「初穂となられた」(2018年11月25日礼拝説教)

サムエル記5:1~5
コリントの信徒への手紙一15:20~28

 一年の収穫の実りの秋。アメリカでは先週の木曜日がサンクスギビングデー・感謝祭で、この日は多くの家庭ではイギリスピューリタンたちがかつてアメリカ大陸に渡って、困難の中、初めての収穫の実りを祝ったことを憶えて特別な食事を用意して楽しむそうです。
 週報にも記しましたが、今日で教会の一年の暦は終わります。終末主日、教会の一年の終わりを、神の国の完成の到来と重ね合わせつつ、イエス・キリストが再び世に来られる終わりの時を見据え、終末を見据える信仰者としての態度を見つめ直す時です。また、日本基督教団では、アメリカの感謝祭にちなんでこの日を収穫感謝日としています。子どもの教会では、神様の恵みとしての野菜や果物の収穫、地の実りを喜び祝い、皆でフルーツポンチを作っていただきました。
 そして、終末主日の今日、与えられました御言葉は、終わりの日の「復活」についての御言葉です。

 神の言葉である聖書が語ることは不思議に満ちています。
「終わりの時」「復活」ということ、いずれもこの世の私たちの日常生活の中にある出来事ではありません。「絵空事?」と日常を生きる人間から見ると思えることを、聖書は堂々と臆面も無く、かなりのページを裂いて語り続けます。いえ、さまざまに語られるすべての御言葉がそこに向かっている。「終わりの時」「復活」―救いの完成を語るために聖書はすべてのことを、人間のさまざまな問題なども含めてそこに向かっていると言っても過言ではないのです。
聖書の中心は何よりイエス・キリストの十字架と復活ですが、旧約聖書のすべてがまずそのすべての中心に向かって凝縮されて行き、キリストの十字架と復活を通って、「終わりの時」「復活」、救いの完成へと向かって行きます。
「復活」とは、死んだ人が生き返ることではありません。死んだ人が死ぬ前の体、命を取り戻して、再び、元の人間として立ち上がるというものでもありません。再生ではなく滅びることの無い新しい霊のからだとして、キリストに似たものとされる(一ヨハネ3:2)と聖書は「復活のからだ」のことを語っています。
しかし世を生きる中で、「終わりの時」「復活」の出来事が起こるということは捉えにくいものです。私たちは今生きるこの世に、この地に立つ人間の目線で、この世をより良く生きるためにだけ、この世の生活のために神を、また神の言葉を捉えてしまいがちです。
 そしてこの世に生かされている者として、私たちは神に対してさまざまな疑問を持つこともあります。神がこの世をすべて造られたならば、何故この世にはこんな悲惨や悲しみが多いのか。何故聖書は人間の罪を語るのか。神が全能であるならば、罪が無いように人間を造れば良かったのではないか、私たちはいろいろ疑問に思います。しかし、そのような疑問に答えることに聖書はあまり関心を持っていないように思えます。それは人間の側からの、もしかしたら神を少し侮っている考えなのではないでしょうか。神がまずおられ、造られた人間がある。神は人間をその自由な意志によって創造されました。そのことをもう一度、私たちは信仰を持って受けとめ直さなければならないかもしれません。
そして、疑問を持って観念的に神を捉えようとするよりも、神の側に身をもっと投げ出し、あなたたたちは、今置かれている現実と向き合うことの方が大事だと言われているように思えてしまいます。

 この世は、創世記3章で語られているはじめの人アダムの罪=原罪により、人間はエデンの東の地に、神と離されて生きる者とされた、そこははじめの人によってもたらされた罪に満ちた地であるという、人間の置かれている「現実」を聖書は神の視点で見つめています。それは、ひとりの人アダムの罪によって「死」がもたらされたという世の現実の姿であり、「死」がもたらされた世に苦労しながら生きる人間を救うために、神ご自身が戦っておられることを、私たちは聖書から知ることが出来ます。神が戦って、また人間もその神の戦いに、それぞれの置かれているこの世の現実に向かい合いつつ応えつつ生きることが求められているのです。
 しかしながら、聖書の見据える「現実」というのは、世を生きる人間の現実と共に、人間を遥かに超えた、創造主なる神の側の現実です。その神の側の現実の中に「終わりの時」「復活」ということがリアルに語られます。聖書はあくまで、神の側の現実、神の側からの目線に立って、世を、そして私たちの生きる現実を見据えています。
世の権力を握る者たちが人々を虐げ、自然災害があり、病気があり、悲しみがあり、死がある、罪によって神から引き離された私たちの生きる世の現実。それらの現実から私たち人間を如何にして救い出すか。聖書は、人間の世の苦しみの多い現実をつぶさに見つめつつ、人間の現実を超えた神の側の創造の摂理の現実に於いて、救いを語るのです。この人間の現実を超える、神の側の摂理を、私たちは信仰に於いて受け取り、聖書の語る命とは何かを見つめ、終末、復活とは、私たちに確かに備えられているまことの救いである、ということをまっすぐに見据えて、受け取るものでありたいと願っています。

 本日はコリントの信徒への手紙一15章をお読みいたしました。
 これはパウロの手紙であり、イエス様の十字架の出来事からおよそ20年後、紀元54年頃に書かれたものだと言われています。この時代は、まだペトロをはじめとする、復活のイエス・キリストに出会った使徒たちの多くが生きていた時代です。イエス・キリストの出来事は、まだ書物としては纏められてはいませんでしたので、使徒たちの証言、使徒たちの言葉として、語り伝えられている言葉がありました。その言葉をパウロは、15章の3節から語っています。お読みします。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。継いで、500人以上もの兄弟たちに同時に現れました。」(15:3~)
 ここで「聖書」と語られているのは、旧約聖書のことです。旧約聖書の預言書、イザヤ書、ホセア書の御言葉を念頭に置きつつ語り伝えられていると言われています。イエス・キリストの出来事は旧約聖書に於いて預言されているということを語りつつ、これほど多くの人が、十字架の死に立会い、また復活されたキリストに直接出会った証人である、その人たちは今も生きていると語るのです。しかし、直接イエス・キリストの復活に出会った人の話を聞いて、教会のメンバーになりながらも、尚も、死者の中からの復活ということなどないと言う人々が居たのです。人間というものは、自分の目に見えること、手に取れること以外、どこまでも信じることが出来ない存在ということなのでしょう。
そのような人たちに対し、パウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教も無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)とまで語り、そして、今日の御言葉のはじめ、19節「そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と、罪の世に於いて、人間がこの世の生活、その現実に於いてだけ、キリストに望みを掛けることは、惨めなことだと語りつつ、パウロは復活について語るのです。

 人間の死というものは、罪によってもたらされたもの―パウロはこのことを23節「死が一人の人によって来た」という言葉を用いて語ります。「一人の人」とは、先ほども触れました、創世記3章アダムの罪のことです。神によって初めて造られた人であるアダムは、神に背く罪を犯しました。そのことによってすべての人間は神共にあるところから、エデンの東の地、神から離されたところに生きる者とされてしまいました。聖なる神は、神への背き=罪と共に在ることは出来ないからです。
 人間が創造のはじめに生きることを赦された神が共にあるところ、そこは永遠の命そのものでした。神は永遠であられるからです。しかし、初めの人アダムが神に背き、神と共にあるところから追放されてしまった―これは人間が、神と共にある永遠の命を失った出来事、人間が死すべきものとされた出来事でした。アダムの罪を「原罪」と呼び、すべての人間はアダムの罪を帯びて、死に定められた者となってしまいました。すべての人は、私たちも含め、アダムの子孫ですので、罪を持って生まれるものとなったのです。そのように一人の人アダムの罪によって、すべての人に死がもたらされてしまったのです。

 しかし、神の憐れみは限りない。神は何としても人間をご自分のもとに奪還しようとされます。そのために、まず律法を与えられました。しかし、律法を人間は行うことは出来なかった。罪ある人間に律法が与えられて人間の間で起こったことは、律法の掟を守れないゆえに、「罪が増し加わる」ということになってしまったのです。
 しかし神は諦めることなく戦われました。そして、遂に神は、ひとり子イエス・キリストを、高き天より低き地の貧しい馬小屋で生まれさせられたのです。そのお方は世の労苦を味わわれ、30歳の頃、神の国を宣べ伝えはじめられ、神の国を宣べ伝え、多くの人々の心をご自身の方に向けさせたがために、ユダヤ人指導者たちから嫉妬され、十字架への道を歩まされ、十字架に架けられ死なれました。人間の悪意を、罪を一身に浴びて、最期は十字架の上でこの上ない激しい苦しみの死を経験されたのです。それはすべての人の罪の身代わり、贖いとしての死でありました。神の御子がすべての人の罪をその身に帯びられ、死なれ、陰府という死者の国へと降られたのです。

 神が人となられた。このことは、「何故、神が居るのならこの世はこんなに悲惨なことが起こるのか」ということに対する、神の側の唯一の答えなのではないでしょうか。人間の悲惨のすべてを、造り主なる主なる神が、人間の悲惨のすべてをご自身に引き受けられたのです。神ご自身が人間の罪と苦しみのすべてを担われた。神は、罪ある人間の生きる世の現実を限りなく憐れまれ、ご自身が世の人のところまで降りて来られ、人間の苦しみの極限を担われました。しかし、イエス・キリストは、ただの人ではなく、まことの人であり、またまことの神であられるお方ですので、その死は、人間の死にとどまるものではありませんでした。
「永遠」であられるおひとりの神のひとり子が、人間の死の世界、陰府に落ちて行かれたのです。そこでなさったことは、陰府に囚われていた霊たちに宣教をされたとペトロの手紙は語っています。これはイエス・キリストを知らずに死んでしまったすべての人をも救いに入れたいという、神の側の激しいまでの愛でありましょう。陰府に於いて、宣教をされたのです。そして、人間の死を打ち破り、復活をされました。死の世界、暗い陰府が打ち破られ、イエス・キリストは復活されたのです。復活の初穂となられたのです。

「初穂」というもの、収穫の実りのはじめのものを、神に献げるということについては、律法の掟のひとつでありました。単に初物を献げるというのではなく、初穂には、「犠牲の献げもの」の意味がありました。収穫の実りのはじめの最も大切なものを、神に献げることは、犠牲=痛みを伴うものでありましょう。一番良いものは、まず自分のものにしたいと人間は願いますから。しかし、それを神に献げる、最上のものを神に献げる、何よりも神を愛するという信仰のしるしです。そして後のすべての収穫は、初穂に連なるものとなります。
 神の御子が、犠牲の献げものとして神に献げられた。一粒の麦が地に落ちて死んだのです。そのことによって、初めての「復活」の出来事が起こりました。イエス様は、まことの神でありまことの人であられるお方。死は死では終わらなかったのです。ローマの信徒への手紙11:16に次のような御言葉があります。「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」。
 ひとりの人、アダムの罪によって、人間には死が入り込んで来た。イエス・キリスト、救い主なるこのお方の死は死では終わらず、死を、死の闇を打ち破り復活された。イエス・キリストが復活の初穂となられたのです。聖なる初穂です。初穂に連なる、その後の者たちも、復活に与ることが出来るようになったのです。キリストによってすべての人が死を超えて生かされることになる、復活し、キリストに似たものと変えられ、永遠の命、神と共にある命への道が拓かれたのです。これらのすべては、神の側の「現実」に属することです。人間の命は、見えるもの、私たちの認識する限りではない。神の側の「現実」の中に、生かされているのです。

 23節より、パウロは終わりの時の復活のことを語ります。今の時は、復活をされているのは、イエス・キリストのみです。しかし、すべてイエス・キリストを信じる者たちは、イエス・キリストが再び世に来られる日、復活に、永遠の命に与る。ここでパウロはその時の順序があると語ります。
 既に初穂としてのキリストの復活は起こっている。そして、次にキリストを信じ、イエス・キリストに属している人たちが復活し、その後、「終わり」が来ると言うのです。テサロニケの信徒への手紙一では、もう少し詳しく、「主ご自身が天から下ってこられ、最初にキリストに結ばれて死んだ人たちが復活し、それから生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲につつまれて引き上げられます」と語られています。しかしその様子については、実どのようなことが起こるのか、分かりません。しかし、聖書に書いてあるとおり、キリストの再臨があり、初穂としてのキリストに連なる者たちの復活がある。このことをしっかりと信じる者でありたいと思います。
 さらにキリストが再び来られる時、そしてキリストに属する者たちが復活をさせられた後、世のすべての罪を、罪に属する世の権威や勢力を、サタンの力をキリストは滅ぼし、すべてをご自身の足の下に置かれるまで、世を、国をキリストが支配される。そして、遂に、最後の敵として死が滅ぼされる、それが終りの時の出来事です。アダムによってもたらされた死が滅ぼされ、完全な神の支配が、すべての人の上に表されるのです。

 聖書が語ることは不思議です。人間の世の現実からは見えないことが多すぎて、戸惑ってしまいそうになりますけれど、このことに、死を超えた永遠の命の希望に、確かに生きる者とさせていただきたいと願います。
 終わりの時は、まだ来ていません。
 復活をされているのは今はおひとり。イエス・キリスト、そのお方のみ。
 復活の初穂なるイエス・キリストに倣い、キリストを信じて復活に与るもの、世の現実を生きながら―キリストにあって生きる世は、神共にある生き様です―それでありながら、絶えず世の支配を超えた神の支配に、私たちは絶えず心を向けつつ、世にあっては、世の戦いを御言葉に基づき戦い抜き、またどんな時にも希望の灯を絶やさずに、世を生き抜くものでありたいと願います。
 イエス・キリストは復活の初穂となられ、私たちのすべてが、キリストに似たもの、復活の命に与る者とされることを、待っておられます。