「主イエスの愛」(2019年5月5日礼拝説教)

イザヤ書51:1~6
ルカによる福音書24:36~53

「証人」というのは、法廷、裁判に於いて、重要な役割を果たします。実際に起こったことをその目で見て、見たことをそのままを語り、ある事件の真相を明らかにする重大な役割です。
 イエス・キリストを信じる信仰は、およそ2000年前に始まりました。いえ、それ以前に布石はあったのです。それはイスラエルの民の歴史です。旧約聖書に於いて表されています。そして、イエス・キリストを信じる信仰は、旧約聖書の土台の上に、イエス・キリストの十字架と復活、そのことを目の当たりにして、「イエスは復活された」と証言をした人々が居たことから始まりました。その人々を「使徒」と言います。
教会はイエス・キリストの復活の証人である使徒たちのキリストの復活証言によって始まりました。使徒と呼ばれる弟子たちは、イエス様の十字架の時、皆イエス様を裏切って逃げた人々です。その人たちが、イエス・キリストの復活を目の当たりにして、その後、命を掛けて、イエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝えるようになったのでした。
そして教会が生まれ、やがて使徒の復活証言を聞いた人の中から、その言葉を信じてさらに語り伝える人々が起こされて、起こされ続け、教会は世界中に増え広がっていきました。十字架と復活の言葉は、時代を超えて人々を変え続けていく力となったのです。
 イエス様の十字架と復活無しにはキリスト教はありません。また、私たち信仰者にとって、「イエスは復活され、今も生きておられる」という「復活信仰」なくして、キリスト教信仰ではありません。何故なら、キリスト教会というのは使徒たちの命を掛けた復活証言から始まる、「使徒の働きの継承」の上に立てられているからです。イエス様がどれほどに優しく尊敬出来る、倣うべきお方であったか、がキリスト教ではありません。

 しかし、そうは言っても私たちは「イエス・キリストは復活された」ということを、そのまま信じて、私たちは世を生きるための、まことの命の糧に出来ておりますでしょうか?イエス・キリストの復活ということは、イエス様が乙女マリアからお生まれになられたということ以上に、あまりに人間の現実からかけ離れた、荒唐無稽と思われる出来事に思われて、キリスト教信仰を持つことの躓きとなっていることを思います。そして私たち自身も、殊「復活信仰」ということについて、分からず屋で頑固な面を持っているのではないでしょうか。また、十字架と復活を見据えないまま、自分の罪を認めないまま、イエス様の人間的な優しさを見つめることを信仰として、そこに留まり続けてはいないでしょうか。

 復活の証人となった使徒たちですが、イエス様の復活のそのはじめの日、ガリラヤからずっと従ってきた女性たちが、イエス様が葬られた墓が空になっていて、そこに天使が現れ「イエス様は復活した」と語ったことを伝えられても、信じることは出来ませんでした。そしてふたりの弟子は、エマオへの道で復活の主に声を掛けられ、共に歩き、一緒に食卓に着いても尚その方がイエス様だということに気づかず、その人がパンを裂いて渡してくれた時、目が開け、イエス様だということが分かったのです。そしてエルサレムの弟子たちのところに戻ったところ、ケファ=ペトロに復活の主が顕れた、ということが弟子たちの間で話されていました。
 弟子たちはそれでも、半信半疑な中、イエス様を裏切った罪悪感と共に、信じられない思いで、素直に主の復活ということを喜べなかったのではないでしょうか。ヨハネによる福音書では、この時弟子たちは、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を掛けていた」と語られています。自分たちがイエス様を裏切ったこと、捕まって殺されるかもしれない恐れもありましたでしょう。そして、イエス様との関係に於いても、もし、本当にイエス様が復活されたのならば、裏切った自分たちを怒り、裁かれるのではないか、とも思ったのではないでしょうか。

 するとその時、イエス様が、突然彼らの真ん中に現れたのです。ドアから入ってきたのではありません。彼らがおそらくは輪のようになって語り合っているその真ん中に、復活の主が突然その姿を顕されたのです。そして言われました。
「あなたがたに平和があるように」と。不安とイエス様を裏切ってしまった罪悪感、恐れの只中で蹲る弟子たちの真ん中に、イエス様は立たれて、平和を宣言されました。
この「平和」ということ。このイエス様の言葉は、弟子たちのこの世の現実に於ける平和や、心の安心という意味もありましょうが、イエス様が十字架に於いて成し遂げてくださったこと。それは罪を赦された人間と神との間の平和であるということの宣言でもありました。
イエス・キリストは、罪あるすべての人間の罪をその身に背負い、十字架に架かり死なれました。罪とは、この世の悪事を含みますが、悪事そのものが罪ではありません。聖書が語る罪ということの意味は、人間が神に背を向けること、神など知らない、神など居ないと、神を忘れて自分勝手に振る舞うことです。
イエス様の十字架は、神に背いて生きていた人間が、その罪を悔い改めた時、イエス様の十字架の死もろともにその罪を滅ぼしてくださり、罪の無い者として神の御前に立ち、神との平和を得ることが出来る、神との正しい関係に入れていただける。イエス様は十字架と復活を通しての人間の救いを、復活の第一声、「平和」ということで宣言されたのです。

 しかし、この出来事は別の恐れとおののきを弟子たちに起こさせました。人間としての当然の感情でありましょう。私たちも、今、目の前にイエス様がその姿を顕されたとしたら、どれだけ驚くことでしょう。彼らは声を上げて恐がったのではないでしょうか。亡霊が現れたと。
 イエス様は言われました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と。
 イエス様の手、そして足。それは釘で打たれた傷跡のある手と足でした。だから、「まさしくわたしだ」、十字架に架かり死んだイエスだと言われたのです。そして、「触ってよく見なさい」と言われました。イエス様の手、そして足が、まさしくそこにあって、弟子たちは触ったのでしょう。
 弟子たちは喜びました。主が、十字架の上で死なれた主イエス。大勢の人の前で、苦しみ、血を流し、息絶えられた主が、「あなたがたに平和があるように」と語られて、目の前に生きた姿で顕れたのですから。そして、釘で打たれた手と足とを見せてくださり、触らせてくださったのですから。
 でも、まだ信じられず、夢見心地のように不思議がる弟子たちでした。人間はなかなか信じられない。イエス様ご自身がそのお姿を顕し、語りかけてくださり、触らせてくださっても、尚、信じないのです。

 そこで、イエス様は言われました。「ここに何か食べ物があるか」と。
 焼いた魚がそこにはありました。弟子のひとりが、焼いた魚をイエス様に手渡すと、イエス様はそれを取って、彼らの前でそれをむしゃむしゃと食べ始められました。
 思い浮べてご覧になってください。それは皆で食する食卓ではありませんでした。イエス様は、差し出された魚を手に取り、ひとりむしゃむしゃと弟子たちの見ている前で、魚を食べたのです。お腹が空いていたので、ひとりで魚を食べたのではありません。私は生きている。肉があり、骨がある体がある。あなたたちと同じ物を食べることが出来る体を持っているのだ。私は復活したのだ。そのことを教えるために、弟子たちに見せるために、イエス様は、魚を取って弟子たちの見ている真ん中で、ひとり魚を頬張られたのです。

 椎名麟三という戦後の代表的作家とも言われるキリスト教作家がいます。彼は、戦前は共産党員で、当時、共産党は非合法とされていたため、逮捕され、獄中生活を体験しました。しかし彼は獄中で共産主義思想を捨てました。それは「独房生活で起こった愛に対する疑問」であった、と言います。自分は共産党の同志を愛していると思っていた。同志のために死ねると思っていた。でも獄で拷問を受け、その後独房で果たして本当に同士のために同志に代わって死ねるかと自分自身に問うた時、自分は死ねないと思った。このことをきっかけにして共産党からの「転向上申書」を書いて釈放されることになったというのです。このことは彼にとって大きな挫折でありました。
 この時の椎名麟三の心情というのは、どこかペトロをはじめとする弟子たちに似ていないでしょうか。ペトロは「あなたと一緒なら牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とイエス様の前で息巻いていたけれど、その日のうちに、イエス様を「知らない」と3度も否定して逃げてしまいました。そして、大泣きに泣いて、自分自身を責めていました。椎名麟三は、同志への愛、命を捨てるほどの愛を自分は持っていると思っていたけれど、土壇場の本心は、そんなことが出来ない自分が居た。そのように挫折した椎名麟三とペトロは、何かかぶるような気がいたします。

 そして椎名麟三は、自分自身の行き詰まりの中でドストエフスキーの小説をたよりに聖書を手にしたのです。しかし、聖書に書かれていることは、ばかばかしくくだらない物語に思えて、聖書に何度もつまずきます。しかし人生の絶望の中で、聖書を捨てきることができず、「ドストエフスキーを信頼して」洗礼を受け、クリスチャンになりました。しかし、聖書はばかばかしいことが書かれてあるという思いを捨てることは出来ませんでした。
 洗礼を受けて1年近く経ったその日も、ばかばかしいと思いながら、でも聖書を捨てられないような思いで、仕方なく聖書を読んでいたそうです。そしてやけくそのように聖書でいちばん馬鹿らしい復活の個所を読むことにしたと言うのです。マタイ、マルコと復活の場面を読み進み、そして、ルカの今日の御言葉を読んだのです。
 その時のことを、彼は著作集の中の「『復活』とわたし」というエッセイの中で、「突然のショックとともに、必然性の壁が音を立てて崩れ落ちてゆくのを見たのである。つまりほんとうの自由を見たのだ」と語っています。イエス様が「魚を弟子たちの前で食べられた」、この言葉を読んだ一瞬に、ショックが襲い、それまでの世の中が違った光で見え、生き方を変えてしまったのだと、彼は語っているのです。
それまで疲れはて、何度も自死を試みたけれど死ねなかった。そしてキリストに生きようとするけれど、突き落とされる。くだらない話だと思いつまずいてしまう。そのような繰り返しの中でも、他に頼るものもなく、その時、キリストに縋る気力すら失いながら、ただ聖書の「一番くだらない」と思われた復活の記事を読んで、突如、光が見えたと言うのです。
 少し読みます。「弟子のだれも、そのイエスを信じることはできない。むろん私もだ。だが、イエスは自分を信じない者のためにどんな奇跡をあらわされたか。とんでもない、くだらなくも焼魚一きれをムシャムシャ食って見せられているだけである。そのイエスの愛が私の胸をついた」。(『信ずるということ』p310)
聖書はイエス様が弟子たちの「目を開いた」と語りますが、それはまさに椎名麟三が体験したような、「必然性の壁が音を立てて崩れゆくことを見」て、瞬間に世の中が違った光で見え、生き方を変えてしまう、そのようなことが起こったのではないでしょうか。
 キリスト教信仰に於いて、イエス様の愛が、光が、人のぐずぐずした思いを一瞬にして突き抜けて、人は変えられることが「ある」のです。そしてイエス・キリストの愛を、復活を、理性を超えて知る時がある。理性を超えて知る、それは人間の現実を超えた神の真理がまさに「ある」ということです。人間の思いを遥かに超えた神秘の領域というのでしょうか。イエス・キリストの復活信仰にはそのような出来事が起こりえるのです。イエス様は、人の心の闇を、光に変えてくださるお方であるのです。
私たちもそれぞれ、さまざまな人生の中の困難に遭遇し、信仰に対し疑いを持ったりすることもありましょう。しかし、それでも、この聖書により縋るならば、キリストは私たちの闇を光と変えてくださいます。

 分からず屋の弟子たちに、自分を裏切り去っていった弟子たちに、イエス様は姿を顕され、「平和があるように」と祝福の言葉を告げられ、自分が生きていることを、魚を食べることを見せることによって証しされました。どんな奇跡だって行うことは出来た筈でしょう。しかし、イエス様が分からず屋の弟子たちになさったことは、魚をむしゃむしゃと食べて、生きていることを見せることでした。
 何と人間的な、現実的な主の復活の姿なのでしょう。そして、この時、弟子たちにとって、イエス様の復活は、「現実」のこととして、弟子たちがはっきり「見た」こととなったのです。弟子たちは、復活の証人となったのです。

 イエス様は言われました。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、すべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改め、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
 これらの言葉が旧約聖書の中の何処を指すのか、具体的にははっきり分からないのですけれど、ここではイエス様ご自身が、聖書のすべてはご自身のことを証ししているのだということを、イエス様の復活の後の教会に対して語られている言葉と理解すべきでしょう。
 そして、イエス様の十字架と復活の証人である使徒たちから、イエス様の復活の場所エルサレムから、罪の赦しの悔い改めの、イエス・キリストの名による宣教がこれから始まっていく。イエス様は、宣教の言葉を、復活の証人となった使徒たちにお委ねになったのです。
 そしてイエス様は「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と、「高いところからの力」すなわち聖霊降臨=ペンテコステがもうすぐ来るということを告げられ、その時が来るまで都エルサレムにとどまっていなさいと命令をされ、そして、天に昇っていかれたのです。
ルカによる福音書は復活の主がその後、すぐに天に昇られたように書かれてありますが、ルカによる福音書の続編と言われる使徒言行録によれば、イエス様はこの後40日に亘って、弟子たちに教えられ、その後、そのままの姿で天に昇られたことが語られています。主の昇天については、改めて使徒言行録を読みたいと考えています。

 イエス・キリスト、神の御子、神が人となられたお方は、十字架に架かり死なれましたが、復活されました。そして使徒たちにその姿を顕され、ご自身が体を持ち生きておられることを使徒たちに体を触らせ、また自ら魚を食べて見せることによって証しされました。そして、使徒たちに「罪の赦しを得させる悔い改め」の宣教をお委ねになり、天に昇って行かれました。そして、今も天におられます。聖霊を送り、生きて働いておられます。
 そして地上に於いて、イエス・キリストの御業、教えのすべては今、イエスの霊であられる聖霊を通して、地上の教会に委ねられています。
 教会はイエス・キリストの十字架と復活を証しする地上に於ける神の家です。
 私たちの教会が、イエス・キリストから宣教を委ねられた群として、イエス様に愛され集められた者たちの群として、これからもますます御言葉に励み、イエス・キリストの十字架と復活を証しする群として成長させていただけますことを祈りつつ、ルカによる福音書を一旦閉じたいと思います。