「永遠に共におられる弁護者ー聖霊」(2019年6月2日礼拝説教)

エゼキエル書34:11~14
ヨハネによる福音書14:15~31

 先週の木曜日は、主の昇天日でした。イエス・キリストは、弟子たちの見ている前で、そのままの姿で天に昇って行かれ、雲に隠れて見えなくなった、そのことを、ルカによる福音書、使徒言行録を通して、既に読みました。
 昇天日から10日後、次週の礼拝は、ペンテコステ・聖霊降臨日です。今日の礼拝では、少し振り返るように時節を遡り、ヨハネによる福音書、最後の晩餐の席でのイエス様の「告別説教」の続きを読みたいと思います。この御言葉は次週ペンテコステの布石になります。なぜなら今日の御言葉では、聖霊降臨の予告と、聖霊がどのようなお方であるか、ということを、イエス様ご自身が語っておられるからです。

 イスカリオテのユダにサタンが入り、ユダは食卓の席から出て行きました。そのことをして、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」と御自身のことを言われました。11章で、その年の大祭司のカイアファが「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が好都合」と、図らずも「イエス様が国民のために死ぬ」ということをイエス様を十字架に架ける張本人となる大祭司が預言した言葉が語られてありましたが、ユダがイエス様を裏切るために出て行ったことは、イエス様の十字架への道が確定したことを意味しました。イエス様が、十字架に架かられ、すべての国民、いえすべての人の代わりに死なれ、すべての人の贖いとなること、それが父なる神の人間の救いへの御計画であり、イエス様が死なれることによって、すべての人に救いの道が拓かれる。そのようにして神の愛が顕されることこそが、イエス様が受けられる栄光であったからです。

 今日の御言葉のはじめで、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とイエス様が言われた「わたしの掟」とは、「互いに愛し合いなさい」と13章で告げられた「新しい掟」を指します。
「互いに愛し合いなさい」、しかしながらそう言われて、私たちは「分かりました」と、愛し合うことが出来るでしょうか。命令されたからと言って、そうしようと思ってみても、はて?愛し合うとは果たしてどのようなことなのか、取り敢えず、人に「優しく接してみる」、そのようなことを試みてみたりするかも知れません。でも次の瞬間には忘れてしまいます。しかし、イエス様はここで、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」、新しく出た聖書の訳では、「掟を守るはずである」と語られました。
私はずっと前、結婚前のカウンセリングで牧師から「愛することは、愛するという意志を持つことです」と言うことを、こんこんと諭されました。愛するということは、感情のままに行動することではありません。人間の感情などすぐに変わってしまうものですから、愛するということは、「愛する」という意志を持って、隣人のありようを認め受け入れること。「愛は意志である」ということを思う時、忍耐をすることと非常に近しいことを思います。パウロはコリントの信徒への手紙一13章で「愛は忍耐強い」と申しましたが、そのとおりだと思います。
愛するということ、ここで語られる愛はアガペー=無償の愛とも言われる愛は人間にはなかなか持ち得ないものです。アガペーは母の愛とも譬えられますが、一般の人間関係に於いては、決して簡単なことではなく、それを真剣に為そうとするならば、私たちは非常に隣人との関係、そして御言葉とのせめぎ合い、自分の罪の問題に苦しまざるを得ないことでしょう。人間は自分の愛(人間の愛、エロース、フィレオー)の要求ばかりを人に押し付けたりしますから。イエス様の命令は「互いに愛し合いなさい」「掟を守るはずである」という、罪あるままの人間には俄かには成し遂げられそうもない命令に思えてしまいます。

しかしその人間にはなかなか為せないと思えることを為しなさいという命令の前に、大きな前提があります。それは、私たちが隣人を「愛する」という意志を持って愛そうとする前に、私たちがキリストを愛しているならば、神の愛が私たちをすっぽり包んでいてくださるということです。
この愛は、イエス・キリストが命を捨ててまで、私たち人間を救ってくださり、復活され、昇天をされ、栄光を受けられたということに於いて現れました。命を捨てるほどの愛で、私たちは救われているのです。
 しかし、イエス様が私を愛しておられると言っても、でもイエス様はおひとりで、私のことなど、本当は心に留めてなどおられないのではないか、私の祈ることなど聞かれないのではないか、などと思ったりすることはないでしょうか。
私はかつてそうでした。「イエス様は、命を捨てるほどに私を愛してくださっている」、聞いた時には心地良く、嬉しいのですが、しかし、世界中の何十億、またこれまで生きた数知れない人々が居る中で、私など、海岸の砂粒の一つほどのものでも無いように思えてしまい、途端に自信が無くなります。神の目は、私になど届いていないのではないかと。
しかし、イエス様は言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と。
 イエス様は、この後、去って行かれます。十字架に架かり、復活され、その後、天に昇られるのです。しかし、去って行かれるイエス様に代わって、「別の弁護者」を遣わしてくださり、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる、と仰るのです。
「弁護者」気難しい言葉に思えますが、ギリシア語でパラクレートス。この言葉は、「傍らに居て弁護する者」という意味の言葉です。イエス様は、イエス様が去って行かれた後に、イエス様に代わる「傍らに居る者、そして私たちを弁護してくださるお方」を、父なる神が遣わしてくださると言うのです。
この弁護者とは、「真理の霊」であると更に語られます。「真理」とは、聖書に於いて、イエス・キリストを表す言葉です。イエス・キリストの霊、26節では「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と語られます。またこの霊は、先の16章7節で「わたし=イエス様が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」と言われました。
イエス様が去って行かれます。十字架に架かられ、復活され、天に昇られて、「栄光を受ける」。そのことが起こらなければ、父なる神は聖霊を降されないと言うのです。
17節の終わりからもう一度お読みします。「この霊があなたがたと共にあり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」と。
弁護者=聖霊とは、真理であられるイエス・キリストの霊。イエス様が、十字架で死なれ、復活され、天に昇られた後に、イエス様は「戻ってくる」、聖霊は、復活され、天に上られ、栄光を受けられたイエス様の霊であられるのです。その霊が「あなたがたと共にあり」「あなたがたの内にいる」とイエス様は仰るのです。
イエス様はおひとりの人として世に生まれ、生きられ、十字架で死なれました。しかし、復活され、天に昇られ、栄光を受けられた。
イエス様は神。神は人間を遥かに遥かに超えたお方です。人間にははかり知ることが出来ない。神の御業を人間はすべて理解することなど出来ません。私たち人間は、人間にははかり知れない神秘とも言える神の領域があるということに対し、謙遜であるべきでしょう。
そして、栄光を受けられたイエス様は、天の父なる神の右の座=支配の座に着かれ、そこから御自身の霊であられる聖霊を、世に送っておられるのです。そのお方=聖霊なる神は、「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」と言われたイエス様御自身と言ってよいお方です。
神は父子聖霊なる三位一体の神。その一つの位格であれる聖霊は、「わたしたちと共にあり」「わたしたちの内に」住まわれる、そのように傍らに居てくださり、私たちを弁護してくださるお方。弁護してくださる方というのですから、どんな罪を犯した時であっても、私たちの味方です。そして共に絶えず居てくださるのです。
イエス様は、去って行かれましたが、私たちをみなしごにはなさらないのです。ご自身の霊、聖霊を天から雨のように送り、私たちの内に住まわせてくださっているのです。
私なんか神様の目に、海辺の砂浜の一粒の砂のようなもの?いえ、そんなことは無いのです。聖霊は、絶えず父なる神とイエス・キリストのもとから、大雨のように注がれています。その雨の一滴は私たちの内に留まられるのです。
ヨハネ7章では、イエス様は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われ、さらに、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」と語られています。生きた水である聖霊。天からの雨のようにすべてのイエス様を愛する人に、また人と人との間に、すべてのところに注がれる神の霊。その一滴が、私たちの内に留まられるのです。
そして25節で語られているように「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」、聖霊が、私たちと共に、わたしたちの内におられ、イエス様が弟子たちにすべてのことを教えられたように、聖霊御自身が、私たちに見えない形で、神ご自身の方法によって、人間に教えてくださるのです。知恵を与えてくださるのです。
次次週は、使徒言行録のペトロの説教を読みますが、それなどはまさにペトロがうちに住まわれる聖霊によって、知恵の言葉を与えられて立ち上がり語り始めたこと、そのものでありましょう。
聖霊と言うと、なにやら分からない。霊という言葉は、日本語のニュアンスとして良いものという意味合いが無く、誤解され、聖霊、霊という言葉に拒否反応を起こす方もおられますが、聖霊は天の父なる神とイエス・キリストの許から送られる、神御自身であることを、覚えたいと思います。
「イエスさまはいつも私たちと共にいてくださる」、それはイエス様が霊として、聖霊なる神として共に居て下さり、私たちを内側から強め、励まし、教えてくださる。
神は海辺の砂粒よりも小さな私たちのひとりをも、侮られることも、忘れられることもありません。神は人間を遥かに超えた、三位一体という不思議なあり方をされるお方です。そして、今、聖霊は、イエス様を愛する人たちひとりひとりと共におられます。

はじめに「わたしの掟」「互いに愛し合う」という掟についてお話しをいたしました。そのことをもう少しお話しします。
イエス様は、20節で「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と語られました。「わたしもあなたがたの内にいる」ということは、聖霊がわたしたちの内におられるということです。
しかし、さらにこの言葉には、「わたし=イエス様が、父なる神の内におられ、私たちがイエス様の内におり、イエス様=聖霊なる神もあなたがたの内にいる」と、三位一体なる神と、イエス様を愛する者たちとの関係が語られています。
ずっとヨハネによる福音書を読んで来ていますが、イエス様は事あるごとに、「私と父はひとつである」と言うことを語っておられました。
父子聖霊なる三位一体の神。このことは、人間の理解を超えた、神の領域であり信仰の秘儀と言え、私たちが本当に理解することは適わないことを認めるべきことと思いますが、そのことをイエス様は「ひとつである」「うちにある」という言葉を使って話しておられます。
カール・バルトという神学者は、三位一体を「永遠の愛の交わり」と理解し語りました。父子聖霊、三つにいまして一つであられる神は、愛し合うという関係性の中でひとつであられる、そのような意味で語っているのでしょう。愛し合う中に於いて、父子聖霊はひとつであられると。
そして神は人間を創造され、御自身がお造りになられた海岸の砂粒のひとつのような人間を限りなく愛しておられます。しかし、世に生まれたままの人間は、はじめの人、アダムの罪、神に背く罪という性質を持って生まれており、生まれたままでは、神から引き離された存在です。人間は神と引き離された場所に生まれ落ちているのです。
しかし、そのような私たち生まれたままの人間は、「イエス様を愛する」さらに「互いに愛し合う」という「掟を守る」ということに於いて、おひとりの神の三位一体の「永遠の愛の交わり」の中に、入れていただけるのです。神から引き離された者ではなく、神と共に在る者とさせていただけるのです。このことは、聖書の別の言葉で、「神の義」「神との和解」また「永遠の命」という言葉でも語られています。
20節をもう一度お読みします。
「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが。あまたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」

 神は、すべての人が「永遠の愛の交わり」の中に入っていくことを待っておられます。神の愛はすべての人に注がれておりますから。しかし、「永遠の愛の交わり」の中に入れていただくためには「イエス様を愛する」、そのことが必要なのだと、ここでイエス様は語っておられます。さらにイエス様を愛する者は、「互いに愛し合う」という掟を守る、「守るはずである」と。

 イエス様を愛し、信じ、罪を悔い改めて、洗礼を受け、神に罪を赦していただき、神と共にある者とさせていただいても、人間には世に於いて世にある限り「罪」という性質が絡みつきます。神の御前に「神への背き」という罪は葬りさられた。しかし、私たちは聖霊が与えられて、「完全」を目指すものとされても、世にあって絡みつく罪の欠片、さまざまな持って生まれた性質と闘いながら生き抜かなければなりません。
パウロすら次のように語っています。「わたしは自分の望む善を行わず、望まない悪を行っている。もしわたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ロマ7:19)
 それだからこそ、私たちは世にあって、「互いに愛し合う」という掟を守ることを意志を持って求めなければならないのです。
「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」その愛の交わりの中に入れていただき、聖霊をいただいている者として、「互いに愛し合う」「愛する」という意志のもと、すべての隣人との関わりを作っていく私たち自身であり、また私たちの群でありたいと願います。
 愛するという意志は、優しいそぶりを見せたり、ひたすら追い続けるだけではありません。忍耐を持って待つ時もありますし、真剣に関わろうとする時、ひととき苦しむこともある。いえそのようなことの方が必要でありましょう。「互いに愛し合う」ということは、罪ある人間にとって、きっととても難しいことです。

 しかし、私たちは神から愛され、私たちの内には、聖霊なる神がお住まいになられ、完全な愛であられ、永遠の愛の交わりとしておられる三位一体の神と共にある命の中に入れられており、聖霊を与えられている者た、また今受けようとしておられる者たちです。その愛に包まれている者として、同じ一つの霊、聖霊をいただいている者として、「互いに愛し合う」という掟を守る、守ることを求め続けたいと願います。