「イエス・キリストの系図」(2019年12月1日礼拝説教)

イザヤ書9:1~6
マタイによる福音書1:1~17   

 主の年2019年、この年ももうすぐ暮れようとしています。この年、この地域は大雨の恐ろしさを知らされました。この寒さの中、今尚ブルーシートの掛けられた家にお住まいの方々のことを覚えずにはおられません。
 さまざまな問題があり、暗闇に閉ざされているように思える中、教会には一本の蝋燭が灯されました。これは希望の光。暗き世に、神の救いの光が現される日が来る、その希望の光です。
 灯された紫色の蝋燭は、この時が私たちの心が自らを省み、悔い改めの思いをもって過ごす時であることを表しています。主イエスの来られることを待ち望みつつ、クリスマスまでの時、主に相応しく自らを整えて、主をお迎えしたいと願っています。

 さて、降誕前の時節、イエス・キリストのご降誕に先駆けての旧約聖書の出来事をお話しして参りました。そして今日は新約聖書冒頭、マタイによる福音書1章から御言葉に聞きます。
 この御言葉は新約聖書の冒頭ですので、「聖書を読もう」と思ったら、まず読み始めるのはここからに違いありません。

 私は、子どもの頃から聖書にとても興味を持っていました。この本を読んだら、自分は一人前になれる!と思っていたのです。ですから、読みたくて、知りたくて、小学校の低学年の頃から、何度も家にあった新約聖書を開いて、丁寧に読んでみようと試みるのですが、冒頭がただの片仮名の羅列にしか見えず、17節になる時には、もうへとへとになって読むのを止めていました。それなら飛ばして次を読めば良いのに、「この中には何かある!」と思い、生真面目にその後も時期を置きながら何度もこの系図を読み続けてはへとへとになって止めて、遂に5年生の時に、ようやく読み進めることが出来たことは、私にとって、忘れることの出来ない少女期の快挙とまで思えるほどの出来事でした。
 そんな記憶があるものですから、この系図は、私にとって、本当に大切な御言葉なのです。しかしながら聖書を読もうと思って読み始めた方々にとっては、私がそうであったように、「聖書はつまらない」「分からない」と、はじまりから「躓き」になるであろうことを思います。聖書は人を話術、心地良い言葉によって引き付ける、というようなことをせず、正直で、正々堂々と語るべきことを語る、「聞く耳のある者は聞きなさい」というイエス様の言葉そのものの、ちょっと無骨な書物と思います。
そして、私自身が牧師として御言葉を吟味するようになるなかで、分からない、またちょっと心に不快感を覚えるような御言葉の中に、隠された真理があることを覚えるようになりました。今日はこの私の少女期の躓きとなった、このカタカナの羅列と思える御言葉を読み解いていきたいと思います。
 
 降誕前の時節、アブラハム、モーセ、そして預言者エレミヤについて語らせていただきました。
 イエス・キリストの系図はアブラハムから始まります。アブラハムは、ユダヤ人にとっては父祖であり、私たちキリスト教徒にとっては「信仰の父」と呼ばれる人です。また、イスラエルの歴史の始まりの人です。旧約聖書の歴史は、アブラハムの子孫であるイスラエル民族の歴史なのです。
 旧約聖書に於いて、ダビデ王の子孫から救い主が現れるということが、随所に語られています。今日の旧約朗読もそのひとつです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない」と。ダビデの王座と王国の権威が増す、すなわち、ダビデ王家の血筋に「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるお方が、お生まれになるということを告げています。
 そして、その預言の如くに、イエス・キリストは、アブラハム、ダビデの血統からお生まれになられました。この系図は、旧約聖書のすべての歴史が、まことの救い主イエス・キリストに向かっての歴史であることが語られているのです。

 また、この系図は17節に書かれてありますように、14代=14という数字の三つの区分に分けられていることは不思議に思えます。何故、14代として三つの区分に語られているのかと申しますと、これは旧約聖書の書かれたヘブライ語に由来します。ヘブライ語には22個のアルファベットがあるのですが、それらアルファベットには、それぞれ数字を表す意味もあります。そしてダビデという名前は、ヘブライ語アルファベット三文字で表されているのですが、使われているアルファベットに当て嵌められる数字を合せると、14という数字になります。すなわち14という数字はダビデ王の名前を表す数字なのです。
 数に拘るというのは、ユダヤの独特な考え方となりますが、イエス・キリストの系図が、ダビデ王家の正統な系図であるのだということを、殊更に強調して語られているのでありましょう。
  14代毎に区切られる系図のひとつめの段落は、アブラハムからダビデまでの、民族のさまざまな変遷を通りながらも、繁栄に向かっていく上昇気流に乗る様子が語られる歴史、ふたつめの段落はダビデを頂点として、その後、王国が王たちの罪によって衰退していき、遂にバビロン捕囚とされてしまうまでの歴史。そして、三つ目の段落は、バビロン捕囚の後、エルサレムに帰還が赦され、第二神殿を建てた後の時代、イエス様の父ヨセフにつながる歴史が語られています。
12節のゼルバベルまで、旧約聖書の中で、名前と業績の確認出来る人物たちであり、ゼルバベルの後の名前は、聖書が文書として残されていない時代、聖書の中間時代と言われる時代の人々が含まれていると思われ、聖書の中では確認出来ない人々です。
 また、14代というダビデの名に拘る故なのでしょうか、聖書に記されながら、省かれている名前も多くあります。第一段落は1000年の月日がありますので、14代で済む訳はありませんが、この内容は、ルツ記の最後にある「ダビデの系図」とは一致しています。
 第二段落はユダの王家の衰退の系譜ですが、ユダ王国は基本的に世襲でありましたが、北王国王家との縁戚関係がある期間の王と考えてよいのでしょうか?は、イエス・キリストの系図には含まれておらず、8節ではヨラム王から4代飛ばしてウジヤ王になっていたりします。第三の段落は、聖書からの検証は出来ません。

 それにしてもイエス・キリストまでに繋がる父ヨセフの系図は、イスラエルの歴史に於いては非常に「立派な」系図なのですが、しかし、ここに書かれているひとりひとりが実はどのような人であったかということを旧約聖書の中で読んでいきますと、どうも「立派」とは言い難いこともたくさん含まれています。この系図の中には、多くの「ほころび」のようなものが見受けられます。
二つ目の段落のユダ王国の王の歴史は、イスラエルの民が、主なる神から離れ、偶像を崇拝して、主なる神を悲しませ続ける罪の歴史です。良い王と呼ばれる人は、ダビデ、ソロモン以外で、この中で辛うじてふたりでありましょう。他の王たちは、血にまみれ、偶像にまみれ、罪にまみれた歴史を作って来た王たちであり、その罪の代償として、バビロン捕囚という王国の滅亡に繋がったのだというのが、聖書の理解です。

また、ひとつめの段落に記されている名前も、かなり驚かされるものがあります。最初の14代という段落、そして第二の段落のはじめ6節までの中には、四人の女性の名前が出て来るのですが、女性が4人だけ「敢えて」記されているということに、特別な意味を感じますし、この女性たち、非常に曰くつきの女性たちと言えると思うのです。また、4人共、イスラエルの民ではなく、異邦人の女性たちです。女性たちに焦点を当ててみたいと思います。

一人目は、3節の「タマル」です。
アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの父祖に続いて、ヤコブの12人の息子たちがイスラエル12部族と呼ばれるようになりますが、ダビデ、そしてイエス様に繋がるのは、12人の中の4番目の息子のユダの家系となります。
「ペレツとゼラ」が、タマルとユダという、このふたりの子どもたちですが、ユダとタマルの関係というのは、舅と息子たちの妻、所謂「嫁」と言われる立場の関係なのです。タマルはユダの長男と結婚をしたのですが、長男は、主なる神の意に反することを行ったために、死んでしまいます。
当時のイスラエルでは、長男の権限が非常に強く、また「家を継ぐ」「子孫を残す」ということが金科玉条のようになっておりましたので、嫁のタマルは長男の子孫を残すという義務のもと、次男と結婚をします。これはレビラート婚と呼ばれ、長男が亡くなった場合、その弟たち、親族が長男に代わって家督を継ぐ義務を果たすために当然のこととされていました。しかし、次男も死んでしまう。ここにも複雑な事情があります。
 父であるユダにはもうひとり男の子がおりましたが、タマルと結婚をしたがためにふたりの子が死んでしまったことで、タマルを不吉な女と思ったのでしょう。三番目はまだ未成年の子どもであったことを理由に、タマルを実家に一旦帰します。そして相当数の年月が経ち、タマルはユダに騙されたことを知り、娼婦を装い、ユダと関係を持つのです。そして生まれた子が、ペレツとゼラだったのです。
 
 二人目は、5節の「ラハブ」です。
 ラハブはヨシュア記のはじめに登場する、神がアブラハムに約束された地、カナン地方、エリコの町の娼婦でした。出エジプトをしたイスラエルの民が、40年の荒野での生活の後に、遂に約束の地に入った時、町の偵察に行った二人の斥候を匿った女性です。しかしながら、職業が娼婦というのは、気にかかるところです。

 三人目は6節のルツ。
 夫を亡くし、姑であるナオミへの忠誠を尽くした女性ということで、美談として語られることの多い女性ですが、ナオミの進言ではありますが、亡くなった夫の親類で、ナオミの家を継ぐ権利を持っている、ボアズの寝ている足元に寝て、「あなたのはしためのルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある人です」と誘惑をすることなど、なかなかしたたかな、たくましい女性という印象が、同性の私には感じられます。

四人目は6節の「ウリヤの妻」。ここでは名前を書かれておりませんが、バドシェバという名前の女性です。「ウリヤの妻」と敢えて書かれているのは、ダビデ王の罪を非常に強調して語られているためです。
と申しますのは、この女性は「ウリヤの妻」と書いてありますとおり、もともとダビデの兵士であったウリヤという人の妻でした。ウリヤが戦線に出ている時、バドシ ェバが水浴びをしている姿を、ダビデ王は宮殿から見ていて、その姿にダビデは惹きつけられ、バドシェバを宮廷に呼び寄せ、関係を持ってしまい、バドシェバはお腹にダビデの子を宿すのです。それを知ったダビデは、自分の姦淫の罪を隠すために、何とか、自分の子であることを隠す策略を練りますが、ウリヤは朴訥なまじめな男性で、ダビデの思うとおりにならず、業を煮やしたダビデはウリヤを戦いの最前線に送り出し、敢えて戦死させて、自分の犯した姦淫の罪を隠そうとしたのです。預言者ナタンによって罪は見破られましたが。
そのようにダビデが大罪を犯すことになった女性との関係が、イエス・キリストの系図には記されているのです。
ソロモン王はその時の子ではなく、後にバドシェバはダビデの妻のひとりに加えられ、ソロモンを産みます。夫が戦死するという悲しみと、姦淫という罪を負いながら、ダビデの妻に数えられるようになったバドシェバは、その後、ソロモンを王位につかせるために策略を練りながら、かなりしたたかに生き抜いている姿が、列王記に記されています。

偶像崇拝をして神の裁きを受けたユダの王たち、そして四人の女性たちが敢えて入れられているイエス様の系図を、私たちはどう理解いたしましょうか。
何よりも、人間の罪の姿が赤裸々に読み取れるこの系図です。しかしながら、女性が娼婦のふりをして舅を騙したり、娼婦になったりということは、罪の問題と共に、当時また現在に至るまで置かれている女性の立場に対する悲しみを思います。恵まれた環境にあったならば、娼婦にはならなかったでしょう。少々乱暴に振舞いながらもたくましく生き抜かなければ、生きられなかった。そうならざるを得なかった悲しみが、彼女たちにあり、神はその悲しみをお見過ごしになることは無かったということなのではないでしょうか。
そしてイエス様は、人間の罪のすべて、そして人間の理不尽なまでの悲しみをその身に帯びられて生まれられたということなのではないでしょうか。また、そのような罪深い人間の悲しみを神はよくご存知であられ、罪あるが故に、神は愛し抜かれておられるということなのではないでしょうか。

また、4人の女性たち、「ウリヤの妻」と記され、名前を伏せられているバドシェバ以外の3人の女性に対しては、男性だけの系図の中に敢えて入れられているのには、別の意味もあることも読み取れます。
それは、タマル、ラハブ、ルツの三人共、それぞれ主の律法に従った女性であるという側面があることです。
律法の掟の中にあるレビラート婚というのは、夫が亡くなった場合、弟が兄に代わりになって家を継ぐことが基本ですが、タマルが娼婦のふりをして舅を騙して子を産んだことは、ある時代にはレビラート婚の範疇であったと考えられた時代もあったそうです。その意味で、タマルは夫を失い、それでもその家の長男の子孫を残すという律法の掟を守り抜くために、人事を尽くした、そのようにも理解されるのだそうです。
またラハブはイスラエルの斥候を救ったことで、義人として、ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙で賞賛されています。
ルツの行動も夫の家を守るために、縁戚でレビラート婚の対象となるボアズと結婚をするために人事を尽くした行動でした。
この三人は、律法に従った義人として、神の掟に従うために生き抜いた義人として、敢えて、イエス様の系図に残されていると思われるのです。勿論、さまざまな悲し みや罪を負った女性であることは前提としながら。
「ウリヤの妻」バドシェバについては、恐らく「ダビデの罪」その一言に尽きましょう。
 そしてこれらの4人共、異邦人の女性であったということは、イエス・キリストは、ユダヤ人だけでなく、すべての民の救いとなられるということを聖書は語っているのです。

 主は憐れみ深い。人間のすべての闇、罪をその身に刻みつつ、神は人となられ、世の低きに降られたのです。
 そして、系図に記されている女性たちの葛藤、生き抜くための闘いを主なる神は、心から愛しまれ、祝福をされているのではないでしょうか。ここに記されている女性たちは、同性の私などから見て、傷つきながらも、本当にたくましく生き抜いている女性たちです。そのような女性たちが、イエス・キリストの系図に刻まれていることを心に留めたいと思います。

 イエス・キリスト、人となられた神は、世に於いても、娼婦ですとか、多く傷つき、涙に暮れながら生きる女性たちを励まし、癒し、歩まれました。
 人間の生きるなまなましいまでの現実に、神は降りて来られました。
 このお方が、私たちの主なる神。
 私たち人間の、罪の悲しさ、世を生きる苦労、すべてを身に帯びて世に来られ、すべてを知っておられ、すべてを愛してくださり、共に重荷を担って下さるお方。そして、十字架の上ですべての罪をぬぐい去ってくださるお方。
 このお方がもうすぐ来られます。
 希望をもって今日も歩みましょう。