「キリストを信じる者の生き方」(2020年4月5日礼拝説教)

前奏   「深く淵より、我、汝に呼ばわる」
             曲:J.S.バッハ
招詞 ヨハネによる福音書 3章16節
賛美 83 聖なるかな
詩編交読 31編18~25節(36頁)
賛美 521 とらえたまえ、われらを
祈祷
役員任職式        
聖書  出エジプト記8~11節
(旧 136)
  ローマの信徒への手紙
12章9~21節(新 292)
説教
「 キリストを信じる者の生き方 」 小林牧師
祈祷
賛美 2-184 神はひとり子を
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄  24 たたえよ、主の民
祝祷
後奏  

出エジプト記20:8~11
ローマの信徒への手紙12:9~21

「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」
 受難週の始まり、棕櫚の主日の朝です。イエス様が、人々の喜びの声の中、エルサレムに子ろばに乗って入城された日。イエス様の十字架の御苦しみのある週です。この日、土気あすみが丘教会は、創立36年を迎えた2020年度が始まりました。年間聖句として、この御言葉を1月に選ばせていただきました。新年度に向けての私の内にあったイメージは、「苦難の中の希望」でした。そのことに何故か拘りながら、この御言葉を選ばせていただいたのですが、よもや、世の中が新型コロナウィルスのことで、これほどまでの事態となり、こうして礼拝を献げること、皆で集い顔を見て励まし合うこと、そのこと自体が困難な状況になることとは想像もしていませんでした。
 経験をしたことの無い事態に、役員会も日々対応を考えながら、如何に喜びをもって主を賛美出来るかを求め続けています。マスクをして教会に入って、導線が決められていて、まず手洗いをして受付を済ませ、礼拝堂では椅子は分けられ、讃美歌も大きな声で歌えず、礼拝が終わったら早々に帰宅する―このようなことに気詰まりと思われる方もおられると思います。そして、今日は第一聖日ですのに、聖餐式が執り行えません。次週はイースターですのに、聖餐式も愛餐会も持つことが出来ません。
 しかし、今日も集えたことを喜びたいと思います。しかし集えない方々も多いです。その方々も、この主の日を喜び、祈りのうちに過ごされることを願い祈っています。そして、礼拝とは何か、教会とは何か、当たり前のことが当たり前でなくなるこの時、改めて見つめなおし、これらの苦難を通して主がこれから為してくださろうとしていることに、希望をもって見つめて、乗り越えて行きたい、そして主が導かれるまことの救いを知る者とさせていただきたい、そのことを願っています。

 そしてこのような中、旧約聖書の律法に於いて、安息日が定められたことは、現在の私たちにとって殊更に覚えるべきことであると改めて思いました。
 安息日とは、主なる神が6日を掛けて、すべてのものを創造されて7日目に休まれました。この7日目を、主が休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたから、そのことを覚えて聖別しなさい、6日の間働いた人も、家畜もすべて休みなさい、その日を主を覚える日として大切にしなさいと命じられた日です。
 イスラエルの人々、そして現在のユダヤ人たちは、安息日はとにかくすべての労働をしません。安息日を迎えるために、金曜日は備えをし、安息日、その一日の始まりである夕刻、父親はシナゴーグ=会堂に祈りに行きます。妻は家庭に残って食卓を整え、父親の帰りを待ち、シナゴーグから戻った父親は子どもたちを祝福し、家族は安息日の食卓を囲みます。安息日の食卓は、家庭礼拝そのものです。賛美をし、ワインとパンを祝福して、特別の祈りをささげて、家族で食卓を囲みます。そして翌朝は地域のシナゴーグ=会堂に家族で行き、御言葉に聞き礼拝を献げるのです。
 今、教会で共に集い、共に御言葉に聞くことが出来ない方が多くおられますし、ここに今日来ておられる方々も、新型コロナウィルスという疫病の脅威に於いて、この先、集うことが適わなくなるかもしれません。しかし、そのような時こそ、キリスト教徒の産み落とされた、ユダヤ人が守っている安息日の精神を、是非ともかたく持っていただきたいと思うのです。
私たちキリスト教徒にとっての安息日は、ユダヤ教の「神の創造の7日目」に当たる土曜日ではなく、イエス・キリストが死から甦られたことを記念する日曜日を聖別して礼拝を献げています。日曜日は教会に行って礼拝をする、日曜日を聖別して過ごす、このことは、キリスト教徒の、信仰者の最も大切な務めです。何を置いても。しかし、出掛けて集って共に賛美礼拝をすることが難しくなる今、ユダヤ人の安息日の家庭礼拝を重んじる姿勢に敢えて学びたいと思うのです。

 イスラエルに行きました時、エルサレムで安息日を迎えましたが、その日のホテルの様子は、ユダヤ教徒でない私にとっては奇異なものと映りました。エレベーターはシャバットコントロールと言って、エレベーターの行き先階のボタンを押すことも仕事と見做しますので、ボタンを押さなくても良いように、安息日の一日中、ずっと各階をゆっくり止まりながら上り下りをする、自動的に動くエレベーターコントロールをされていました。
それらは、ユダヤ教信仰の無い者にとっては奇異なことでしかありませんが、そのようにしてまで、そのような生活の不自由をしながらも安息日を守ることは、その日を神に献げた聖別した日であることを、嫌でも体に刻むことになります。7日に一度の日を、神のために聖別して、祈りと献身の日として過ごすこと、家に居ながらも、是非とも実践をしていただきたい、家庭礼拝を重んじていただきたい、ご家族がクリスチャンでなくとも、礼拝の時間はひとり聖別して祈りの時にしていただきたい、そのようにしてこの主の日の意味と、集えることは神の恵みの賜物であることを、各々深く心に刻みたいと思うのです。何より、主を愛する一日として、週のはじめの日曜日を覚えたいと思うのです。

 今朝は、この説教原稿と礼拝式文をHPに既に載せてあります。この先も、今のところ、そのようにさせていただきたく思っています。是非とも、ご家庭で式文に則って、賛美をし、聖書を読み、宜しければ説教を読み(朗読出来れば一番良いと思います)、祈り、聖別した日として、この主の日、日曜日を過ごしていただきたいと思います。そして、このように週に一度を神に献げることは、主ご自身が定められたことですので、そのことを守り続けることで与えられる特別な恵みの約束があります。喜び生きる力を与えていただけるはずです。集えなくても、心の中で主の日を聖別して、主を見上げる喜びの日として過ごしていただきたく願っています。
 第二次世界大戦中のドイツの神学者で牧師、ヒットラーの暗殺計画に加わったがために、ドイツの降伏の直前にナチスによって捕えられ、絞首刑とされたボン・ヘッファーは語りました。ボン・ヘッファー著『共に生きる生活』からお読みします。
「教会がこの世に於いて神の御言葉と聖礼典とのために、見える形で集まることをゆるされるのは神の恵みである。すべてのキリスト者が、この恵みにあずかるわけではない。監禁されている者、病人、散らされて孤独でいる者、異教の国々で福音を宣教する者は、孤立している。目に見える形の交わりが恵みであることを、この人たちは 知っている。彼らは、詩編の作者と共に「わたしはかつて祭を守る多くの人と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた」(詩42:4)と祈る。しかし彼らは、遠い国に、み旨によって散らされた種子として、ひとり離れて存在している。しかも目に見える経験としては持つことができないだけに、彼らはそのことを信仰においていよいよ熱心に捕え求める」と。
今、見える形で集まることが赦されている者たち、また赦されなくなり、やむを得ずご自宅でひとり主を見上げておられる方々が、それぞれの場がひとつとなり、「見えない形」で共に集い、神を礼拝する恵みに与れますことを祈ります。

 さて、ローマの信徒への手紙は、パウロの神学の集大成とも言われる書簡で、12章は、イエス・キリストに贖われ、罪赦された者たちの、キリスト・イエスに於ける新しい生活、そして生き方の規範をパウロが語っている御言葉です。
 私たちの目指すべき、また、私たちの心の中に自然に芽生えて来そうなことに対して、軌道修正を促されるような御言葉と言いましょうか、罪ある人間の持って生まれた感情から考えれば、自然なものとは思い難くも、私たちを神の愛へと目覚めさせ、また自らを悔い改めざるを得ない言葉が語られています。
ひとつひとつ、私たちはこの言葉を吟味したなら、自分自身と照らし合わせ、自らを悔い改めざるを得ない、主なる神からの戒めと知恵の言葉が語られています。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」これら、そのまま私たちが各々吟味しつつ、受け取るべき御言葉に続いて語られているのが、今年度の年間聖句です。もう一度お読みします。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」。
 
 聖書は世にある人間には苦難があることを告げています。それはこの世は神に背く罪の世であるからです。
 イエス様は、入城されたエルサレムに於いて、人々に終末=世の終わりについて語られました。はじめがあり、終わりがある、これは聖書の考え方の基本です。
そして、マタイ、マルコ、ルカともイエス様ご自身の言葉としてはっきりと語られていることです。ルカの御言葉をお読みします。「『戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こることに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである』、そして更に、言われた。『民は民にあり、国は国に対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる』」(21:9~11)と。
「疫病」も終末の徴として語られている―聖書は、今の時代を予言しているかの如くにすら思えてしまいます。平穏に生きている時には思いがけないと思われるような災害や、疫病が「ある」ということを、イエス様ご自身が、そして聖書がはっきりと語っていることなのです。私たちはこのことを深く心に留めるべきだと思います。
 続くルカの言葉では、キリストを信じる者たちの群が迫害を受けるということが語られますが、しかし「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」と語られます。この苦難の時、キリストを信じる群は、世に対して証しをする機会となる―非常の時、世は右往左往します。人を押しのけるように咄嗟の行動を起こしてしまうことがある。しかし、イエス・キリストによって贖われた私たちは、既に命はキリストと共にあるのです。世にはありません。世がざわめきだつこの時こそ、そのことを覚えて、イエス・キリストの十字架の愛―命を捨ててまで救ってくださった愛―に根差して、御言葉に聞き、絶えず御言葉に寄り頼み―今日の御言葉はそのまま受け取るべき御言葉です―、祈り、聖霊によって満たされ、力を受けることを願い求めて、主にある希望を持って、今を生きるべきです。
 その時に、偽りの無い愛、善を求めること、互いに愛し合うこと、迫害をする者のために祝福を祈ること、「聖なるものの貧しさ」―パウロがここで語っているのは、エルサレム教会の兄弟姉妹のことを具体的には語っています―を自分のものとして助けの手を差し伸べること・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝つこと、それらが私たちのうちに聖霊によって与えられることでありましょう。私自身は罪人で情けない者だ、御言葉には遠いと思えても、主が働かれ、主がなそうとすることを、私たちに知恵として与えてくださることでありましょう。
 続くルカの言葉で、イエス様は語られます。「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と。
 またヨハネによる福音書16:33でイエス様は語られます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。
 世に苦難は「ある」のです。しかし、イエス・キリストは既に世に勝っておられます。そして、疫病さまざまな苦しみの中にあっても、私たちの命は、キリスト・イエスと共にある、世の命を超えた命のうちに生かされています。
世には苦難があるけれど、私たちの命は、「髪の毛一本も決してなくならない」ような、主イエス・キリストの御守りの中にあります。苦難の中にあっても、忍耐することによって、命=永遠の命をかち取りなさい―主は私たちを励ましておられます。
 どのような中にあっても、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕え、希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る。そのような日々を、この年度、苦難の中から始まりましたが、たとえ、ひととき集えない時が来ても、主の復活された主の日を聖別して、それぞれの場所で、同じ時間に静まり祈り、神を礼拝する。このことを、これまで以上に覚えて、祈りのうちに「見えない形」で私たちはひとつとさせていただきつつ、再び共に喜び集い、大きな声で神を賛美礼拝出来る日を、希望を持って待ち望みつつ、この苦難の時を乗り越えて行きたいと心から願います。
 次週はイースター。主のご復活の日。希望をもってこの日を迎えたいと思います。