレビ族の血統によらない、永遠の祭司メルキゼデクのような大祭司として、ヘブライ人への手紙の著者は、イエス・キリストを理解しているということなのです。イエス様は、人間としての出生はレビ族ではなく、ユダ族にお生まれになりましたから。イエス様を大祭司として理解しながらも、レビ族ではない、レビ族が始まる前に、民族の根源であるアブラハムに祝福をささげた永遠の大祭司、その大祭司メルキゼデクと、イエス・キリストを「メルキゼデクと同じような永遠の大祭司」、すべての民の罪の贖いのための儀式をする役割を負った人として見做し、さらに旧約聖書の律法を担ったレビ族の祭司たちと区別をして、レビ族の血統を超えた永遠の大祭司としてイエス様のことを語っているのです。
そのお方は、人間の住む地上の聖所―ヘブライ人への著者は、今日の御言葉の中で、地上の聖所を「天にあるものの写しであり影であるもの」(5節)と語っています―ではなく、天のまことの聖所、大いなる方、主なる神のお建てになられた真の幕屋で、主なる神の玉座の右の座に着き、大祭司として、神と人とに仕えておられると、ヘブライ人への手紙は語るのです。

 しかしレビ族の担った、「天にあるものの写しであり、影である」動物犠牲による祭儀は、神との契約に基づくものでありましたが、律法を与えられたイスラエルの民は、その写しであり影であるものでは、救いに至ることが出来ませんでした。
所謂「道徳律法」に於いては絶えず神に背き続け、律法を守りきることは出来なかった。また、旧約の歴史に於いては、絶えず聖所は汚されています。異教の祭儀とごちゃ混ぜになり、律法に基づく祭儀は遠いものとなって行った。それでは、全く神の救いは顕されることは出来ないのです。
何しろ、大祭司が年に一度、大贖罪日という時に、そのやり方をひとつ間違えたならば、その場で神に打たれて死ぬというほど、祭儀というものは厳密なものです。至聖所には、大祭司が定められた年に一度の日にしか入れないという律法がありましたので、大祭司が祭儀の方法を間違えて、至聖所で死んでしまっても、誰も大祭司の遺体を引き出すことは出来ない、入ったその人も死んでしまうからです。ですから至聖所に年に一度入る大祭司の腰には紐が付けられており、祭儀を間違えて、神に打たれてその場で死んでしまった時、紐で遺体を引きずり出せるようにしていた、それほどのものだったのですから、異教の祭儀とごちゃまぜになることなど、主なる神がお赦しになる訳はないのです。
ヘブライ人、イスラエル民族はそのように絶えず、律法に背き続け、レビ人である祭司たちによる動物犠牲の祭儀は、神との契約関係に入った人間の罪を増幅させることにしかならなかったのです。

しかし、それでも神は人間を愛して、救おうとされます。神は古い契約を破棄され、新しい契約を神と民との間に結ばれることをなさったのです。遂に永遠の大祭司、神の御子イエス・キリストを世に送られました。祭司というのは、神への献げ物を持って、神の御前に出て祭儀を行う者ですが、このお方、イエス・キリストは、自らを犠牲の献げものとして、いけにえとして神に献げられ、自ら十字架の上で血を流し、苦しみのうちに死なれました。
神の御子、神が人となられたお方が、それまで地上の祭司たちによって、動物が切り裂かれ、血を流し、死んでいたのに代わって、十字架の上で血を流し死なれたのです。それはすべての人の罪の贖いとしての苦しみの死でありました。
律法というのは、掟の板に刻まれた定めでした。ヘブライ人は、その刻まれたひとつひとつの戒めを守ることによって、救いに至ることを求めましたが、戒めを守り行うという「行い」に於いては、神の戒めに背くばかりで、守れない罪だけが増し加わりました。
しかし、神は、永遠の大祭司イエス・キリストを通して、戒めによらず、ただそのお方を信じること、そして、そのお方が十字架の上で、すべての人の罪の贖いとなって死なれたこと―それは私のための十字架であった―ということを信じる信仰、それをそれぞれの心に焼き付ける、心に書き記すことによって、人々、私たちはまことに救われるという、「新しい契約」を、神と人間との間に取り交わされました。お読みしたヘブライ人への手紙8章8~12節は、旧約聖書エレミヤ書からの引用ですが、ここでは、律法の板ではなく、各々の心に戒めを書き付けるという新しい契約が預言されています。
新しい契約は、イエス・キリストの十字架の贖いによって成し遂げられました。イエス・キリストの贖いによって、すべての人は、行いによらず、ただ信仰によってのみ救われる、その心に、イエス・キリストへの信仰を刻み付けることで、罪を赦され救われるという、神の計り知れない愛の業が表された出来事でありました。

私たちは今、イエス・キリストが犠牲として献げられたことを憶えるこの聖餐卓と、架けられた十字架を前に、週の初め毎に絶えず礼拝を献げる民です。私たちは、ただ信仰によって救われた恵みを数え、救われた感謝と、神への賛美をもって、絶えず神の御前に、恵みの座に大胆に近づくことが赦されています。旧約の時代は大祭司が年に一度だけ入ることが出来た至聖所に、イエス・キリストを信じる者たちは、いつでも入ることが赦されています。ひとりひとりが、心にイエス・キリストへの信仰を刻みつけた祭司として、神に大胆に近づくことが出来るのです。
永遠の大祭司であられるイエス・キリストは、自らを犠牲の献げものとして神に献げられ、私たちの贖いとなってくださいました。もう動物の犠牲はありません。イエス・キリストがすべてを成し遂げられ、またご自身が祭司として、今も、天の主なる神の右の座におられて、私たちすべてを執り成してくださっておられます。
そしてさらに天の父と大祭司なる御子イエス・キリストのもとから、絶えずご自身の霊であられる聖霊を送られ、私たちを絶えず励まし、力づけて下さっているのです。

H兄のことを先週の週報で入院されたことを書きましたが、明日退院されるご予定です。H兄が聖書を読む会に来られ、絶えず私たちに「伝えたい」と言われるのが、コリントの信徒への手紙二3:6です。これが聖書の真髄だと語ってくださいます。お読みします。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格をくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」
律法の文字ではなく、心に刻み付ける新しい契約。イエス・キリストの贖いによって、救われた者たちは、神の霊、聖霊をこの身に受けることが出来ます。
聖霊は、私たちの内側から、私たちを強め、新しく造り上げてくださる、神の力です。外なる人、この弱い土の器である肉体は衰えていっても、霊によって内側から燃えたたされる「内なる人」は、日々強められていきます。また、聖霊は、私自身を強めてくださるばかりでなく、私たちそれぞれの関係も取り持ってくださり、また神との関係も執り成してくださる、神、イエス・キリストの霊です。
イエス・キリストの十字架の贖いによって、神の霊を私たちが受けられるという、人間の理解を遥かに超えた神の御業が顕されました。これは、大祭司イエス・キリストが成し遂げてくださり、また今も私たちに天の主なる神の右の座に於いて、私たちのために執り成し続けてくださっている御業です。
イエス・キリストは私たちのために贖いの恵みを与えてくださいました。
さらにイエス・キリストをひたすら信じる信仰によって、私たちは新しい命、霊をいただけます。自分の思いではなく、霊の導きによって、滅びることのない永遠の命を既にいただいた者として、どのような時もイエス・キリストを愛し、信仰に生きる日々を送らせていただきたい。そのことを強く願います。