「なぜ泣いているのか」(2020年4月12日礼拝式文、礼拝説教)

前奏  
招詞 ヨハネによる福音書 11章25節
賛美 325 キリスト・イェスは
詩編交読 32編1~7節(37頁)
賛美 333 主の復活・ハレルヤ(124)
祈祷
聖書  イザヤ書 25章8~9節(旧 1098 )
  ヨハネによる福音書
20章11~18節(新 209)
説教 「 なぜ泣いているのか」 小林牧師
祈祷
賛美 316 復活の主は
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
祈祷  今月の誕生者・受洗者の感謝
頌栄  27 父・子・聖霊の
祝祷
後奏  

 先の週、涙を流された方はおられますか?
 私は先週は少し泣き虫な一週間でした。2度3度、涙が溢れてきた記憶があります。
一度は、受難日礼拝の時。集まることを公にはせず、自宅で祈りを合わせていただくことをお勧めした礼拝でしたが、それでも3人の方が来られ、それぞれの場で同じ時間に礼拝をしておられる方々とひとつになることを思いながらささげる礼拝となりました。聖書朗読をしながら、キリストの御苦しみが触れたのか、何故か涙が溢れて来ました。
もう一度は、昨日、日本基督教団が声明を出し、「なるべく礼拝に来ないように」と勧告を出したのを知った時。「とうとうこんな日が来た」と、悔しいのか、悲しいのか、涙が出てきました。
そんな受難週を過ごしましたが、主のご復活・イースターを迎えました。ここに集われた役員の方々も、ご自宅で礼拝をささげておられる方々も、聖霊によってひとつとされて、共に主のご復活を喜びたいと思います。
 主イエス・キリストは、苦しみを受けられ、十字架に架かり死なれ、陰府に降られましたが、陰府を打ち破り復活されました。世を生きる者には苦しみがあり、死がある、人間の生きる苦しみのすべてを神の御子自らがその身で経験され、ひととき死の闇へと葬られましたが、イエス・キリストは新しい体をもって復活されたのです。
 すべての苦しみも死も、命へと変えられる―このことは、イエス・キリストによって贖われた者たちすべてに与えられている命の約束です。
 今、新型コロナウィルスが私たちの命と生活を脅かす脅威となっています。かつて、ペストやスペイン風邪が猛威を振るい、また近年もさまざまな感染症が人間の命を多く奪いましたが、世界中、人々が絶えず往来するこの現代、これまでの感染症の比ではないほど多くの人々に感染する恐れがあり、また未だに感染の実態が分かっておりません。日々、罹患された人が増えて行く報道があり、まだまだ曖昧な形とは思えますが、緊急事態宣言が千葉県にも出されました。「集まる」ことが感染源となることが声高に言われ、イスラエルではユダヤ教の保守派の熱心な人々が集まることで感染が広がっているというニュースもありました。
 私たちは何より日曜の朝を聖別し、集い、共に神を礼拝しながら地上を生きる、天に国籍のある神の民でありますが、天の神の支配の中に置かれている者でありつつ、尚且つ世で弱い体を持ちながら社会生活を営む者たちです。世の命を世にあって守らなければなりません。共に生きる家族の命も守らなければなりません。
迫害にあったり、戦争であったりということならば、「それでも何とか皆で集まろう」ときっと強く願うことでしょう。しかし、今は、集まることが私たちの命を、また家族の命を危険にさらす可能性がある事態となりました。そして、教会が集まらないことを選択し、今週は、まずこの群を守る責任のある役員のみで、少人数で礼拝を捧げることを決断いたしました。悲しむべき、想像も出来なかった出来事が日々起こり、状況が悪化しています。このイースターに、日本基督教団も「礼拝になるべく来ないように」という勧告を出すまでになりました。
何故、このようなことが起こるのか。神は何処におられるのか。神の警告ではないか。
9年前、東日本大震災の時に多く問われた問いです。
しかし、今は敢えてその意味を問うことはやめようと思います。ただはっきりと覚えたいことは、私たちは、今も神の救いの御計画の中にあるということです。世は神の愛によって創造されました。しかし神に背く罪という性質によって滅びに定められた人間を、それでも愛し、救いへと導くため、主なる神は今も、救いのご計画をもってすべてを導いておられます。救いの御計画の中には、苦難の日々もあることは、先週、ルカによる福音書の21章のイエス様の言葉を紐解きながら、お話ししました。今、世は苦難の中にあります。しかし主は必ず約束された救いを現してくださいます。
何故なら、イエス・キリストは苦しみを受け死なれましたが、復活されたからです。キリストにあって、世の苦しみは苦しみのまま終わることはありません。究極の苦しみは、歓喜に変えられます。必ず救いが来る。死から命へ―これが私たちに告げ知らせられている福音です。神は万事を益として、すべてを救いの御計画のもと導かれます。心を強く、希望を持って歩みましょう。

イエス様の十字架の死を見届け、墓に葬られたことを見届けたマグダラのマリアは、安息日を過ごし、日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、とにかくイエス様のお傍に行きたかったのでしょう。また、油を塗って、その体が腐敗して行くことの臭いを和らげたい、マリアを駆り立てるものは、悲しみと共に、イエス様に対するひたすらの愛だけでした。
墓についてみると、墓―当時のイスラエルの墓は、岩をくり抜いた洞穴でした―を塞いでいた大きな石は脇へ転がされており、中を見るとイエス様の遺体が無くなっていたのです。
遺体は、油を塗り、頭と体に布を巻いて土の上に仰向けで置きます。誰かが遺体を盗んだとしたならば、布を巻いたまま運ぶことでしょう。わざわざ、布を外したりはしません。しかし、墓の中には、頭を覆っていた布と、体を覆っていた亜麻布が、離れたところに置いてありました。頭のものは頭の側に、体のものは足の側に。
マリアはペトロたちにそのことを告げに走り、ペトロたちもそのことを確認しました。
ペトロたちは家に帰りましたが、マリアはひとり墓の外に立ち、悲しみと混乱でどうしてよいのか分からなかったのでしょう、泣いておりました。
マリアはイエス様のお傍に居た弟子の一人でしたから、イエス様が何度も「人の子は苦しみを受けるが三日目に復活する」という言葉を聞いていた筈ですのに、その言葉を理解してはおらず、目の前の、遺体がないという現実に、「遺体が盗まれた」としか思えず、泣いていたのです。通常、十字架に架けられた罪人の遺体は、そのまま放置され、墓に丁寧に葬られるなどということはありませんから、何者か、イエス様をとことん憎むユダヤ人が遺体を取り去りどこかに投げ捨てたのではないかと悲しみ、途方に暮れていたのでしょう。
泣きながら、もう一度、確認するように身をかがめて墓の中を見ると、イエス様の遺体の置いてあったところ、布が置いてあったところと恐らく同じところなのではないでしょうか―に、二人の天使が見えました。天使はマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問いました。
マリアのこの時の涙は、愛する人の喪失と、遺体が無くなっているという混乱の中での、悲しみの涙でした。泣きじゃくり、目の前のものが涙ではっきり見えなくなるほどの涙だったことでしょう。マリアは、墓の中にいるふたりの天使のことを何と理解していたのでしょう?悲しみのあまり混乱をして、そこにある天使が天使であることすら、意識をしていないようです。そして申します「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。
そう言いながら、背後に気配を感じたのでしょう。後ろを振り向くと、後ろ=墓の外に、復活されたイエス様が立っておられました。泣きじゃくるマリアの後ろには、イエス様がおられました。しかし、マリアにはそれがイエス様だとは分かりませんでした。
イエス様はマリアに語り掛けられました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と。

ルカによる福音書でエマオ途上の弟子たちに、イエス様が語りかけられましたが、弟子たちは語り掛けられたその人がイエス様だということに、共に食卓につきイエス様がパンを裂くまで気づきませんでした。マリアがこの時イエス様に気づかなかったのも、同様の理由なのでしょうか?とても不思議なことですが、復活されたイエス様の体が新しい体、復活の体は世を生きておられた時と違っていたということなのでしょうか?本当のところは分かりません。

マリアは、後ろから語り掛けた人を園丁だと思い、言うのです。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります」。
もしかしたら、マリアの目は、涙で曇っていたのでしょうか?また、あまりの悲しみに泣いて泣いて、心が取り乱して、冷静な判断が出来なかったのではないでしょうか。

マリアは、墓の中を見ていました。今日の御言葉の前半には「見る」という言葉が3回語られているのですが、マリアが見ていたものは、死の闇、墓、それも愛する人の体が失われた墓でした。絶望が彼女を包み、希望は失われ、混乱して、それまで聞いてきたイエス様の真理の言葉―人の子は苦しみを受け、三日目に復活をする―は心から失われていました。
私たちにも出来事は違えど、そのように目の前のことに絶望し、真理に目が向けられなくことがあります。私たちは今、このコロナウィルスという脅威の中で、目の前の不安と混乱に取り乱され、神の愛が見えなくなる、神がどこにおられるのか、自分が失われた者のように思えてしまう、そのようなことがあります。

取り乱すほどに悲しむマリアに、復活のキリストは、「マリア」と彼女の名を呼ばれました。マリアはそこで驚き気づき、振り返り、そこにイエス様が立っておられることをはじめて知ったのです。
「ラボニ=先生」、マリアは喜びのあまり、咄嗟にイエス様に縋りつきました。

その時イエス様は不思議なことを言われます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。
 イエス様は復活をされた―しかし、そこではまだ神の業は完成されていないということなのでしょうか。イエス様が天の父の許に戻られた時、その時こそ神の栄光を受けられる。その時にこそ、イエス様に人は縋りつくことが出来るのだと。

そう、今、私たちはイエス様が既に天に昇られた後の世を生きています。私たちこそ今、イエス様に縋りつく、胸に飛び込むことが赦されているのではないでしょうか。
イエス様は、混乱の中で嘆き悲しみ、苦脳し、泣きじゃくり、死を、墓を見て、絶望を見ている私たちの後ろにおられ、そのまなざしを向けていてくださり、マグダラのマリアに「マリア」と名を呼ばれたように、私たちひとりひとりの名を呼んで、私たちを主が共にあるまことの希望へと、神の救いの御計画へと招いておられるのではないでしょうか。
私たちはイエス様に愛されているのです。マグダラのマリアがイエス様から愛されていたように、私たちひとりひとりにも、イエス様、復活されたキリストの愛のまなざしが注がれていて、絶望と闇に埋もれて、他の何も見えないような混乱の中にある時、私たちを背後から見つめ、名を呼び―名を呼ぶということは、その名を持つ人の人格を重んじるということです―励まし、立ち返らせようとイエス様はしてくださるのではないでしょうか。私たちの背後には、主のまなざしがあります。
主の愛と神の救いの御計画=約束を信じ、どんな時にも主の愛に立ち返り、主が共にある希望を持って生きる者でありたいと願います。

復活されたキリストは、マリアに「主はまことに蘇られ、天の父なる神のところに上る」ということを他の弟子たちに告げ知らせることを命じられます。復活の主に出会った者は、その喜びを、福音を、告げ知らせる使命があるのです。

今、新型コロナウィルスの問題で、礼拝には集うことが難しく、教会に託されている宣教の業を為すことが困難にすら思えてしまいます。しかし、このことを通しても、主が成し遂げようとしておられることに、耳を傾けたいと思います。きっと何か、大切な新しい気づきが与えられることでしょう。
そして、この苦難を通して、必ず主の御業が顕される―このことに希望を高く掲げて、歩んで行きたい。どのような状況にあってもイエス・キリストの十字架と復活の福音を、高らかに宣べ伝える時、主の御業が現されることを信じて、この集うことの困難な時であっても、忍耐強く、ひたすらに福音を語り続け、また福音に聴き続ける者たちの群でありたいと願います。
復活の主は、嘆く私たちの後ろにおられる。振り向いた時に、主の愛と神の救いのご計画がそこにあります。蹲るのではなく、主に心の目を向けて、この困難の時こそ復活の主キリストの愛を覚え、希望の内に歩みたいと願います。