「心の貧しい人々は幸い」(2020年5月3日 礼拝式文、礼拝説教)

招詞    コロサイの信徒への手紙  3章1節
賛美    149(135) わがたまたたえよ
詩編交読 33編12~22節(38頁)
賛美    289 みどりもふかき
祈祷 司式者
聖書 出エジプト記  20章3節(旧126)
マタイによる福音書 5章3節(新 6)
説教 「 心の貧しい人々は幸い 」 小林牧師

出エジプト記20:3
マタイによる福音書5:3

 イエス様が山の上に登られて、腰を下ろし、口を開かれた―その最初の言葉が、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」でした。
「心の貧しい人々が幸い」―思いがけない言葉です。これが、イエス様がこれから語られる8つの「幸い」の一番はじめの言葉として語られた言葉でした。この言葉から始まる、8章まで続くイエス様の説教、所謂「山上の説教」は、旧約聖書のモーセの十戒、律法を完成させる新しい掟と言ってもよいものです。
そのはじめの言葉なのですから、恐らくは最も大切な教えなのでありましょう。十戒の第一戒が、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」ということが、律法の基本中の基本、律法のすべてを貫く大前提であり、最も大切なことであったように、これから語られる言葉のすべての前提となる言葉が、この「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」であったのです。

「心の貧しい人々は幸い」―この言葉を直訳すると、「霊に於いて貧しい者は幸い」となります。ますます不思議な言葉に思えますが、「霊に於ける貧しさ」ということ、この言葉自体が旧約聖書の書かれたヘブライ語に於いて表すことは、「圧迫を受け、背を曲げた者の姿」なのだそうです。迫害の中で背を曲げ、頭を垂れている姿です。
そしてそのような「霊に於いて貧しい者」という言葉が、所謂「死海文書」の中に、「神を信じる者」を自称する呼び名として使われています。
死海文書というのは、1947年にイスラエルのヨルダン川の西岸の荒野で見つかった、紀元1世紀、イエス様の生きられた時代の恐らく少し後の時代のユダヤ人の遺した文書で、旧約聖書の中、エステル記を除いた全文書の写本(断片)と、その他聖書外文献が多く見つかった20世紀の聖書学最大の発見の文書の呼び名ですが、これらを書いて残したと言われる「クムラン共同体」と言われる共同体は、ユダヤ教のエッセネ派に属し、世のことから離れて荒野に敢えて出て行き、男性だけの非常に禁欲的な信仰共同体をつくっていたと言われる人々です。
彼らは自分たちのことを、「霊において貧しい者」「恩寵の貧しい者」「あなたの救いの貧しい者」あるいは単純に「貧しい者」と呼んでいました。その理由は、彼らがイスラエルに語り伝えられてきた歴史の中から、「貧しい者」こそが、神に近い者と認識をしていたからだったのです。
イスラエルの歴史は苦難の歴史でした。モーセに与えられた律法の掟を貫く太いパイプは、「因果応報」であり、神に対して義しい者は祝福され、罪を犯した者はその報いを受けるという理解が多くを占めています。(正しい者には世に於いてよい生活が約束され、貧しさは神に背く悪い行いの結果である)。それを信じて生きて来たイスラエルの民です。
とは言え、神に対して背くことばかりが続き、罪の結果として、バビロン捕囚という悲劇が起こり、国は滅ぼされることになってしまったのですが。
そしてバビロン捕囚の後、殆どの人は貧困と苦難の中を必死な思いで「背を曲げて」生きることを強いられることとなりました。それまでの「因果応報」の考えが通用しない、ただひたすら理不尽な生き様を強いられるようになったのです。しかし貧しさと苦難は、神との関係を取り戻す契機となりました。イスラエルの民は、苦しみの中、自らを悔い改めつつ、原点に立ち返った新たな心で神を呼び求めるようになって行きました。
クムラン共同体の人たちが、自分たちを「霊において貧しい者」「恩寵に貧しい者」「あなたの救いに貧しい者」と自称したことは、そのような苦難を通しての貧しさの中にこそ、神に立ち返り生きた先祖の生き様の中に、神の民であるイスラエルの民の本質があることを認識するようになったからなのでした。主なる神は、苦難を通して、イスラエルの民に、神に立ち返り、まことに神を知る知恵を与えられて行ったと言えましょう
そしてクムランの人々は、人間が自分の力を誇り、自分に強く、自分の強硬な意志で世の勝利を掴み取り、世に於いて豊かになっていることを否定し、荒野に出て、ただ神にのみ希望を置く生活を始めました。そしてそのような貧しい者こそが、自分に小さくなり低くなり、ただひたすら神に寄り頼む、自分の中で神を大きくするという謙遜な心のゆえに、自分自身の心の貧しさの故に、神に近い民であることを知るようになって行ったのです。

イエス様が来られるために、主の道をまっすぐに整える人として神から遣わされたバプテスマのヨハネは、このエッセネ派、クムラン共同体と関わりを持っていたのではないかという説が強くあります。イエス様ご自身も、バプテスマのヨハネを非常に尊敬しておられましたし、この時イエス様が語られた「心の貧しい人々」「霊において貧しい人々」という言葉は、バプテスマのヨハネを模範とするような、神の御前に、自らを貧しくして、神にのみ希望を置き、神にのみより縋り、生きる人。また「圧迫を受け、背を曲げた者の姿」そのような人々にこそ、「天の国はその人たちのものである」と、イエス様は語られたのです。

ちなみに「天の国」というのは、キリストと共に生きた人間が世の命を終えた時に行くと考えられている、いわゆる「天国」ではありません。他の福音書では「神の国」と語られていることと同じ言葉です。「神の国」「神の支配」を意味します。この言葉は、世に苦労をしながら生きる中にあって、「神の支配」がその人と共にある、神の支配が、苦労をしながら神にのみ望みを置き、神にのみより縋る人に、「今」まさに共にあるという意味であると同時に、永遠の神の支配の中にやがて入れられる―神と共にあるまことの命、永遠の命をいただくことが出来るという二重の意味があります。

 少し想像をしてご覧になってみてください。
「私」という人間がいます。この世を生きることに日々自信を持って生きてきました。いろいろ大変なことはあったけれど、自分の力を信じて突き進んで生きて来ました。努力の甲斐があって世にあって生活も豊かです。愛する家族がおり、皆健康で、望んだものの多くを自分の手で手に入れ、そのように人生を築き上げた自分に満足しています。日々、飲食を楽しみ、社交を楽しみ、自分に満足して生きている―一般的に人が望む、ある意味平凡ながら世にあって成功を手に入れた豊かな人生です。
 もし、「私」が、そのように生きて来れたならば・・・と考えました。思い至ることは、恐らく「私」は、神を求めることは無いだろうということです。心が自分のことで満足して自分のことでいっぱいで、目に見えない神の存在、また、私の罪の贖いとなって十字架で命を捨てられたイエス・キリストの救いなど、私には不要、必要の無いもの、馬鹿馬鹿しいものと、心に留めず、そんなことにより縋る人を軽蔑すらするのではないかと思います。
 人間の命はどこから来て、どこへ行くのかも分からない、神の永遠の中の、ほんの短い有限なものであるのに、自分に対する満足でいっぱい。神が入る隙間もありません。命が終わった先は、何となく天国に行くと思うのか、生まれ変わると思うのか、無になると思うのか、それぞれでしょうが、基盤は「自分」だけで生きて来ましたので、命の行き着く先は、真面目に考えるならば「恐ろしい」ものなのではないでしょうか。
 それに対して、もし「私」がさまざまな苦しみを世にあって背負うことになっていたとしたならばどうでしょうか。体にも不自由を抱え、不安があります。いろいろな困難が襲って来て、自分の生きる立ち位置すら危うい。世の不条理に苦しみ、悩みます。自分の力など、世にあって役に立たないとすら思えてしまう。足もとを見ると何もないように思え、自分の内側を見ても何も無いように思え、その時、「私」は、目に見えない真理を探すのではないでしょうか。自分など空っぽで、小さい。そんな自分を満たす「何か」=真理を探し求めるのではないでしょうか。そして、天を仰ぐのではないでしょうか。そして、自らを低く小さくしたところから、神を求めるのではないでしょうか。

 その時、主なる神は、心を神に向けた「私」のうちに来て下さいます。主の救いは、「私」の心の貧しさ、自分など空っぽの「私」の中に、来て下さいます。そして、貧しい「私」の心を、神の愛と恵みでいっぱいに満たしてくださるのです。そのようにして、「天の国」が、「私」の中に到来します。
そして、神が共にある新しい命へと、また新しく生きる道へと、主は「私」を導いてくださいます。自分など空っぽの心のタンクを、主が満たしてくださり、「私」の中に、神による新しい創造が始まるのです。
 
 イエス・キリストは、高い天より低き世に降られ、世にあって貧しくされ、圧迫をされ身を屈めた者として世を生きられ、苦難の死を迎えられました。―しかし、主は復活されたのです。惨めな死は、神の栄光へと変えられました。死は命へと変えられました。世の論理でははかれない、神の支配が、世の価値の逆転が、キリストの十字架と復活によって表されました。因果応報も打ち破られ、神の愛による赦しの道が拓かれました。「心の貧しい人々」を、神ご自身がその内側に大きく生きて働かれる、そのような道が拓かれました。

 イエス・キリストを信じる者には、主の復活の命が表されます。「心の貧しい人々」に、主はご自身を表され、ご自身の命を与え、救われるのです。
 このことを信じ、私たちは、今、自らを謙遜に見つめつつ、ありのままの自分を神にさらけ出して主を求めましょう。主は必ず主を求める者の空っぽの心、その心の貧しさの中に来てくださり、すべてを満たして下さいます。

祈祷
賛美 54-532 ひとたびは死にし身も
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
頌栄   27 父・子・聖霊の
祝祷