「十字架への道ー民衆の声」(2019年3月31日礼拝説教)

イザヤ書53:8~10
ルカによる福音書23:13~25

 イエス様は、祭司長、律法学者、ファリサイ派の人々の手によって捕らえられ、大祭司カヤパの官邸に連れて行かれ、ユダヤ教の最高法院で宗教裁判を受け、その後、ローマ帝国の総督ピラトのもとに連れて行かれ、さらに、イエス様が育たれた家のあったガリラヤ地方の領主であった、ヘロデ・アンティパスのもとに送られ、嘲られ、侮辱され、見世物にされるような派手な着物を着せられて、そのまま総督ピラト官邸に送り返されました。たらいまわしにされた挙句に戻って来たピラト官邸には、狂乱し、イエス様を「死刑に」「十字架につけろ」と叫び続ける人々がいました。

このイエス様の十字架への歩み、「十字架につけろ」という群衆の叫びを読む時、私事ですが、その昔、「ジーザスクライストスーパースター」というロックオペラを演じたことをいつも思い出してしまいます。この作品は、1960年代のヒッピー文化の影響を色濃く受けている作品で、イエス・キリストのエルサレム入城からの最後の数日間を中心に描きながらも、「人間イエス」がテーマであり、信仰に基づいた作品ではなく、信仰に懐疑的な作品です。聖書では語られていない、「それは違うでしょう」と言いたくなるようなイエス様の台詞もあったりします。
それでもこの作品に出演するに当たり、全員遠藤周作さんの『死海のほとり』『イエスの生涯』は必読本とされて、聖書もルカによる福音書を読むことを勧められ、読んだ記憶があります。
この作品の演出家のコンセプトの重要な部分を「群衆」が担っていました。今日の御言葉で語られている「民衆」「人々」と呼ばれる人たちのことです。その中で私は「群衆」のひとりでした。しかし作品の途中から別の役に変わっていたので全編に亘って「群衆」としてその作品の中に居たということは無く、「十字架につけろ」と叫ぶ場面に出ていなかったので、演じる上で、「群衆」のひとりとしての心理、心理の変化に対して私自身、未消化のまま部分があるのですが、イエス様の奇跡に驚き喜び、エルサレムにホサナホサナと叫びながらイエス様を迎え入れておきながら、僅か数日で、歓喜が憎しみに変わるということ、これが作品の中の大きな主題になっていました。
この転換点をこの作品では、聖書が語ることとは全く違う理由付けをしており、イエス様が癒しを求めて押し迫る群衆のあまりの多さに追い詰められて「自分で治せ」と叫んでしまう― 再度申しますが、聖書はこんなことひとことも語っていません ―そのことによって、人々はイエス様に失望して、イエス様に対する憎しみを持つようになり、十字架に付けろと叫ぶようになったという脚本になっています。この作品の脚本を書いたのは、当時まだ20歳そこそこだったティム・ライスという人で、まだ若く信仰に対して懐疑的だったこの詩人には、そのような聖書にない理解を加えなければ、作品を成り立たせることは出来ないと思ったのかもしません。
それにしても、その作品の台本に「自分で治せ」という言葉があったにせよ、熱狂していた人々の態度と言葉が、あっという間に180度変わるということが、私は理解出来ないままでした。人間の心が瞬時に豹変して暴徒と化すということが分からなかったのです。

山本書店を経営していた評論家、聖書に関する著作の多い著述家の山本七平さんが、その作品のオブサーバーで、一度稽古場に来られてお話をうかがった記憶があるのですが― この方は、信仰のある方ですので、イエス様が病人に対して「自分で治せ」と言ったとされているこの作品の意図には目をくれず、この短期間で人々の心がイエス様への歓喜から憎しみに変わることを、「群衆心理」と話されました。
辞書によれば、群集心理とは、「群集の中に生まれる特殊な心理状態であり、衝動的で興奮性が高まり、判断力や理性的思考が低下して付和雷同しやすい。」とありました。
人は自分には信念もモラルもあり、いかなる状況においても惑わされないと思っていたり、またそのように思いたがっているとも言えますが、その実、ほとんどの人が、他人の行動に引きずられてしまう傾向にあるというのです。特に、「個」というものが確立されていない社会や、精神的に未成熟な場合に、この傾向が強いと言われています。
人は、一人では臆病なのに、集団になるといったいどうしてこんなに、意味不明で、暴力的で狂気と思われる行動に走ることがあるのか、不思議に思えることに遭遇することがあります。「赤信号、皆で渡れば怖くない」なんていう言葉が笑いながら言われたりしますが、多くの犯罪にもその傾向があると思え、また今の日本社会も、そのような傾向が強くなってきていることを懸念しています。
私自身のことを思い出しますと、頑固なまでの自分を持っていましたが、それと裏腹に、自分の考えや思いに自信を持てない子ども時代、また若い時代を過ごしたことを思い起こします。人が同調してくれる、人と同じだと安心して、「そうだそうだ。私もそう思う」、そんなことを何度も言っていたように思うのです。「群集心理」に巻き込まれやすい自分自身であったことを覚えています。

今日の御言葉を読み、山本七平さんの言葉を改めて思い出し、イエス様に付き従っていた人たちの心の豹変、集団になった時の人の心の残忍さというのは、まさしく「群集心理」と言われることそのものだったのではないか、聖書は「悪魔が入った」という言葉でこのことを語りますが、人の個としての尊厳を失わせ、判断能力を失わせ、付和雷同の狂気へと突き進む、そのような状態はまさしく「悪魔が入った」状態なのではないでしょうか。聖書は、「個」としての自らの尊厳を見失い、群衆と化した人間の心理を、イエス・キリストの十字架の現場に於いて重大な人間の「罪の性質」と見做しているのではないでしょうか。
その決定的な変化のきっかけは、イエス様がユダヤ人権力者たちによって捕えられた、そのことそのものだったのではないか、と思います。特にヨハネによる福音書を読んでいますと、イエス様の言動に人々は喜びながらも、時に不信を持ち、人々が離れて行ったということが記されてありました。またイエス様の兄弟たちも、イエス様の不思議な業を認めながらも、あざけるような目で見つめていたことも記されています。
そのような信と不信のはざまにありながら、イエス様をこの世の王として持ち上げようとしていた民衆、人々は、あっけなく逮捕されてしまったイエス様に「なんだ、そんなに簡単に逮捕されたのか」のような気持ちがあり、誰かが大きな声を上げ、同調する声が続き、皆がそうだ裏切られたと叫ぶようになり、「十字架につけろ」とピラトに向かって暴動を起こすほどの狂気になだれ込んでいったのではないかと思うのです。

ヘロデのところから惨めな笑いものにされたような姿で戻されたイエス様を見て、ピラトはうんざりしたことでしょう。ピラトは出来るだけ、この人に関わりたくはないと思っていました。ユダヤ人の宗教裁判に巻き込まれるのはうんざりだと思っていたに違いありませんし、またマタイによる福音書27章、今日の御言葉と同様の場面で、ピラトの妻がイエス様のことで夢で苦しめられたという伝言が、ピラトのもとに届いていたということが記されています。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」と。
そこでピラトは再度人々の前で言うのです。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には見つからなかった。ヘロデとても同じであった・・・この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と。
しかし、人々は一斉に「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫ぶのです。
この時は過越祭の最中でした。ユダヤ人の祭の度毎に、ローマ総督は民衆の希望する囚人をひとり釈放することになっていた、ということがマタイによる福音書に書かれています。ピラトとしては、妻からの伝言もありましたし、イエス様を釈放したかったのです。

余談になりますが、このピラトという人、私たちが毎週の礼拝で告白している使徒信条の中に、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」とあり、毎週私たちはこの人の名前を口に出していますので、相当の極悪人かと思えるのですが、この人は再三に亘って、このようにイエス様に「罪は見出せない」と言っています。
ポンティオ・ピラトだけがどうして使徒信条の中に名前があるのか、不思議な気がしますが、この人は歴史上、時代背景もはっきり確認出来る人物ですので、イエス様の十字架が、歴史の中にはっきりと起こった出来事なのだということを明確にしたいがために、使徒信条に名前を刻まれたのだと言われています。
それは、初期の教会に於いて、イエス・キリストを信じる信仰とはどういうものか、相当な議論があり、異端とよばれる教会を惑わす教えも多くあり、その中にはイエス様が人間と同じ肉体を持って世に来られたということ自体を否定するようなことを言う人たちもおりました。そのために、イエスという神の子が、人として世に生き、そして実際肉に於いて死なれたということを、歴史の中に確かに起こったということを明確にするために、このポンティオ・ピラトという名前が刻まれているということなのです。

ピラトはその後もイエス様を釈放しようと、人々に向かって語りかけますが、しかし人々は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けます。人々の口から「十字架」と言う言葉が出て来るのです。
十字架とは、当時のローマ帝国の政治犯に対する最も残酷な極刑でした。しかし、ピラトには、イエス様に「政治犯」と見做す犯罪を見つけることは出来ませんでしたし、妻の夢もあり、イエス様を釈放したかった。そして、そうは言っても人々の意にもそうために「鞭で懲らしめる」ことを提案しますが、しかし人々は、イエス様を十字架に付けるようにあくまでも大声で要求し続け、その声はますます大きくなったと言うのです。人々は、「群衆」と化していたのです。勿論、イエス様を十字架につけることまでしなくてもよいと思っていた人は居るはずです。しかし、そのような人たちは、声を上げることは出来なかった。声を上げることで自分も糾弾される対象となる可能性があるからです。
民衆の声に押し切られるように、ピラトは彼らの要求を受け入れる決定を下し、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求通り釈放し、イエス様をユダヤ人たちに引き渡して、好きなようにさせたのです。

このピラトの姿にも、「群集心理」の一端が見て取れるのではないでしょうか。ピラトは、自分の意志や見解に於いては、イエス様に罪を見出すことは出来ませんでした。しかし、人々の声に押されて、自分も群衆のひとりのように巻き込まれ、自分の意志や見解を捨て去り、公正な採決を行わず、イエス様を十字架に架けたのです。

先週の日曜日の早朝、私の前任地の目白教会で生涯を牧師として仕えておられた、篠原信先生が天に召されました。本当に謙遜で、主任、担任牧師を絶えず立ててくださり、また多くのことを言葉にしない静かな方でした。
昨日、一昨日と葬儀があり、私は一昨日金曜日の前夜式に出席してきました。
そこで聞いた言葉は、篠原先生は、敗戦の1年前に15歳で召集令状を受けて軍隊に入隊をし、そこでキリスト者であることに糾弾を受け、戦時中、ある時からキリスト者であることを表明することを止めた、キリストを主であると言わず、天皇を神として崇める当時の日本社会の流れに迎合してしまった時期があったということでした。篠原先生は、そのことを生涯ご自身の罪、十字架として担っておられました。先生は、人のことは励まし続ける方でしたが、ご自身のことを語る時は、あからさまなまでに、ご自身の弱さや罪のことだけ、罪人であるご自身のことだけを語られる人でした。その姿は、多くの人の模範となり、目白教会は、篠原先生の謙遜さと、御言葉にのみ生きるその姿によって、一致したよい信仰を保ち続けてきたということを改めて思わされました。
弱冠15歳で、軍隊でキリスト者であることを糾弾され、ある時から信仰の表明を止められたということ。戦争の中、国が人の心を蹂躙して統合へと進めている中の出来事です。天皇に逆らう思想の人を見つけたら特高に目を付けられ捕えられるような社会でした。そして人々は「個」の尊厳を見失い、口を閉ざし、自立性を見失い、「群衆」のひとりとなり果て、「群衆」としての心理に巻き込まれるしか生きる道の無かった15歳の少年の重荷を思います。
篠原先生は、詩編をこよなく愛しておられ、前夜式で読まれた御言葉は詩編51編でした。この詩編は、バドシェバと姦淫の罪を犯したダビデが、預言者ナタンの叱責を受けて献げた祈りの詩と言われる詩編で、ダビデが自分の罪を悔い改め、主なる神の憐れみをひたすら乞い願い、また悔い改める者への神の愛が語られる詩編です。篠原先生は、ご自分の葬儀にはこれを読んで欲しいと願っておられたそうです。先生は、ご自身の罪を、どれだけ深く知り、またキリストに自分の罪を拭っていただくことを祈り求めたご生涯であったことかを思います。篠原先生のご自分への罪意識と罪への悔い改めが、あのような謙遜な人の姿であったのだということを思いました。
そして、罪の悔い改めによって、赦され、祝福された生涯を送られたことも憶えます。主なる神は、私たちが仮令どのような罪を犯したとしても、悔い改め、キリストにあって赦しを乞うならば、そのまま赦してくださり、また新しく歩むべき祝福の道を示してくださいます。
イエス様は十字架上で祈られるのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。私たちは弱く、周囲に翻弄され、判断を誤ることのある者です。しかし、私たちにはどのような時にも、主イエスの赦しの御手が開かれています。このことを覚えたいと思います。

そして、私たちは「個」を見失い、「群衆」と化した時、判断力も、愛することを重んじる心も、不正を糾弾する力も知恵も、失われてしまうということも覚えたいと思います。
私たちは、社会や人の感情の流れの中で翻弄される弱さを持っている者たちです。そのような弱さ、すぐに群衆のひとりになってしまいそうな私たちはイエス様を十字架に架けた罪人のひとりかも知れません。
神は人を造られた時、「神の似姿」として造られたことが創世記1章に記されています。
似姿とは何か。人格のある者、神に愛されている者です。私たちがまず何を考え、何を為すに於いても、人を見るのではなく、まず神を見上げるのです。私たちは神に愛されており、神は私たちの祈りをいつも聞いていてくださいます。私たちの訴えを聞き逃されることはありません。まず神に祈り、御言葉を開き、御言葉に聴くのです。
神は私たちが、「群衆」のひとりになることを望んではおられません。神に愛された者として、人の思いの猛り狂うような中にあっても静まり、自立したひとりの尊厳のある人として、信仰によってすべてのことを冷静に判断をし、行動する者でありたいと願います。
更にもしそれが出来ない罪を犯すことになったとしても、私たちには悔い改め、赦される道も拓かれていることも覚えたいと思います。
イエス様は、あなたを愛しておられます。イエス様の望みは、私たちが立ち返って、神の似姿として新しく生きること、なのです。