「オリーブ山からエルサレムへ」(2019年5月26日礼拝説教)

箴言16:32~33
使徒言行録1:12~16

 神が人となられたお方イエス様はおよそ33年間、地上で人として生きられ、神の国について宣べ伝えられ、十字架で死なれ、しかし復活されて、弟子たちにさらに多くの教えをなさり、弟子たちを祝福し、弟子たちの見ている中、天に上げられ、雲に隠れて見えなくなりました。
 天に昇られる時、傍に天使たちがおり、「イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と弟子たちに語りました。イエス・キリストは、再びこの世に降りて来られる。天に昇ったのと同じ姿で。不思議なことです。しかし、それが起こる、その時が来ることは聖書の確かな約束です。
しかしその「時」は、イエス様の昇天から2000年近く経った現在も起こっておりません。今日お読みしました使徒言行録1:12からは、キリストが天に昇られた後の地上の弟子たちの働き、様子が記されていきますが、「イエス・キリストが世に来られ、死なれ、復活され、天に昇られた後の時」、という意味で、当時の弟子たちの状況と、現在の私たちの状況というのは、変わっていなません。使徒言行録で語られる、弟子たちの「時」も、私たちの今生きている「時」も、「キリストが天に昇られた後の時代であり、またキリストが再び来られる日を待ち望んでいる時」ということでは同様なのです。
キリストが天に昇られた後の時代、信仰によって生きる時にどのようなことが顕されていくのか、またどのように信仰者として世を生きることを求められているのか、使徒言行録は私たちにとっても道しるべとなりましょう。

オリーブ山に於いてキリストの昇天を目の当たりにした弟子たちは、夢見心地であったに違いありません。しかし、天使たちの「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」というちょっとお叱りとも思える言葉を聞いて、天を見上げ続けるのをやめ、オリーブ山からエルサレムに戻りました。山の上の恍惚感から、人間の生きる現実へと降りて来たのです。これからイエス様がお傍に居ない、弟子たちの生きる現実、信仰を持って生きる現実の生活が始まります。そして、エルサレムで弟子たちが泊まっていた家に戻ったのです。
この家というのは、使徒言行録12章で、ペトロが牢から聖霊の不思議な導きによって出ることが出来て向かった家、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」なのではないかと思われます。ヨハネによる福音書の18章では、「もう一人の弟子」と呼ばれる人が大祭司の知り合いであったので、ペトロはイエス様が逮捕された時、大祭司の屋敷の中庭に入ることが出来た旨、語られているのですが、この「もう一人の弟子」が「マルコと呼ばれるヨハネ」であり、大祭司の知り合いであるということから、エルサレムで一定の地位のある家庭の人であり、エルサレムで大きな家に住んでいた、そこがイエス様はじめ、弟子たちのエルサレムでの拠点となっていた、そしてこの時も、その家に居た。そのように考えられます。
そこには裏切ったユダのほかの11人の使徒たち、そしてイエス様の母マリアと恐らくはマグダラのマリア他のガリラヤからイエス様に付き従って来ていた女性たち、そしてイエス様の兄弟たち、120人ほどの人たちが一つになって祈っていたのです。

ところで、イエス様の母マリアが登場するのは、聖書の中でここが最後です。使徒言行録とルカによる福音書は、同じルカが書いた一巻と二巻の書物ということを先週お話しいたしましたが、ルカによる福音書では、天使のマリアへのイエス様の受胎告知、その誕生、神殿への奉献、少年時代のイエス様の知恵の深さを語る時など、母マリアについて、他の福音書に比べて多いのですが、これ以降、母マリアについて語られることはありません。
また、「イエスの兄弟たち」も共に居たことが語られています。ヨハネの7章では、「兄弟たちはイエスを信じていなかった」と記されています。
しかし兄イエス様のことを信じていなかった兄弟たちも、十字架と復活、昇天の出来事に出会い、信じる者と変えられていたのです。そして、この中に居たに違いない、主の兄弟ヤコブ―新約聖書ヤコブの手紙を書いた人―は、後に、エルサレム教会の中心人物となって行きます。

 その祈りの輪の中に、イスカリオテのユダは、当然ながらそこには居ませんでした。イエス様が夜を徹した祈りの中で選ばれて、共に3年間を歩んで来た12人のうちのひとりがそこに居ないということ、どうしてこんなことが起こったのか。祈りの中で、今更ながら、使徒たちは戸惑いと恐れに襲われていたのではないでしょうか。裏切ったユダは憎むべき者と思われたでしょうが、そのユダの末路も含めて、祈りの中で、ユダに対する憎しみや、排除するような単純な思いだけでなく、ユダという仲間を失ったことに対する悲しみが、使徒たちを襲っていたのではないでしょうか。

 120人ほどの人たちが集まってひとつに祈っている中、ペトロは立ち上がり語り始めました。ペトロの語るところでは、ユダについて、既に聖書の中で預言をされていたのだと言うのです。 
 ユダはイエス様を売り渡した銀貨で、土地を買ったが、その地面にまっさかさまに落ちてはらわたがみな出てしまった、そのような悲惨な最期を遂げることになりました。このことは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡り、そこは「血の土地」と呼ばれるようになったと言うのです。そのことをして、ペトロは、ダビデ王が詩編69編で「その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ」と、既に預言していたのだ、ユダの出来事は、旧約聖書に於いて預言されていた出来事なのだと語り、さらに詩編109編8節「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい」という御言葉も引用し、ユダの代わりに使徒を立てるべきだと語りました。
そのような、御言葉の引用をペトロはここで初めてしています。弱虫でちょっとおっちょこちょいだった、ちょっと情けない人のように福音書では語られ続けていたペトロは、イエス様の復活と昇天を経て別人のようになっています。

「その務めは、ほかの人が引き受ける」というためには、「主イエスがペトロたちと共に生活をされていた間、つまり、バプテスマのヨハネの洗礼のときから始まって、キリストが天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中のだれかひとり」であることが条件であるとペトロは語ります。使徒とは、イエス・キリストの宣教のご生涯のすべてを共にし、十字架と復活、昇天までのすべてを見届けた、「主の復活の証人」主の復活を証しする人として、ペトロはこの時認識をしているのです。
イエス様が昇天された後、宣べ伝えていかなければならないこととして、ペトロたちに託されたことは、何よりも「主の復活」。イエス・キリストは、十字架で死なれたけれど、復活をされた、それは事実である。誰が聞いても俄かには信じられない出来事ですが、それを見た証人、証言の言葉が何よりも、この後の宣教のためには大切でした。イエス・キリストの十字架と復活こそが、使徒たちに託された、福音宣教の中心であったからです。そして、初代の使徒の証言の言葉は、今の私たちの教会にもそのまま語り伝えられている福音の、信仰の中心です。

その人間の目には「ありえない」と思える、死と復活、そして神が人となられ、世に生まれ、生きておられたのだということ。その事を告げ知らせる使徒の「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい」、ペトロは詩編109編の言葉をそのように理解して告げています。
ユダが失われたならば、ほかの人がそれを受け継がなければならない、ペトロは祈りのうちに、また御言葉を瞑想することによって、そのことを確信したのでありましょう。これは、神からペトロに与えられたまことの「知恵」でありました。

 そこで、その「復活の証人」とされるべき条件に適う二人の人、バルサバ、またユストと呼ばれるヨセフと、マティアを立てて、祈り、くじを引き、マティアが使徒として選ばれることになりました。
「くじを引く」という、乱暴な方法に思えますが、旧約の時代、祭司はウリムとトンミムと呼ばれる神の御心を聴く「くじ」のようなものを胸元に持っていましたし、神の御心を尋ね求める方法として、旧約聖書のある時代から、そのような方法を取ることがあったようです。勿論それはいつもではなく、限定された用い方であったのでしょう。
加えて言えば、現在の私たちの信仰に於いては、「くじを引く」ということは言われません。何故ならこの後、使徒たちには聖霊が与えられます。くじによって御心を問う時は、この時までであり、この後、使徒言行録に於いて、聖霊がすべてを導かれるのです。聖霊が行く道を閉じたり、開いたりされるということが描かれていきます。
 しかしながら、この時「こちらの人が相応しい、優れている」ということは、人間による判断出来ませんし、この時、ペトロたちは、使徒というのは、人間の選びによるのではなく、神の選びであるということを良く知っていたのでしょう。それを、この時は、古来からの「くじ」という方法で、祈り、神に尋ね求めたのだと思われます。
 そのようにして、12人目の使徒が、神によって選ばれ、初代の教会は始まって行ったのです。

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 主が昇天されたオリーブ山から、再びエルサレムへ戻って来た弟子たちの新しい信仰共同体は、「心を合わせて熱心にひとつになって祈る」ことから始まりました。
 最後に改めて「祈ること」また、「ひとつになって祈る」ということを考えてみたいのですが、「心を合わせて」という言葉は、原語からの直訳は、「情熱を込めて、同じ感情、同じ気持ちで」と言ってよいと思います。また「熱心に祈っていた」と訳されていることばは、「祈りに固執していた、執着していた、しがみついていた」、そのような言葉です。イエス様が昇天された後、120人の弟子たちは、情熱を込めて、同じ感情、同じ気持ちで、祈ることに固執していた、とにかく祈ることに集中していたのです。
イエス様の言葉に「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人また三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19~20)というお言葉があります。ひとりで祈ることも大切ですが、二人また三人が、イエス様の名のもとに集まる時、そのただなかにイエス様ご自身がおられる、イエス様はこのことをはっきりと言われました。ですから、私たち、「聖書を読む会」は、祈祷会も兼ねておりますので、集い、3,4人のグループに分かれてそれぞれが祈ります。その時には、その真ん中に主イエスが居てくださるのです。そのことを信じて、私たちは集い祈っています。

また「祈り」と言うと、私たちはまず自分の願いを神様に叶えて欲しい、ということが祈りだと思ってしまいますが、もし祈りによってすべてが自分の思ったとおりになったなら、結局私たちは自分の思い描く程度の自分にしかなれないのではないでしょうか。神は私たちに対し、私たちが思い描くこととは別の、神ご自身のご計画を持っておられる。このことを覚えたいと思うのです。イザヤ書55:8に次のような御言葉があります。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道とは異なると主は言われる」。
そして願い求める祈りを神に献げるということは、神に自らを訴えつつ、神との人格的な交わりに深く入って行き、神の御心を行う人に変えられてゆくことに繋がっていきます。
イエス様ご自身が、「祈る」お方であられ、十字架の前にはゲッセマネで汗を血のように滴らせるほどに祈られました。しかし、ゲッセマネのイエス様の祈りは、「この杯を取り除けてください」という苦しみ喘ぐまでの、願い求めを神に対してされましたが、それでありながらも「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と最後に祈られました。
マタイ6章によれば、イエス様の言葉に、「(神は)求めない先から、あなたがたに必要なものをご存知」と語られ、それと同時に「求めなさい、そうすれば与えられる」(ルカ11:9)とも語られます。神は私たちに必要なものをご存知であられます。神は私たちが願い求めることを待っておられ、また私たちは願い求めますが、神から見て、不要と思えるものは願い祈ってもお与えにはなりません。しかし、祈ったことを通して、私たちには神の私たちに対するご計画が、御心が顕されるのです。祈っても望んだとおりに与えられないならば、それは、神から見て、私たちには必要が無い、神は私たちにもっと別のよきものを与えようとしておられるのでしょう。そのことを信じて、どんな時にも落胆せずに私たちは祈り続けるべきです。
そのように祈りは必ず神の耳に聞き届けられ、私たちの祈りを通して、神は御心を現してくださる、このことを覚えたいと思います。
 
 そしてこの時は、120人はひとつになって祈っていました。思い思いの祈りではなく、「父から約束されたものを待ちなさい」(1:4)というイエス様の命令のもと、与えられるもの=聖霊を希望を持って待ち望みつつ、ひたすら祈っていました。
 そこでペトロは立ち上がって、旧約聖書からユダの死に関することを紐解き、またユダに代わる使徒を選ばなければならないことを120人に向けて語りました。その姿は、既にイエス様が十字架に架かられる前とは別の人のような姿でした。
 熱心にひたすら祈り続けるということ、また、それが二人また三人、それ以上の祈りが一つになるところで、祈りは人を変えるのです。祈りによって、ペトロは神からの新しい知恵と力を得て、聖書を読み解く知恵を与えられ、それを大胆に語る力も得るようになっていました。
 この時、まだ聖霊は降っておりませんので、くじを引いて神の御心を尋ね求めたり、少しちぐはぐなところもありますが、とにかく、ペトロは大胆に変えられつつありました。
 そして、他の弟子たちも恐らく同様であったことでしょう。ひとつになり、祈ることに固執をするほどに、祈り続ける。そのことによって、ひとりひとり、心が整えられ、「約束されたもの」を受ける備えが出来たに違いありません。

 そのことは、私たちに於いても同様です。
 とにかく熱心に祈る。またふたり三人、それ以上でひとつになって祈る時、キリストは私たちと共におられ、祈りを聞き届けて下さり、祈り続ける私たちと神は人格的な交わりの中にすっぽりと入れてくださり、神の知恵が与えられるようになり、私たちの祈りは、自分の思いを成し遂げたいと願う、願望よりも、神の御心を求める者に変えられてゆくことでしょう。

 初代の教会は、現実にさまざまな問題を抱えつつ、これから歩んでいきます。しかし、その中心には御心を尋ね求める祈りが絶えずありました。人間的なさまざまな問題、それを熱心な祈りによって、神からの知恵を受け、力を受け、福音宣教に命を掛けて歩んでいったのです。オリーブ山からエルサレムへ降りた弟子たちの生きる現実というのは人間的なさまざまな感情もうごめく生々しい現実が繰り広げられていく現実ですが、その中に絶えず熱心な祈りがあります。祈りによって人間の現実に、神が鮮やかに介入されるようになります。そして祈りと、この後与えられる聖霊によって、弟子たちは力強くイエス・キリストの十字架と復活の福音を証し、その証は2000年を経た現在もこの東の地にまで、まことの命の言葉として宣べ伝えられているのです。

 私たちひとりひとりの歩みの中心にも、熱心な神との人格的な交わりにまで至る祈りを据えつつ歩みたいと願います。その時、自分の知恵を超えた神の知恵と力に、新しい力に満たされることを知ることでしょう。
 さらに、ふたり三人、それぞれのご家庭が、また私たちのこの教会が、初代の使徒たちのような熱心な祈りによって、神と共に歩み、神の御心を知り、それを成し遂げ歩むことが叶いますように。そのようになれることを求めたいと願います。