「ユダの裏切り-イエスの逮捕」(2020年3月1日礼拝説教)

イザヤ書50:4~6
ヨハネによる福音書18:1~14

 新型コロナウィルスの脅威で、この国も世界も混乱して、これまで体験したことのないような社会情勢になってきていることを感じている中、2020年の受難節が巡ってきました。
 コロナウィルスという私たちの肉眼には見えない、得体の知れない闇の力が世を覆い尽くしているように感じられます。
いろいろな情報が錯綜していますが、注意深く時を過ごすことは必要なことだと思われます。本日は予定されていた聖餐式、H姉の転入会式は、これらの影響により中止、また延期とさせていただきます。数人の方から、集まることへの懸念から礼拝をお休みされるという連絡もいただいています。教会は開かれており、礼拝を牧師ひとりでもささげますが、皆様に於いては、特に基礎疾患をお持ちの方は、ご自身の健康と世の情勢と向き合われつつ、このしばらくご無理のないようにしていただきたいと願っています。
 目の前の現実をしっかと見つめつつも、同時に今、主が私たちと共に居て下さることを、またすべてのことに、神の御心が現されますことを信じて、心を高く上げて、世を超えて主なる神のご支配が天にあることを見据えて、困難な中ではありますが、希望を持って歩ませていただきたいと願っています。

 イエス様は、あたかも大祭司のように天を仰いで、主なる神に、十字架の死については語られないながらも、覚悟を持って、御自分がこれからすべての民の救いとなることによって、みもとに戻られ神の栄光を与えられることを祈られ、更にご自身の直接の弟子たちが、悪の世にあって守られることを祈られ、また更に弟子たちの宣教によってイエス・キリストを信じた人々―私たちを含めて―が主なる神とイエス・キリストとひとつとなる、すなわち永遠の命を与えられることを願い祈られた後、弟子たちと一緒にキドロンの谷の向こうの園へと、これから待ち受けるすべての苦難、十字架に向かって一筋に歩んで行かれました。そしていつも弟子たちと集まっていた場所、キドロンの谷の向こうの園―オリーブ山のゲツセマネの園に行かれ、入って行かれました。私たちは、イエス様の祈りの中に生かされています。このことをまず覚えたいと思います。
 
 イエス様と弟子たちが最後の晩餐をされたのはエルサレムの都の中にある家でした。イエス様はエルサレムにすでに入城しておられ、さらにルカによる福音書に於いて、イエス様は弟子に「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う」と言っておられ、最後の晩餐の家はエルサレムであることが明白です。
イエス様と弟子たちは、エルサレムからオリーブ山に向かって歩かれたのですが、ヨハネが敢えてここで「キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」と書いているのには、想像出来る事柄があります。
 この日は過越祭の前日であり、エルサレム神殿では犠牲の小羊が次々と屠られて、祭壇に血が流されている、その日でした。犠牲として屠られていた小羊の数は一説によれば25万匹を超えていたと言われています。その数の現実性はともかくとしても、多くの小羊が屠られていたことには違いありません。
神殿からキドロンの谷に向かって水路が流れていました。計り知れない数の小羊が神殿で屠られているのですから、その流される血というのは想像を超えるものであったことでしょう。流された血は、キドロンの谷に流れ出ていたに違いなく、血で赤く塗られた谷を、イエス様たちは渡って、ゲツセマネに行かれたのでありましょう。その時、主は、ご自身がこれから過越の小羊として屠られること、ご自身の死の姿を見ていたのではないか、そのように想像します。

 ユダは13章で既にイエス様と弟子たちのもとを離れておりました。その時「サタンが入り」、ユダは夜の闇に既に出て行っておりました。
そして、イエス様の居場所をユダヤ人たちに知らせ、松明やともし火や武器を手にした祭司長、ファリサイ派、その下役、兵士たちを引き連れてそこにやって来たのです。
 ここに「一隊の兵士」ということをヨハネは語っていますが、原語のギリシア語でスペイラと記されたこの「一隊の兵士」とは、600人のローマの兵士をさす言葉です。イエス様を捕らえるためにユダと共に600人ものローマの兵士と下役たちがやって来たというのです。
イエス様を捕えようとしていたのは、ユダヤ人たちであった筈です。しかし、ヨハネはスペイラというローマの600人の軍隊がイエス様というたったひとりの男を捕らえるためにやってきたと語ります。こんな軍隊がひとりの人を捕らえるのに必要と考えられますでしょうか。このことは他の福音書では語られておりません。他の福音書には、「大勢の群衆」としか記されておりません。
 ヨハネはここで、人間の目には見えない悪の力を見据えていたのではないでしょうか。それはイエス様と戦う勢力の大きさ。先ほど、ユダに「サタンが入って、夜の闇に出て行った」ことを申し上げました。闇の中のサタンの勢力。それが目には見えないスペイラ=一隊の兵士だったのではないでしょうか。
「ヨハネによる福音書」と同じ共同体の文書だと言われている、聖書巻末の書物「ヨハネの黙示録」は、そこに現れる敵が旧約の時代、ユダ王国を滅ぼしたバビロニアであるように描かれていますが、語られている大淫婦バビロンとは、当時の巨大な権力であったローマ帝国を比喩していると言われています。旧約聖書のバビロン捕囚のことに見せかけて、実際にはローマ帝国よるキリスト教徒の迫害のことを語っているのです。あからさまにローマを批判をすることは共同体をより命の危険へと向かわせることを懸念してのことで、このような描き方を「黙示文学」と読んでいます。
 そしてさらに大淫婦バビロン=ローマ帝国と語られるところの本当の意味は暗闇の勢力、世を支配するサタンであり、それは巨大な力を持ち、すべてを苦しめますが、最後はキリストがサタンを滅ぼし勝利し、永遠の神の支配が現れる、そのように苦難の中にある人々に対して、世の支配を超えた神の支配が覆っていることを語っている書物です。
 私には、ここでヨハネによる福音書が敢えて記している「スペイラ=一隊の兵士」という言葉は、それに近い表現、黙示文学的な表現として、ローマの軍隊を通して暗闇の勢力を見据えているように思えるのです。
 とは言えここでの直接的な敵―イエス様ご自身は敵などとは思っておられないでしょうが―は、ユダヤ人の指導者たちです。ローマの軍隊はおそらくユダヤ人指導者には操れない。ヨハネはユダヤ人の悪意の背後にある巨大な悪の勢力を、まことに戦うべき敵、サタン、悪の勢力を、ローマ軍隊にたとえているのではないでしょうか。ユダに「サタンが入った」と語るヨハネ、闇の勢力の力がどれほど大きなものであったか、本当に戦うべき相手がだれであるのか、それを見据えてこの箇所を語っているのです。

 過越祭の頃は満月です。比較的明るい夜にせよ、松明やともし火を持った一群が近づいてきたならば、たとえ少人数であったとしても、遠くからでも気づかないわけはありません。600人というなら尚更です。ともし火やざわめきに気づけば逃げることも出来たはずです。しかし、イエス様は、近寄ってくる「一隊の兵士」たちから逃げることなくそこにとどまり、自ら進み出られ、口を開かれます。
「だれを捜しているのか」と。
 兵士たちが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエス様は「わたしである」とお答えになりました。
「この男がイエスだ」ということを告げるために、ユダはそこに居た筈です。マタイによれば、ユダは「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と兵士たちに話しており、接吻が逮捕の合図となっていますが、ヨハネはその時のことを別の書き方をしています。イエス様の方から兵士たちに歩み寄られ、「わたしである」と語っておられるのです。

「わたしである」というイエス様の言葉は、原文では、エゴーエイミ、つまり「わたしはある」(英語では I am)と訳される言葉です。ヨハネによる福音書に於いては、何度も決定的な場所で、イエス様の言葉として出てきた言葉です。たとえば、ヨハネ6章で弟子たちがガリラヤ湖の上で嵐に遭った時、イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来られたという不思議な話がありますが、その時、風と波に恐れおののいていた弟子たちにイエス様が語り掛けられた言葉が「わたしだ。恐れることはない」でした。その「わたしだ」というのが、同じエゴーエイミでした。
また出エジプト記3章に於いて、モーセに主なる神が燃える柴の中に現れた時、モーセは神様の名を尋ねました。その問いに対して、神は、「わたしはある。わたしはある、というものだ」とお答えになりました。神がご自分の名を告げることでご自身を現すことを、神の自己顕現と言いますが、この箇所で語られているヘブライ語の「わたしはある」とは、ギリシャ語訳にしますと「エゴーエイミ」となります。
ここで、「わたしである=エゴーエイミ」とイエス様はお答えになっているわけですが、ここでイエス様は、取り囲む暗闇の勢力に対し、「私はあってある者、主なる神だ」と言っておられるということになります。
 イエスさまが「エゴーエイミ=わたしはある」と言われた時、神としての自己を顕された時、兵士たちは後ずさりし、地に倒れました。暗闇の勢力は、イエス・キリストの、神の御子の権威の前に倒されたのです。
 この出来事は、暗闇の勢力に対するキリストの勝利を指し示す象徴的な出来事として記されているのではないでしょうか。そしてそれは、その後に起こること、主の十字架の本質を示しているのです。

 この後、イエス様は十字架へと向かわれます。不当な裁判によって死刑判決が下され、鞭うたれ、神の呪いの十字架の上で、手足に釘をうたれ血を流し、肉体の苦しみの極限を味わわれ主は死なれるのです。ユダヤ人・宗教的な権力にも、国家権力にも負け、そして、さらに言えばサタンにも負けたと見えなくもない。
しかし、その死は、すべての人の罪の贖いとしての死でありました。はじめの人アダムは、蛇に表されるサタンのそそのかしによって罪を持つ者、罪と悪の支配の中に生きる者となりました。しかし、神は、人間を愛され、悪の支配から救い出し、ご自分のもとに取り戻そうとされた。それが旧約聖書の歴史です。そして遂に、御子イエスを地に送られ、その御子が十字架の上ですべての人の罪の呪いとなって死なれたことによって、すべての人が罪赦され、神の支配のうちに生かされる道を示されました。それは神の領域の、人間を救うためのただひとつの道でありました。

 サタンは、イエス様の逮捕のこの時、そのことを知る由もなく、吼えたぎっていたことでしょう。弟子であったユダに入り、ユダを裏切らせ、ユダヤ人指導者たちの妬みに便乗し、神の御子を滅ぼそうとしていた。今にも勝利が目の前にある。イエスは弱い肉体を持ったひとりの人であり、自分たちは600人の一団。
しかし、イエス様の「わたしはある」という、神としての名を語った、その一言で、後ずさりして地に倒されたのです。イエス様、神の権威は、その名、神の名は、悪の力をおののかせ、やがて打ち破る、この出来事はそのことの前触れであるのです。

 さらにイエス様は「わたしを捜しているなら、この人々を去らせなさい」と言われました。この人々とは、イエス様と共にそこに居た弟子たちのことです。他の福音書は、弟子たちは「逃げ去った」と記しておりますが、ヨハネはイエス様が弟子たちを守り、去らせたと語っています。イエス様は迫ってきた悪の軍勢に対し、自ら矢面に立ち、闇の力に立ちはだかって、弟子たちを守ってくださったのです。
 それはただ弟子たちが兵士たちに殺されずに済んだ、というだけの話ではありません。9節にはこう説明されています。「それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった」と。これは先週お読みした17章12節のイエス様の祈りのことを指しています。
「失われない」とは「滅びない」ということです。ただその時、イエス様と一緒に捕らえられることから守られたということではなく、永遠の救いから洩れないということです。イエス様の救いから洩れないということは、極端に言えば、たとえ弟子たちが後に仮に別の形で殺されるようなことがあったとしても、それでもなお「失われない」ということです。

 イエス様の世に来られた目的は、「ひとり子を信じるものが、ひとりも滅びないで永遠の命を得るため」でありました。
聖書は人間には見えない世界を語ります。神の目にどのように見えているか、人間には見えていない神の支配とはどのようなものかを語るのです。そこで語られる滅びも命も、人間の目に映るものとは違います。世で富んでいる人は低くされ、貧しく苦難の中にいる人たちが高く上げられる、そのような神の支配であり、命とは、この世の命を超えた神とひとつとされる永遠の命です。
 ヨハネ福音書に於いて、ユダの裏切りによってはじまるイエス様の逮捕劇は、人間の目には見えない暗闇の勢力と、神の御子イエス・キリストの間の、霊的な領域の戦い。イエスの勝利を見据え、象徴的にそれが記されているのです。

 この場面において力ある御方として立っているのはイエス様だけです。他の弟子たちは皆、無力です。宗教的な権力や国家権力に対して無力であるだけでなく、サタンに対して無力です。
 ペトロは大祭司の手下を剣で斬りつけて抵抗しましたが、ペトロは剣は握れてもサタンに勝てはしないのです。なんとこの場面の直後には、ペトロが三度もイエス様をを否認したという出来事が語られます。彼は簡単にイエス様を裏切り、サタンに屈してしまいます。他の弟子たちもそうです。いざとなったら、どんなに自分を愛してくれる人も見捨てるし、見殺しにだってする。人間は悪魔に対して全く無力です。
 しかしイエス様は、そのような弱い弟子たちを、いわば体を張って守られました。
 そして言われました。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか」。

 イエス様は、父から与えられた杯~十字架の死をもって弟子を、すべての人を守られます。それは、単にこの逮捕の場面だけではありません。イエス様は、御自身に従う者を永遠に守ってくださる。そのことを示しているのです。 私たちは弱く、悪の力にすぐに屈してしまう。
 しかし、十字架の上で呪いとなり、すべての人の罪の贖いを成し遂げるという仕方で、悪魔に打ち勝たれたイエス様は私たちを守ってくださっている。そしてイエス様が共におられるならば、私たちはもはや決して失われた者として滅びることはない。困難の多い世に生きる私たちと世の教会でありますが、是非ともこのことを覚えたいと思います。

 ユダの裏切りとは、人間の思惑を超えた、霊の領域に於ける激しい戦いのはじまりを意味いたしました。
 イエス様は、捕らえられしばられ、大祭司カイャファの舅、アンナスのところへ連行され、十字架への道を歩まれます。
 私たちを救い、永遠に守ってくださる主イエス・キリスト。このお方の十字架の御業を思いつつ、この週を過ごし、来るべき主のご復活を待ちわびたいと思います。