「教会のはじまり」(2019年6月16日礼拝説教)

ヨナ書3:1~3
使徒言行録2:22~47

 ペンテコステを先週迎え、今日は父子聖霊なる三位一体の神が明らかにされたことを記念する三位一体主日。神は三つにいましておひとりの神。主なる神は、そのことを、イエス様のご生涯から始まる十字架と復活、昇天、さらに聖霊降臨の出来事を通して明らかにされました。
 弟子たちは、「父の約束されたものを待ちなさい」と言われ、祈りつつ待っていました。
 イエス様のお弟子として、生きていたおよそ3年間、弟子たちは選ばれた者として意気込んではいましたが、弱かった。結局はイエス様の十字架の時、イエス様を裏切って逃げてしまうようないざという時の弱さを持つ弟子たちでしたが、復活のキリストは、何事も無かったかのように、弟子たちの前に「あなたがたに平和があるように」と言って復活の姿を顕され、40日に亘ってさらにさまざまな教えを為さり、天に上げられ、その後10日間、弟子たちはエルサレムに留まり、祈り、「約束されたもの」を待ち続けていたのです。そして、遂に弟子たちは「父の約束されたもの」=イエス・キリストの霊、聖霊を受けて、新しい力を得て、立ち上がりました。
 大いなる力をいただく前には、静まり、熱心に祈ること、ひとりで祈ることも大切ですが、集まって共にひとつになって祈ること、それがどれほど大切であるのか、祈りはすべてのことへの備えになる、そのことを今日はまず覚えたいと思います。

 聖霊降臨の出来事のあまりに大きな音に驚いて、弟子たちの居る家に集まってきた、「信心深いユダヤ人」たちを前に、ペトロは立ち上がり、聖霊に満たされて、旧約聖書、ダビデの詩編の解き明かしをとおして、イエス・キリストについて語り始めました。それを聞いていたのは「信心深いユダヤ人」ですから、ユダヤ教の人々であり、私たちの持っている旧約聖書=彼らにとっては聖書そのものに、深く精通している人々です。そして祭司ではないようですので、ファリサイ派ユダヤ人であったろうと思われます。
 ファリサイ派というのは、ユダヤ教の一つの派で、一般庶民の多くがそれであり、律法を守ること―ファリサイ派の人々は口伝律法と呼ばれる、モーセの律法を彼らの時代の生活に適合させようと解釈を加えたものを守ること―に熱心でありつつ、死後の裁き、そして復活信仰を持つ人々でした。そして、やがて来るべき終わりの日に、「人の子」と呼ばれるメシア・救い主が現れるということを信じていのです。その人たちに向かって、ペトロは話し始めました。
 

「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたの証明なさいました」「このイエスは、お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」と、ペトロはイエス様が十字架に架けられて死なれたことは、神の定められた計画であったということからまず語り始めました。
十字架というのは、ユダヤ人の律法によるのではなく、ローマ帝国に於ける政治犯の極刑でした。「律法を知らない者たち」というのは、ローマの手を借りて十字架刑となったということです。
 しかし、父なる神はイエス様を死の苦しみから解放して、復活させられました。そのことについて、イスラエルの偉大な王ダビデはかつて既に預言をしていたのだと、ペトロは詩編の言葉をそれまでのユダヤ教にはない解釈で語り始めるのです。
 それは詩編16篇の御言葉でした。この詩はダビデが歌った詩と言われていますが、この時ペトロはこの詩編は、ダビデ自身を「わたし」と呼んで歌った詩ではなく、預言者であるダビデが、イエス様のことを預言した詩であると聖霊に満たされて語るのです。
 特に27節「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかれずあなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」という言葉に目を留めて、これは、イエス様が死の陰府に捨ておかれるのではなく、「命に至る道をわたしに示してくださる」、すなわちイエス様が復活されることを預言しているのだとペトロは語るのです。
 そのように、この詩編の言葉がダビデ自身ではなく、イエス様のことを語っているのだとペトロが語る根拠は、29節、「先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます」と言っているように、ダビデは死んで、誰もが知るところに墓があるからであることを語ります。
ダビデは墓に葬られている、そのことは明らかでした。エルサレムに行きました時、私も「ダビデの墓」と言われる場所に行きましたから。ダビデは墓に葬られたままである。復活はしていない、ダビデの体は朽ち果ててしまいました。
 また、30節の「彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださった」という根拠は、サムエル記下7章に語られています。かつて主なる神は、ナタンという預言者の口を通して、ダビデから生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、誓われた、それはイエス様のことであったとペトロは語るのです。イエス様は、マタイによる福音書の冒頭の系図にもありますが、ダビデ王の家系の中に地上に生まれたお方であられ、ダビデの系図から生まれる王座に着かれるお方でした。ペトロは、イエス様を預言者ナタンの預言の成就であることを語りました。

 そのように、この時、ペトロたちの居る家に集まってきた信心深いユダヤ人たちにとっての、尊敬すべき偉大なイスラエルの王ダビデは、その人たちの良く知っている詩編の詩に於いて、既に、自分の子孫の中から生まれた神の御子、イエス・キリストの復活を預言を自ら預言していたのだということをここでペトロは語り、さらにペトロたちは、キリストの復活をその目で見た証人であると語り、キリストは、自分たちの見ている前で天にあげられ、神の右の座=神の支配の座に着かれて、約束された聖霊を天から、注いでいてくださるのだということを論証していくのです。

 14節からは、キリストが天の父なる神の右の座に着かれたということを、詩編110編のダビデの詩を用いて論証します。「主はわたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と。
「主はわたしの主にお告げになった」と、「主はわたしの主に」と不思議な言葉ですが、原語ヘブライ語では始めの「主」は、ヤハウェという父なる神の名前であり、「わたしの主」というのは、名前ではなく、「わたし=ダビデの主人」という言葉です。「ヤハウェという名の父なる神が、ダビデの主人にお告げになった」、このダビデが「主」「主人」と呼んでいるお方こそ、イエス・キリストである、そのようにペトロは解釈して語るのです。その「わたしの主キリスト」が、父なる神に「わたしの右の座に着け」と命じられたと。
 これらの詩編の言葉を用いて、ユダヤ教には無かった新しい解釈をして、ペトロは、ダビデが預言したとおりあなたがたユダヤ人たちがその罪によって十字架につけて殺したイエス様こそ、天の父なる神の右の座に着かれたお方である、十字架に架けられ、復活し、天に昇られたイエスであると解き明かしたのです。

 このペトロの論証というのはなかなか聖書を理解していないことには、分かり難い解き明かしであろうかと思います。しかし、聞いていた人々は、聖書を本当によく研究をしていたファリサイ派ユダヤ人たちですので、恐らく、ペトロの言葉がそのまま染みとおるように、理解出来たのです。
その人々の中には、イエス様を十字架に架けろ!と叫んだ人々が居た筈です。
 その人たちも、ペトロの言葉に大いに心を打たれ、御言葉に目を開かれ、あの十字架に架けられたイエスこそが、自分たちの待ち望んでいた人の子=メシアだったのだということに目を開かれました。しかし、その時、自分たちが「十字架につけろ」と叫んだことを思い出し、不安になったのではないでしょうか。そして、ペトロとほかの兄弟たちに問うのです。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と。
 その言葉に対し、ペトロは彼らに申しました。「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。
 ペトロがまず語ったのは、まず「悔い改めなさい」ということでした。キリスト教信仰のはじまりであり、無くてはならないもの、罪の赦しのためになくてはならないことは、何より「罪の悔い改め」なのです。
人間は生まれながらに罪があります。はじめの人、アダムから始まる神への背き、そこから始まるこびりつく罪。人間の力では拭い切れないほどの問題を私たちはそれぞれ持っています。それは、人の目には、何の罪も無いと思えるような人であっても、罪が無いと人の目から見えるひとであったとしても、持って生まれた罪は誰しも深いことでしょう。
イエス様に先立って現れた洗礼者ヨハネが語ったことは、「主の道をまっすぐにするために」来た人であり、その告げたことは「罪の悔い改めをしなさい」ということでした。それほどに、悔い改めは神と人間との間では無くてはならない第一の事柄です。

「罪の悔い改め」ということについて、私には印象的な思い出があります。何度かお話ししたことがある、私の亡くなった友人のことです。
 友人は、癌が分かった時、既に末期でした。そして「聖書の話が聞きたい」と私に懇願しました。私は東京で目白教会の伝道師、彼女は福井に居ましたが、仕事を出来るところまで済ませて彼女のところに行き、少しだけ聖書の話をして、その後、福井と東京に離れておりましたので、福井市の牧師に彼女を信仰に導いていただけるようお願いしました。牧師は本当に心を尽くしてくださいました。
 二度目に私が福井に行ったのは、彼女の危篤の知らせを受けた時でした。深夜、病室のドアを開けると目を覚まし、私を見て喜び、「聖書の話をして欲しい」と言いました。「私は耳は良いから、ちゃんと聴いているから」とそう言ってまた眠りに就いた友の脇で、私はずっと聖書の話をするのではなく、小さな声で祈り続けました。
暫くすると友は目を開け、「書くものが欲しい」と言うのです。傍にあったメモ帳とペンを渡すと、震える手で、神妙にそれに何かを書き始め、切り取って私に渡しました。そこには「キリスト様に、本当に許してください」と書かれてありました。
 何が起こったのか分からなかった。友は罪の悔い改めをしたのです。その後、急に元気になり、3時間ほど話をしました。
 その中で、私が眠る彼女の傍らで祈り続けてた言葉が、彼女の心には聖書の言葉に聞こえたと不思議なことを言いました。私の祈りを、主は用いてくださり、主ご自身が、彼女を罪の悔い改めに導いてくださったのです。そして彼女は、「キリスト様に、本当に赦してください」という言葉を書いて、なぜか私に渡しました。悔い改めを証明するかのように。イエス様が直接彼女に語りかけられ、その行為をさせたのか?そのように私は理解しています。そのメモは今も大切に持っています。奇跡でした。
さらにまたひとつの奇跡が起こりました。彼女は悔い改めによって、新たな命を得たかのように元気を取り戻し、直腸がんで動かなくなっていた腸が音を鳴らして動きはじめ、ものを食べられるようになり、体は楽になり、それから一週間家族と共に笑って、食事をしたりしながら過ごしました。不思議なまで、平安に包まれた日々であったことを家族から聞いています。
 彼女は家族への影響を気にしながら、洗礼を受けることはありませんでしたが、最後の最後、駆けつけてくださった牧師の「キリストを信じますか」の言葉に「はい」と答え、信仰を告白し、その後、ボートをこぐような動きをして、岸にたどり着いたように「ああ、気持ちいい」と言って体を伸ばして、そして静かになってそのまま召されました。
友の死の一連の出来事を思い出す度に、救われるためには、神との関係を回復するためには、何よりも罪の悔い改めが必要なのだということを強く思うのです。
 そして神は、人の神を求める心を待っておられ、何としても求める人を救いに導こうとされるのだということ、あの友の命の瀬戸際で神が為してくださった業を思い、イエス・キリストに罪の悔い改めを言葉によって証しすること、キリストを主と告白すること、洗礼が、神と人との関係に於いて、救いには如何に必要なことなのかということを思うのです。

 ペトロは、その命の約束、賜物として聖霊を受けるという約束は、神が招いて下さるすべての人―神はすべての人をご自身のもとに取り戻そうとしておられます―に与えられているものであるということを語りました。さらに、ペトロは力強くキリストを証しし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と語り、ペトロの言葉を受け入れ、洗礼を受けた人々は、その日だけで3000人も居り、仲間に加わったと言うのです。

 先週と今週語らせていただいたこと、これがペンテコステの出来事です。朝の九時に聖霊降臨の出来事が起こり、ペトロたちは、聖霊の力を受けて立ち上がり、イエス・キリストこそが、聖書で約束をされていたメシア、救い主であることを証しし、その言葉を聞いた3000人もの人が罪の悔い改めの洗礼を受け、イエス・キリストを信じる者たちの群、救われた者の群、教会が始まりました。
 聖霊を受けた使徒たちを通して、多くの不思議な業、病の癒しや悪霊の追い出しなどが行われるようになりました。それを見るすべての人々、信者である人も信者でない人にも、一体何が起こっているのだろう?恐れが生じたるほどだったのです。

 この初期の教会というのは、まだ自分たちをユダヤ教と思っていました。ユダヤ教に於ける待たれていた救い主、人の子がイエス・キリストであったという信仰であることは、私たちと同様ですが、彼らの拠り所はまだ人間の手で作られた神殿にありました。ですから、毎日心を一つにしてユダヤ教のエルサレム神殿に参っていました。さらに財産や持ち物を売り、必要に応じて皆がそれを分け合いました。教会はイエス・キリストというひとつの体によって繋ぎ合わされた家族であり、自らの持ち物は、神からの賜物であるあことを覚えて、献げ合い、分け合う共同体として形づくられていきました。
 また家ごとに集まって、イエス様が最後の晩餐の席で弟子たちに現された「新しい契約」、パンを分け合うことで、十字架の上で裂かれたイエス・キリストの体は私たちの罪の身代わりとして裂かれた体であったことを憶え、ぶどう酒を飲むことで、イエス・キリストの十字架の上で流された血は、私たちの罪の贖いのための血であったことを覚えて、共に食卓を囲むことを大切にしていたのです。
そして更に多くの業が行われ、日々ひとりまたひとりと教会共同体には仲間が加えられていきました。この始まりの共同体の有り様は、今の私たちの教会にも引き継がれているものです。
 私たちは、イエス・キリストにあって、罪に赦された者たちの群。信仰によって聖霊を与えられた者たちの群です。
初代の教会がそうであったように、絶えずひとつになって祈りを篤くし、また互いに助け合い、重んじ合い、主の晩餐、聖餐を重んじる群として、また、ひとりまたひとりと絶えず人が加えられる群として、主にあって成長をさせていただきたいと願い、祈っています。