「一粒の麦が落ちてしななければ」(2018年12月30日礼拝説教)

イザヤ書53:1~6
ヨハネによる福音書12:20~26

「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、 死なば多くの実を結ぶべし」
 これは、三浦綾子さんの小説『塩狩峠』の冒頭に記されている、今日の御言葉ヨハネによる福音書12章24節の、文語訳の言葉です。この御言葉が、実際にあった出来事を元にした『塩狩峠』という文学作品全体を貫く御言葉、テーマとなっています。この小説をお読みになったことがある方も多いのではないかと思います。
 この小説の主人公、永野信夫という青年は、両親の持っていたキリスト教信仰を持ちたいと考えていましたが、なかなか信仰の確信に至りませんでした。とくに、「正しい者はいない。一人もいない」というロマ書3:10のパウロの言葉、自分が罪人であるということがなかなか理解出来なかったのです。
ある日、人々にあざけられながらも路傍に立ち、イエス・キリストの救いを語っていた伝道者の言葉に耳を傾けて対話をする中、「自分がいかに罪人であるかを知るには、イエス様の戒めの一つでもとことんまで実行してみなさい、そうすれば自分がいかにイエス様の弟子としてふさわしくないか、人間がいかに罪深い者かが分かる」と言われます。
そこで永野青年は、ルカによる福音書10章の「よきサマリア人のたとえ」の御言葉を実践することを決心し、同じ職場で問題を起こしたことで解雇されようとしていた人物の隣人、友としてあり続けようとします。永野青年のとりなしでその人は職を奪われずに済むことになったのですが、この人は、その後、卑屈になり、やがて永野青年を偽善者とののしり、陰口をきいて回るようになります。しかし永野青年は、「汝の敵を愛せよ」というイエス様の教えを心に抱き、幾度もその人を赦そうとしました。

しかし、やがて全く変わらないこの同僚に対し、永野青年は心の中で怒りを覚えるようになる自分を知ります。そして自分が実は、彼を見下していること、隣人になろうとしながらも、本当に愛してなどいない、実は御言葉を全く実行できないという自分の罪に気づき、「よきサマリア人にはなれない罪人である自分」そして「良きサマリア人とはイエス様だった」、「自分は傷を負った旅人に過ぎなかった」ことを信仰告白し、遂に洗礼を受けます。
そのような中で、小説はクライマックスを迎えるのですが、永野青年がクリスチャンである女性との婚約のために旭川から札幌に、列車で向かう途中、塩狩峠の頂上付近に差し掛かった時、乗っていた最後尾の客車の連結器が外れて単独で上り勾配を逆行する列車分離事故が発生します。永野青年はデッキ上のハンドブレーキを操作して暴走する客車の停止を試みましたが、無理で、最期、自分の身を投げ出し、自分が列車の下敷きになることで列車の暴走を止め、ひとり死にます。しかし、永野青年が身を挺したことにより、乗客のすべては無事でした。そのまま列車が暴走をしたなら、永野青年を含め、すべての人が亡くなることになる状況であったと言います。一緒に列車に乗っていた、永野青年が隣人になろうと務めた同僚は、その瞬間、永野青年が祈っている姿を見たと語られています。永野青年が、「一粒の麦」となり、落ちて死んだことにより、列車に乗っていた人たちが生きることになった、三浦綾子さんはそのようにこの御言葉とこの青年を合わせながら小説を書いたのでしょう。また三浦綾子さんは、自分の罪になかなか気付ない人間、御言葉のひとつをも、完全に行うことの出来ない人間の罪をあぶりだすように描き、罪を知ったからこそ御言葉に、イエス・キリストを信じ、縋り生きようとするひとりの人に、またイエス・キリストによって救われて、新しくされた青年に託された生きざまに、キリストの十字架の栄光を重ね合わせながら描かれた小説であるも言えましょう。
私自身は30数年前にこの小説を初めて読み、「御言葉のひとつも完全に行うことの出来ない自分」ということに、深く共鳴し、自分の罪を見つめたことを憶えています。またこの御言葉はこの小説のみならず、多くのキリスト者に感化を与えました。
そしてそのように多くの人の記憶に残っていると思える御言葉ですが、その御言葉は、ヨハネによる福音書12章、今日の御言葉に、イエス様の口から語られているのです。

 遂に、「時」が近づいていました。イエス様の時。主が十字架に架かり栄光を受ける時です。イエス様は、過越の祭のためにエルサレムに入城されました。エルサレムに入城するということ、この時、ユダヤ人たちは、イエス様を殺す計画を立てておりましたので、イエス様にとっては死を覚悟の上での入城でした。人々はラザロを蘇らせたイエス様に、この世の王となることを望みつつ、ホサナ、ホサナと喜びつつイエス様をエルサレムに迎え入れました。イエス様は、子ろばに乗って、エルサレムに入城されたのです。それは、柔和で謙遜な僕の姿、旧約聖書に預言されていた救い主の姿でした。これから数日後に、イエス様は、十字架に架けられ、死なれます。その姿は、今日お読みしたイザヤ書53章で預言されている苦難の僕の姿、そのものであられました。

 そしてエルサレムにイエス様が入城された直後の、今日の御言葉は、少し不思議に思えることが語られています。ユダヤ人の過越祭の礼拝のためにエルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシア人がおり、その人々が、イエス様の弟子のフィリポに、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と願い出るのです。この人々は、恐らくは異邦人でありながらのユダヤ教への改宗者であったと思われますが、異邦人たちは、イエス様をメシア、救い主と期待して、何としてもお目に掛かりたいと願って、フィリポのところにやってきたのでした。
 フィリポは同じ弟子のアンデレに話し、ふたりはイエス様のもとに、異邦人たちがイエス様に会いたいと願い出ていることを告げます。するとイエス様は、まず言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た」と。

 異邦人が救われる―これは既に旧約聖書に於いて約束されていたことでした。例えばイザヤ書56章はそのことが語られています。3節「主のもとに集ってきた異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と」。ユダヤ人を超えた救いの時、それはイエス・キリストを通してもたらされる出来事であり、民族の壁を超えて、現代の日本の私たちも、福音を聴くことが出来るようになっています。
 ヨハネによる福音書は、遂にその時が来た、イエス様の十字架の救いはユダヤ人だけでなく、すべての人に対する救いなのだ、救いがまさに顕れようとしていることを、ここで告げているのです。しかし、ここでイエス様とこの異邦人たちが直に会ったとも会わなかったとも語られていません。福音書著者は、この出来事を、この時イエス様への面会を願ったギリシア人たちに止まるものではなく、すべての人へのイエス様の言葉として受けとめることに心を向けて書いたのだと思われます。
そしてイエス様は言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と。

 肥沃なガリラヤ地方で育たれたイエス様は、種まきの譬えですとか、毒麦の譬え、からし種の譬えなど、種を用いた譬え話を多くなさいます。
 イエス様の見て育まれた体験の中には、麦が耕された土の中に落ちて行き、見えなくなり、失われたかのように見える。何も無くなったかに思えたところから、新芽が吹き出で、落ちた麦と同じものがたわわに実る、それらはパンとなり、多くの人を生かす食べ物となる。死んだかに見えた種がもととなって、多くの実を結ぶ。一粒の麦が落ちなければ実を結ばなかった麦畑。牧歌的で、私たちには当たり前に思えることながら、神の創造の摂理の不思議さを思わせる、命の不思議、神秘的な事柄であると思います。
 そして何より、ここで語られている一粒の麦とは、イエス様です。これから成し遂げられようとしているイエス様の十字架の死です。

 私たち、今ここに集っておりますが、誰一人、一粒の麦であるイエス様の死に関わらない方はおられません。イエス様が十字架で死なれたから、私たちは、一粒の麦であるイエス様の十字架のもとに集っているのです。一粒の麦であられるイエス様が、十字架の上で死なれたから、すべての人、私たちひとりひとりの罪の身代わりとして死なれたことによって、私たちは主の死に与り、主によって罪赦され者とされたから、私たちは、こうして、主の犠牲を表す聖餐卓と、十字架の前に週に一度御前に立つのです。私たちは、イエスさまの死があり、罪に死に、イエス様の復活と共に、新しく生かされている。罪を赦されて、生かされているのです。
 私たちは主の落とされた命によって、新しく、主の十字架の死を基点として新しくされた民です。
洗礼は水の洗いを受けますが、このことは、私たちが水の中を通って罪に死に、キリストの復活に与り新しく生きる者とされたことを表しています。赦され、新しくされた者であるならば、あるべき新しい生き方があります。それは、「自分の命を愛する」のではなく、「この世で自分の命を憎む」というあり方であると、厳しい言葉でイエス様は語られます。

25節で語られる「命」というのは、プシュケー。魂、命とも言われるギリシア語です。この「命」という言葉は、さらに「命を憎む」ということは、世の命を捨てて人を助ける、という永野青年の成した命を捨てる厳しさだけを意味する言葉ではありません。
聖書に於いて「命」とは、世に生きる人間の存在全体を表す言葉であり、神に属する霊的なものというよりも、寧ろ生まれながらの人間に属するもの。人間とは神の息が鼻に吹きいれられ生きる者となった存在ですが、神に造られたけれど、今は罪によって神から引き離されて生まれることになった、その肉体、心を併せ持つ人間の魂、存在のすべて。地に属する、生まれ以っての人間の弱さや儚さのすべてを含んだ、生まれながらの特性を表します。
そのような人間の生まれながらの「命」を「愛する」=それに拘り続けるのではなく、それを「憎む」=イエス・キリストの十字架によって救われ、イエス様のご復活に与り、新しい命をいただいたものとして、生まれながらの自分の性質、自分中心のさまざまな欲望よりも、神から与えらえる新しい命に忠実であるならば、命を保って、永遠の命に至るとイエス様は言われるのです。

 私自身のこと、で恐縮ですが、私自身が神から牧師という職務へ献身を促された経緯は長く神のご計画の中にあったのだと思っているのですが、決定的に、私自身を明け渡す祈りをしたことを憶えています。
 私は若い頃から「自分」というものに、人一倍拘っていた人間のように思っています。今から思えば意味不明の自尊心も高かったと思いますし、夢も持っていた。それらは決して悪いことではないですが、教会に行くようになり、信仰を持って洗礼を受け、多くの奉仕をしながらも、神を愛する以外のこと、おそらくここでイエス様の言われている「自分の命」というものに拘りを持ち、信仰を持ちながらもさまざまな罪を犯してしまう自分がおりました。どこかに生まれたままの自分自身を愛し続け、拘り、また世のさまざまなことを愛し、イエス様を時々自分の脇へ追いやって、自分の心のまま、罪の思いのままに委ねる、そのようなこともありました。いえ、教会生活を続けながらも、敢えて、自分を信仰に縛り付けるように生きることを拒否していたと思います。自分の存在の奥底からの信仰が現れるまで、罪が残っているなら、偽善的に振舞うのではなく、罪は罪、そのまま置いておこう、罪を出し尽くして、いつか本当に綺麗になれる時が来るに違いない・・・そんな風に思っていました。本当に頑固だったと思います。
私自身、その時期、神を知っており、イエス・キリストの霊であられる聖霊を受ける強い体験もしていました。しかし、それでも自分の生まれ持っての性質に、命に拘る自分自身が強かった。さまざまな世の誘惑はありましたし、はびこる罪は、本当に根深いものでした。

しかし、ある時、神よりも自分自身を、また自分に拘り、目に見えること、手に取れることを頼りに生きることに限界を感じるようになりました。若い時代、信仰を持つ直前、私は鬱の状態になったことがありましたが、その時も、それに近い症状となりました。そしてそれまでの自分自身に飽き飽きし、もう道のすべては閉ざされたように思えました。これ以上、自分の命に、自分自身に拘る生き方を続けることは出来ない、もう自分の命のために生きることは出来ないとつくづく自分自身に限界を感じてしまったのです。
 そして、主に、自分を、明け渡す祈りをしました。七転八倒のような祈りでした。「もう、私はこれ以上、自分のために生きることは出来ません。道はありません。助けてください。あなたに私自身を委ねます」と。
 そのことが先にあったと思います。その後、私は所属教会の牧師から献身の促しを受け、牧師になる道を歩み始めることになりました。自分の持って生まれた性質、「命」に限界を感じ、あの時、搾り出すように神に祈ったこと、その祈りを神は聞かれて、このような者を、ご自身の働きのために新しい者として、召し出してくださったのだと思っています。
 私自身は、献身を志し、歩み始めることによって、死ではなく、新しい命の道が見えてきました。新しく備えられた道が教会の牧師ですから、救われた者の道としては非常に明快で分かりやすい道とも言えます。この道は、自分が閉ざそうと思っても、閉ざされない、外からの力があっても閉ざされない道となって、今に至っています。

それにしても『塩狩峠』の永野青年は、どうだったのでしょうか。ひとつの御言葉に徹底的に忠実であろうと願った青年には、主は「一粒の麦」としての、非常に厳しい道、しかし、それは十字架に架かり、一粒の麦としてすべての人への救いを拓かれたイエス・キリストの、まことの友としての働きへと導かれたと言いましょうか。世の死、肉体の死ではあり、婚約者はじめ近親者を悲しみに突き落とす出来事でありましたが、「隣人になろう」と尽くした同僚は、悔い改めに導かれます。永野信夫青年は、永遠に続く神の支配の中に於いては、最も厳しくも、祝福に満ちた道を備えられた、そのように言えないでしょうか。
私自身は、「犠牲」ということは、イエス・キリストの十字架で完結をしていると考える者ですが、主の十字架の苦しみのひとかけらを人間に委ねられる場合がある、そのことも思わされます。

 ここに集われた私たちの命はひとりひとり、主の十字架と関わっております。罪を赦された者として新しく始まる命、永遠の命、神と共にある命の道があります。
 イエス様はこの時、やってきたギリシア人に対し、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と言われました。
 この言葉はこのギリシア人たちのみならず、すべての異邦人、すべての人々、私たちにも語られている言葉です。
 一粒の麦として地に落ちられ、私たちの命の実を結んでくださった主イエスに、私たちそれぞれこれからどのようのお仕えして生きて行くのか、罪赦された者として、どのように新しくされて生きて行くのか、この2018年の終わり、改めて自分自身に問い掛けたいと願います。そして、罪赦され、主の恵みのうちに生かされている者として、大胆に主に近づく者でありたいと願います。
 主は言われます。「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」と。