「明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで」(2019年12月8日礼拝説教)

 待降節第二主日。二本目の蝋燭が灯りました。イエス・キリストがもうすぐ来られる、必ず救いが来る。イエス・キリストを信じる信仰は、心に希望のともし火を灯しつつ、救いが現されることへの希望に生きる信仰です。
 聖書の舞台であるイスラエルの一日は、夕方から始まります。地球は自転していて時差はあれども、世界は同じ時間の巡りを生きている訳で、同じように午前0時という時間が巡ってきて、そこを基点として一日を数えることには違いないのですが、「認識」というのでしょうか。一日の認識が違うのです。私たちは朝を「新しい一日の始まりだ」と思いますが、イスラエルでは夕方が一日の始まりと認識するのです。
 一日の始まりからどんどん夜の闇は深まっていく。夕があり朝がある。
 聖書の世界で、日夜羊を追って外で暮らす羊飼いたちにとって、一日の始まりである暗闇は、最も緊張する危険な時間でもありましょう。羊の群れを狙う凶暴な動物たちが闇夜に目を光らせているからです。
 危険な夜を通って、深夜には見えなかったひときわ明るい大きな星が、明け方、東の空から太陽が昇る少し前に昇ります。それが明けの明星と呼ばれる金星なのだそうです。金星は太陽に一番近く、また地球にも近い星です。太陽に近いので、太陽にひときわ照らされて明るく、また地球から大きく見えます。そして太陽が隠れている夜は太陽の傍にあるため太陽同様に見える空にはなく見ることが出来ないのです。そして太陽が昇ってくるその直前に明けの明星と呼ばれる金星は、太陽に先立ち夜空を大きく照らします。しかし太陽が続いて昇ると太陽の明るさに、明けの明星はすぐに見えなくなり、その星=金星が見えるのは、朝4時頃から1時間程度なのだそうです。明けの明星とは、「夜明けが来る」ということを知らせる星なのです。
「明けの明星」、聖書はこの星を、イエス・キリストであると語っています。明けない夜はなく、夜明けを告げる星が必ず巡ってくるのです。そして、今日少し注目したいのは、この星は、太陽が昇っている時にも太陽の傍に絶えずあるけれど、見えない星であるということです。

 さて今日お読みしたペトロの手紙二は、イエス様の第一弟子であったペトロが書いた手紙とされていますが、書かれている内容から、ペトロの死後、ペトロの名前を冠して、ペトロが生前、人々に語り続けていたこと、ペトロ自身が見たこと、聞いたことをもとにして、紀元2世紀初頭に書かれた手紙であろうと言うのが、紀元3,4世紀頃、随分早い時期から言われるようになりました。私は聖書の中にこのような聖書理解の仕方があることを説教の中で語ることは躊躇われることもあるのですが、今日の御言葉は、そのことに触れた方が、より御言葉に近く語れると思えましたので、敢えて申し上げさせていただきました。
 先だってカトリックのローマ教皇が来日されましたが、初代ローマ教皇は誰かご存知でしょうか。ペトロです。今の教皇フランシスコは、ペトロから数えて266代目のローマ教皇です。マタイによる福音書16章18節のイエス様のペトロに対する言葉「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」が根拠となり、カトリック教会は教皇を中心としたヒエラルキーが成立して行き、現在に至っています。そのようにペトロを重んじるカトリック教会も、この書はペトロの死後に、ペトロの信仰と言葉を受け継ぎつつ、他の誰かの手によって書かれたものであることを認めています。
 ペトロという人は、ガリラヤの漁師である時にイエス様に召されて弟子となった人であり、イエス様の十字架と復活の証人です。復活のキリストから直接の教えを受け、天に昇って行かれるのも見届けた人です。その時、天使が「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたがた見たのと同じ有様で、またおいでになる」と語ったことが、使徒言行録1章に記されています。
「イエス・キリストが再び来られる」、それも「直ぐに来られる」、このことは、その後の教会の信仰の確かな希望となりました。キリストの復活と昇天の後の最初期の教会は、「イエス・キリストが再びすぐに来られる」「終わりの時が来る」完全な救いが顕される、ということに強い希望をもって、どのような迫害の苦しみの中でも、耐え忍んでいたのです。
 終わりの時とは、旧約聖書の預言の言葉に於いて、「主の日」「その日」と呼ばれる日のことです。本日は旧約朗読でイザヤ書2章をお読みいたしましたが、そこに語られている「その日」、「人間の高ぶる目は低くされ、傲慢な者は卑しめられ、主はただひとり、高く上げられる」その日が来ることを待ち望んでいたのです。
しかし、キリストはなかなか来られません。そしてキリストが来られないまま、イエス様の復活の証人である使徒をはじめとする弟子たちは、その多くは迫害によって殺され、死んでいなくなってしまい、証人の生きた言葉を直接聴けない時代となっていました。
 そのような中、教会の中に混乱が引き起こされる中、キリスト教徒に対しての、ローマ帝国からの迫害はますます厳しくなって行き、多くの殉教者が出る苦難の時代となっていました。まさに闇夜に生きる時代でした。キリスト教会の始まりは、ユダヤ人、更にはローマ帝国からの迫害の中を生き抜くことから始まったのです。そしてイエス・キリストを信じる群は、暗闇の中を息を潜めて生きるようになっており、また使徒たちが居なくなり、確かな拠り所となるべき指導者たちが居なくなる中、聖書が語り、またイエス・キリストの語られた約束は偽りだったのかと疑う人々も出て来ました。
 そして、ペトロをはじめとする使徒たちの教えとは異なり、旧約聖書の教えも、預言の解釈も、はじめに伝えられた、イエス様の十字架と復活を目の当たりにした証し人である使徒たちの教えとは違って、自分勝手にさまざま旧約聖書の言葉を解釈したり、イエス・キリストの十字架と復活を捻じ曲げることを語り、人々をイエス・キリストの救いから離れさせるような「偽教師」と呼ばれる人たちが多く出てくるようになっていたのです。それらの教えには、イエス・キリストの十字架と復活を否定し、人々の生活を、キリストに結ばれた愛を基にしたものから遠く離れさせるような、情欲や強欲の赴くままに罪を犯し続ける、そのことを肯定するような、人々を滅びに導く教えも多くあったのです。

 そのような混乱の時代―イエス・キリストの十字架と復活の目撃者が居なくなった第二世代と呼ばれる時代―偽教師に惑わされることなく、イエス様の復活の証人である使徒、イエス様の第一の弟子であったペトロの言葉と信仰に立ち返り、キリストの正しい教えにしっかり踏みとどまり、主の十字架と復活の出来事を自らの救いとして刻み、聖書の御言葉のとおりにキリストが再び来られる日を、希望を持って待ち望みなさい。罪の暗闇の中に留まっていてはいけない。明けの明星であるイエス・キリストが必ず来られる、闇は闇のままではないのだ。その時は、「誇る者は卑しめられ、傲慢な者は低くされ」る、主の正しい裁きの日が来ることに希望をもって、忍耐強く信仰に生きることを勧める、そのことがこの手紙が書かれた根底にあるのです。

 加えて申せば、2000年経った現在も、キリストは天から降りて来てはおられません。世には相変わらずさまざまな罪への誘惑があり、また人と人との間の分断が起こり、またさまざまな混乱の多い、罪深い闇と言える時代を未だ私たちは生きています。
 だからこそ今も、ペトロの手紙二が書かれた時代の人々と同様に、私たちもこの地上に生まれ教会に集い、イエス・キリストが再び来られることを待ち望みつつ、生きています。この御言葉は、ペトロ自身の手紙ではないかもしれませんが、しかし、ペトロの信仰と言葉を受け継いでいるものです。この御言葉は、ペトロがこの手紙が書かれた時代の人々、そして、2000年後の私たちに対しても、直接語っている言葉として、この御言葉に聞くべき御言葉です。
ここでペトロが語っている出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書に記されている出来事です。
 イエス様は、12人の弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登られました。ペトロだけでは人々にこのことを伝えるための証人にはなり得ません。ヤコブ、ヨハネも同じ出来事を見て、後の時代のためにこのことを語り伝えるために召しだされた証人でした。
そこで、ペトロたちは、イエス様の姿が変わり「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」という出来事を見たのです。このお姿は、キリストの復活の体の先取りだったのでしょうか。
 そしてペトロたちは更に見たのです。旧約聖書の偉大な人物、律法を受けたモーセと、預言者エリヤ―この人は、聖書の中で死なずに天に上げられたことが語られているふたりのうちの一人で、救い主が現れるのに先立って、再び世に来ると旧約聖書に記されている人―が、イエス様と共に語り合っている姿を。モーセは旧約聖書の律法を代表し、エリヤは旧約聖書の預言書を代表する人です。
ペトロがそこに見た光景は、後に決定的に重要な意味を持つことになりました。というのも、彼らはやがてイエス様が苦難を受け、十字架につけられる姿を目撃することになるからです。
 イエス様と共にモーセとエリヤが立っている。すなわち、イエス様と共に旧約聖書の律法と預言が立っている。三人が何を語り合っておられたのか分かりませんが、はっきり分かることは、イエス様がこの先、お受けになることになる苦難は、旧約聖書と無関係ではない、ということです。それは起こるべきこととして旧約聖書に既に語られていた。聖書の預言の言葉によって指し示されていた。言い換えるなら、それはすべて神の御心によって起こったことであり、神の御計画によって起こったことなのだ、ということ、ペトロはそのことを見たのです。
 すると、光り輝くような雲がその場を覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という天からの声が聞こえたのです。

 ペトロはこの出来事を自身の弟子たちにどれだけ語り続けことでしょうか。
 このペトロ、ヤコブ、ヨハネ三人の弟子たちだけが経験したこの高い山の上での、イエス様の変貌とモーセとエリヤもそこに居たという出来事は、ある種の「神秘体験」、世の尺度だけでははかることの出来ない不思議な体験でした。信仰に於ける「神秘体験」というのは、時に人の信仰を強めることに役立ちます。人知を超えた不思議なことがこの身の現実に起こるということ、それは人間の認識を超えた「何か」が「確かにある」こと、神の臨在を知ることになります。それを体験した人にとっての信仰の確信になります。
 しかしながら加えて申せば、信仰の奇跡、神秘体験は、それ自体、キリスト教信仰の求めるべき中心では無いことも覚えなければなりません。それは神の栄光の顕れに違いありませんが、イエス様が生きて奇跡を行われた時代は、やがて来るべき、救いの完成の時の先取りとしての時間でしたが、イエス様が天に昇られた後の時代を生きる私たちにとっては、この世は未だ不完全であり、いつも奇跡が顕されるものではない、救いの完成、「もはや病も労苦も無い」時というのは、キリストが再び来られた先に起こることであり、今はまだ苦しみのある不完全な世のままであることを、その中で、私たちは心にまことの救いが現されることに希望を持ちつつ、現実を見据えて一歩一歩生きることを覚えるべきだと思います。
 奇跡が顕されたならば、ただ感謝して神に栄光を帰し、与えられたことに高ぶらず、自分自身の信仰の確信として心に固く保ち、また折々、信仰の確信に導くよい言葉として、宣教のために用いて行くべきでありましょう。
 
「夜が明け、明けの明星があなたがたの心に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください」、ペトロは申します。
世にはさまざまな恐れや混乱のあり、信仰から離れさせようとする言葉や人々も多く居るけれど、「明けの明星」であられるキリストの救いが必ず来る。明けない夜は無いのです。だから、世の惑わしの言葉が多くあり、また暗闇と恐れに取り囲まれていると思えること、闇が永遠に続くように思えることがあるかもしれないけれど、夜明けの光が、救いがあらわされることに希望を持って待ち望みつつ生きなさい。必ず夜明けは来るから。ペトロはそのことを強く語っているのです。明けない夜は無い。このことをまず心に刻みたいと思います。

 また、はじめに、明けの明星は昼は太陽の光に隠れて見えないということをお話しさせていただきました。
 ここでペトロはすでに信仰を持ち、一度は明けの明星であられるイエス・キリストがその人のもとに来られ、キリストを信じる信仰を受け入れながらも、迫害による苦しみ、またさまざまな惑わしの言葉に信仰を揺り動かされている人たちに向かって、これらの言葉を語っています。
 このことは、信仰を持っても、さまざまな誘惑や苦しみが襲う、世はまだ不完全であることを物語っていると思います。イエス・キリストが再び世に降りて来られる「その日」に至るまで、私たちの信仰に於ける生涯というものも、「夕があり朝がある」という一日の巡りの中に、置かれ続けているものなのかもしれません。
 そして、世の苦しみ、「明けの明星」を待ち焦がれる暗闇の時だけが、与えられた確信、信仰に疑問を持ったり、信仰から離れようとする力になるとは限らないのではないでしょうか。
 昼、太陽の光が輝く時、「明けの明星」は、太陽の光の明るさに、そこにありながらも見えなくなるのです。イエス・キリストは暗闇にだけ隠されるお方ではなく、世の太陽の光にも隠されるお方なのではないでしょうか。私たちが心の目を開いて見出さなければならない、隠されたお方なのではないでしょうか。
世の繁栄や世の誘惑はその時、太陽の光に譬えられるのではないでしょうか。世のさまざまな誘惑に、一度は「明けの明星」が現れ、救われ、信仰を持っても、それを見つめ続けなければ、「明けの明星」は見えなくなってしまう。昼のまぶしさに、世の快楽や楽しさ、誘惑にキリストの光が見えなくなることがある。どんな時にも、「明けの明星」なるキリストは、「そこにおられる」のに。
 人間は弱く、目に映るものに絶えず心を揺さぶられる存在です。昼の光の中、「明けの明星」であられるキリストは、そこに居られながら、罪あるままの人間には気づけないお方です。「明けの明星」を心に迎えた私たち信仰者は、絶えず、心の目を、日の光の中にありながらも、見えない神がそこにおられることに心の目を絶えず注がなければならないのではないでしょうか。そうでなければ、私たちはすぐに世の楽しみに、世のさまざまな誘惑の言葉や物事に、心を奪われて、キリストが見えなくなってしまいます。

 そのような私であることを認め、そんな私をも憐れみ十字架の上で私の罪の贖いとなってくださった「明けの明星」であられるイエス・キリストを、人生の喜びの時も、悲しみの時も、苦しみの時も、私たちの心の真ん中にお迎えし、その灯を生涯灯し続けるものであり続けたいと願います。
 御言葉に聞くこと、祈ること。すべてのことに神に感謝を献げ、神をほめたたえつつ歩むことが生涯適いますように。「明けの明星」なるイエス・キリストの救いに私たちが絶えず目を注ぎ、私たちの確かな希望となりますように。
 そして、来るべき救いの完成の日、キリストの再び来られる日、喜び勇んで、差し伸べられるその手にすがりつく者でありたいと願います。