「キリスト・イエスに結ばれた生き方」(2020年2月16日礼拝説教)

イザヤ書58:6~8
コリントの信徒への手紙一4:6~21

 今日お読みした4:6で「『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶため」という言葉があるのですが、この「書かれているもの」が何を指すのか、調べてみましたが、全く分からないのだそうです。「聖書」なのではないか?と何よりも私たちの頭に擡げますが、パウロがコリントの信徒への手紙が書いたと言われている紀元54年頃には、まだ福音書をはじめとして、イエス・キリストについてまとめられた文書はありませんでした。この「書かれているもの」について、今日は具体的に「これだ」とお話しすることが出来ないのですが、この文脈から、人はそれぞれ神から与えられた分というのでしょうか、賜物があり、自分にあたえられた分以上のことは出ない、そのようなニュアンスを含み、人間の思い上がりを制御するような意味があるのだろうと思われます。

 この当時、福音書の基となる、イエス様が語られた言葉を書いてあるものはあったのではないかと考えられてはいますが、福音書はまだありませんでした。
それに代わるものとして「語り伝えられる信仰の言葉」がありました。それらはパウロの手紙の中にいくつか記されてあるのですが、その中でも最も古くから語り伝えられていた言葉と言われているのが、フィリピの信徒への手紙2:6以下の御言葉です。キリスト賛歌と呼ばれる御言葉なのですが、お読みいたします。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿であらわれ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」
 イエス様は、ただおひとりの神であられ、神として天におられたならば十字架の痛みや苦しみ、人間としての悲しさなど経験する必要など本来ない筈であったのに、敢えてへりくだられ、神としてのご自分を無になさり、人間の姿で、神の僕の姿として、それも貧しさの中にある人として世に来られ、罪の無いお方が世にあって罪あるものに見做され―今で言えば冤罪―十字架に架けられ死なれた。
 そのことをこの言葉が「従順」と語っているのは、神の御子の十字架の死が、主なる神の御心であったということです。神の御子が人間としての極限の苦しみの死をもって僕としての生涯を終えられることが神の御心でありました。それはすべての人間の生きる悲しみも死の苦しみも、神の御子が味わい尽くされたものであり、すべての人の罪を赦し命を与える道を拓くためのキリストの犠牲としての死でありました。

 そのようにキリストは、へりくだられたお方です。それでありますのに、キリストを信じて、罪を贖われ、赦された者たちの群であるはずのコリントの教会の人々は、世にある階級や貧富の差がそのまま教会の中に入り込んでおり、富む人々はさまざまな意味で高慢になり、自分本位で自分を高めることに熱心で、パウロにつく、アポロにつくなどの分派の問題が起こって来るなど、さまざまな道義的な乱れもある教会でした。
また、コリントの信徒への手紙は、「聖霊の賜物」ということについて多く語る書でもあるのですが、聖霊の賜物とは、教会を建て上げるために、神の神秘の領域を人 間のそれぞれの分に応じて分け与えられるものと、私自身は理解をしていますが、聖霊の賜物という、神秘とも言える賜物を与えられたことによって、自分を特別な者と思い、他の人々よりも自分は神に高められていると思い込み、パウロやアポロなど、指導者たちを侮るようになり、自分こそが真理を知っていると、「満足」して、ひとり「大金持ち」のようになり、パウロたちを抜きにして、自分こそが真理を知る王であるかのごとく振舞う人々が居たのです。
 彼らが与えられた賜物は、主なる神からいただいたものに違いありませんでした。パウロは「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(4:7)と語っていますが、聖霊の賜物は復活の主によって、信じる者に与えられる恵みの賜物です
 それは、神の一方的なまでの愛と憐れみによって与えられたものに違いありませんが、神の愛と熱情の方が人間の神に対する愛を超えて大きく、それを受ける人間の側の信仰が整っていない場合がある。そのような場合、人間というのは勘違いをしてしまう場合がある。自分を優れた者と自分で自分を思い込んでしまい、自分という人間の能力に万能感を持つようになる。そのようなことがコリントの教会の中に、どうやらあったようなのです。

 先週の聖書を読む会では、マルコによる福音書8章の「ファリサイ派、ヘロデのパン種に気をつけなさい」というイエス様の御言葉を読んだのですが、「ファリサイ派のパン種」は、宗教的な権威を持った人が陥りやすい高慢であり、尚且つ、信仰の形骸化。「ヘロデのパン種」とは、真理よりも世の権力を愛し、真理を押し潰してでも自分の権力を維持しようとする、人間の隠れた支配欲の本性を語っていると思われます。信仰を持ったといえども、人間の陥りやすい罪の縄目を、イエス様は警告しておられました。
 そのような性質を、コリントの教会の人々は持っており、またもしかしたら私たちも持っているのではないでしょうか。

 パウロは、そのようなコリントの人々のことを嘆きつつ、かなりの皮肉を交えつつ、人々を戒めます。
「いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」と。
 そして、使徒としてのパウロ、そして使徒というのですからペトロをはじめとする12使徒らの生き様を語り出すのです。「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見世物のなったのです」と。
 パウロがこの手紙を書いた紀元54年頃というのは、ローマ帝国からのキリスト教徒に対する迫害はそれほど厳しい時代ではなかったようですが、雲行きの怪しくなる時期で、残虐な迫害者となる皇帝ネロが即位をした年代と重なります。しかしネロの時代のはじめはローマからの迫害というよりも、ユダヤ教からの迫害が大きい時期で、パウロは宣教をする中で多くの苦難をユダヤ人たちから受けていました。
 パウロはコリントの信徒への手紙二に於いて、どのような苦難にあったかを語っています。「・・・投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目にあったことも度々でした。ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度・・・・飢え乾き、しばしば食べずにおり、寒さに小声、裸でいたこともありました」とキリストに召された使徒として、キリストを宣べ伝えることがどれほどの苦難があり、見世物となるような辱めを受けながら働きであるかを語るのです。
 そのようにパウロはじめ使徒たちは世に於いてキリストの故に弱くされているが、コリントの教会で信仰を持つ中、いつしか高慢になっている教会の人々は、世のお金持ちか王のように強い。しかし、パウロをはじめ使徒たちは自分を無にしてキリストに仕えて生きることで侮辱されています。イエス・キリストが、コリントの信徒たちも含め、すべての人の救われるべき名であるイエス・キリストが、十字架に向かう道で、人々から唾を掛けられ、あざけられ、罵られたように。

 パウロはイエス様の十字架と復活を、他の12使徒たちと共に目の当たりにした人ではありませんでしたが、おそらくは神の啓示によって、キリストの十字架の姿をはっきりと見たこと、そして絶えず見つめ続けていることが、パウロの書簡から見受けられます。パウロはコリント一2:2で「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と語っており、また、ガラテヤの信徒への手紙3:1では「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたがを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と語っているとおりです。パウロにとって、キリストの十字架は、信仰の目をもって絶えず見上げていた姿であり、キリストの十字架を見上げながら、パウロはすべての苦難に耐え忍んでいたことが思わされます。
 そしてイエス・キリスト、十字架の苦難を味わわれたキリストが共にいてくださらなければ、パウロはじめとする使徒たちが受けた迫害というのは、耐え得ないことだったでしょう。
 キリストは、神であられるのに私たちと同じ肉をもって世に来られ、十字架の苦しみを味わわれた―マタイによる福音書1章には、「その名をインマヌエル、神共にいます」と語られていますとおり、私たち、またパウロたちの苦しみの時にも、イエス・キリストはインマヌエル、共に居て下さる神であられます。私たちの肉体の傷みも苦しみも、また嘲りを受ける悲しみも、キリストは自らの十字架によって知っておられ、そのような傷を持つ私たち人間を包み、癒してくださいます。
コリントの教会の人々は自分を誇り、世にあって強く、世にあって尊敬されるようなあり様だけれど、コリントの教会を作り、そこを今去って、新たな宣教の業に励むパウロの置かれている現状は、今も飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼ぎ、生活をしている状況にある。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返している。それは、キリスト・イエスに結ばれて生きる使徒パウロの姿でした。
 イエス様は「だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)、また「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われました。その受け継いできたキリストの言葉を、絶えず心に刻みつけつつ、すべての人に、またすべての苦しみに耐え忍びつつ、イエス様に倣う隣人愛をパウロは実践していたのです。
 自分を誇り、自分を人よりも高いように見せることに腐心するのではなく、キリストの十字架の傷みを、キリストと共に背負いつつ、キリストが「自分を無にして、僕の姿になられ」たように、自分を無にして、他者のために、他者を重んじ、他者に仕え、また世に仕える、キリスト・イエスに結ばれて生きるとは、そのような生き様である、パウロはそのことをコリントの人たちに伝えているのです。 

 そしてパウロは言うのです。「あなたがたに勧めます。わたしに倣う者となりなさい」と。
パウロはこの手紙を、若く信頼する同労者、パウロの信仰の子であるテモテに持ってコリントに赴かせたと思われます。テモテは、使徒と共に、主において忠実な者であり、テモテのあり方を模範にしなさいと勧めます。
  
 今日の御言葉の中でひとつ注意したいのは、「神の国は言葉ではなく力にある」という、印象的な言葉があり、御言葉よりも力―さまざまな神の業、奇跡のようなものも含む―が神の国を現すのだと、この言葉だけを読むとこの言葉だけを一人歩きさせてしまいそうになりますが、この言葉の理解はそうではありません。これはコリントの教会の「高ぶっている人」に対して、ある意味皮肉を込めてパウロが語る文脈の中にある言葉です。
 自分を誇る、あなたがたの力を見せてもらおう、人間の知恵、高ぶりから生じる、自分により頼む力はどれほどのものか?その実、あなたがたの自分を誇る力が結ぶ果実を見せてもらおうとパウロは語っているのです。人間の知恵を、また自らを誇ることによって、どのような実が結ばれるのかと。
パウロはじめ使徒たちは、キリストの十字架のもとに自らをへりくだり、十字架の上ですべての人の贖いとなられたキリストに倣い、自分を無にして、キリストのために、ひいては他者のために生きている。それに対して、自分を誇り、人間の知恵により頼むことに執心しているあなたたちの力を、その結ぶ実を見せてもらおう、パウロはそのように問うている言葉なのだということを覚えたいと思います。

 イエス様は、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。そしてへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで主なる神に従順であられました。
 キリスト・イエスに結ばれて生きるということ、それは、「自分が自分が」と自分に固執して、自分を世にあって人よりも高めようと生きることではありません。
究極的には、自分を捨てて、自分の命を他者のために、世のために、社会のために生きる、そのような生き方へと向かって行く生き様なのではないでしょうか。イエス・キリストがすべての人のために命を捨てられたことによって、すべての人が生きる道が拓かれたように。それは保身ではなく、神にすべてを明け渡して、十字架の主と共に、世に仕える―そのようなキリスト者の証しは、世に多くあり、世界を、社会を変革して行ったことは多くあります。

 先だって、アフガニスタンで銃に撃たれて亡くなられた医師の中村哲さん。この方は、中学生の頃、洗礼を受けたクリスチャンでした。パキスタンとアフガニスタンで難民への医療支援に尽力する中、アフガンを大干ばつが襲い、人々は汚い水を飲まざるを得ず、赤痢や腸チフスにかかる人が続出し、多くの子どもたちが命を失いました。いくら点滴で水分を補給しても命を救うことはできません。人が生きるには、まず水がなければならない。
 そして、「病気はあとで治せる。ともかくいまは生きておれ」と、用水路を作る工事を自ら始めて、荒地を良き地に変え、人々の命を救い、築かれた用水路によって、いまでは流域にすむ60万人以上の人々の生命を支え続けています。
 医師として日本で働いていたならば、世に於いては人間的に豊かであったに違いない。苦労少なく不自由の無い暮らしが出来たに違いない。しかしアフガニスタンで、そこに生きる人々の命と共に生きることを選び、その土地の人々の多くを救いました。中村哲さんの生き様というのは、自分に死んで、キリストに生きる、そのような生き様だったのではないでしょうか。主に突き動かされるように、神の知恵によって、自分を捨てて生きた生き様だったのではないでしょうか。

 私なんてとてもとても・・・そんな風に私たちは思ってしまうかもしれません。しかし、パウロのように十字架の主をひたすら見つめつつ、主に倣うことを祈り求め続けるならば、私たちそれぞれに、キリストとに結ばれ、キリストに望まれる歩みが、私たちの年齢がいくつであっても与えられるに違いありません。それを求めて生きたいと願うものです。