「悲しんでいる人々は幸い」(2020年5月10日礼拝説教 礼拝式順)

Zoomによる配信をしています。40分の礼拝です。

招詞 イザヤ書 49章13節
賛美 6 つくりぬしを賛美します
詩編交読 34編1~11節(39頁)
賛美 493 いつくしみ深い
祈祷
聖書 イザヤ書 61章2~3節
        (旧 1162)
マタイによる福音書
5章4節 (新 6)
説教 「 悲しむ人々は幸い 」 小林牧師
祈祷
賛美 533 どんなときでも
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
頌栄  24 たたえよ、主の民
祝祷

 イエス様は、「悲しむ人々は幸い」と、不思議なことを語られました。
 人間は悲しむ人を前にして「あなたは悲しんでいる。あなたは幸いだ」などと言うことは出来ません。そんなことを真顔で言う人を見たら、「何と無責任に自分を高みに置いて勝手なことを言う人なのだろう」と、嫌悪だけを感じることと思います。
 しかし、これはイエス様の御言葉なのです。真理の言葉です。すべてを造り、すべてを保ち、すべてを統べ治めておられる神のひとり子、人間の罪を悲しみ、罪ある人間が引き起こす悲しみを憐れまれ、罪ある人間を命を捨てるまでに愛してくださる神の御子、イエス様にしか語れない言葉、私たちは耳をしっかりと傾けるべき真理の言葉です。

 しかし、当たり前ながら、悲しむという感情、私たちは出来るならば経験などしたくはないことです。
 愛する人を失う悲しみ、さまざまな社会の弾圧などによって自由や尊厳を奪われる悲しみ、人と理解し合えない悲しみ、愛する人の病、孤独、信頼し愛していた人から裏切られること、老いや衰えを体に感じること・・・それらのことは想像をするだけで胸が締め付けられるような、引き裂かれるばかりの記憶にもなりましょう。また今、コロナウィルスでこれまであった日常生活が制限され、ストップしている状態も大きな悲しみと思えます。私たちは出来得るならば、悲しみなど経験したくはなく、楽しく、幸福感の中に生きていきたいと願うものですが、数え始めると、きりが無いほど、私たちは生きる限り、「悲しみ」という感情と向き合わざるを得ないことを覚えます。

 また「悲しみ」ということを説教の準備のために考えはじめた時、どうしても心にひっ掛かったことがありました。それはナチスドイツによって不当に迫害され虐殺をされたユダヤ人、現代の多くの難民の人々、今も起こるさまざまな弾圧による苦しみ、思いがけない災害によって、恐怖、死の危機にさらされている方々の心身ともの極限の状態、苦痛を伴う嘆き悲しみのことでした。また貧困や虐待の中で命の危機にまで瀕している方々の悲しみを考えました。「それらの悲しむ人々は幸いである」―イエス様がそのことまで含めてここで語っておられるのであれば、たとえそれがイエス様の御言葉であっても、あまりにも残酷な綺麗ごとの言葉に思えてしまい、ここでイエス様が言われる「悲しみ」をどう理解してよいのか悩みました。
 イエス様はマタイによる福音書に於いて、ゲッセマネで弟子たちに対し、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と告げられました。
 イエス様は、この世に於ける不当なまでの死に至る悲しみ、恐怖、すべてをご存知であられます。イエス様は、十字架刑という肉体の傷みと苦しみの極限、死の恐怖、すべてを味わわれたお方であられ、そのような恐怖や苦痛にさらされる人々の苦しみすら、主はその肉体と心で経験されてご存知です。そのことに思い至りました。恐怖や肉体的な苦しみにさらされている方々のうちに、イエス様は共に居て下さる、痛みを重荷を共に負ってくださる―私はそのことを信じます。

 そのことを信じ覚えつつ、調べて行くうちに、ここでイエス様が語られている「悲しみ」は、究極的にはそのような悲しみの救い、永遠に至る救いにまで到ることになりましょうが、ここで語られている「悲しみ」という言葉は、「愛する人の死を悼む悲しみ」と共に、「人間の罪と、それに対する神の報い(罰)に関連する悲しみ」という言葉であることが分かりました。具体的には愛する人との関係、また神との関係に於ける悲しみを、イエス様はここで語っておられるのだと思われるのです。
 そう、人間の最初の悲しみは、アダムとエバが、神に背く「罪」によって、神と引き離され、人間に死という滅びが入り込み、人間が多くの労苦を負うことになったことから始まった、そのように言えると思います。人間の悲しみは、罪という人間の根源的な性質に結びついているに違いないのです。
マザッチオという15世紀の画家が画いた「楽園追放」の絵画には、神共にいた楽園を追放され、天使に「あっちへ行け」と促され、嘆き悲しみ、泣き叫びながら楽園を去って行くアダムとエバの姿が描かれています。人間の嘆きと悲しみの根源は、はじめの人、アダムとエバがそうであったように、「神から引き離された」ことによって生じたものであることを思い起こさせる絵画です。
 神から引き離されたところ、そこには人間の罪があり、人間の罪のあるところに苦脳があり、病があり、死があり、悲しみがあります。それらは罪の世の人間の姿です。そして人と人との間の分断は、人間の罪によって生じることがらです。そこには裏切りがあり、心が凍りつくほどの悲しみがありましょう。

 しかし、イエス様は来られました。イエス様は父なる神と、引き裂かれた人間の間を執り成すために来られました。神と人を再び結び合わせるために、執り成しのために、ご自身が十字架の上で犠牲となり、そのままでは神と共にあることが出来ない人間の罪を滅ぼし、神と共にあるまことの命に、人間が入れられる道が拓かれました。人間は世にあって、世にあるさまざまな制約―人間の罪から生まれる悲しみ、苦脳、自然災害など理不尽と思えるさまざまな世のこと―にさらされることは免れえませんが、世にありながら、神と共にあり、神によって世の悲しみは悲しみでは終わらず、神による慰めと励ましをいただき、力を得て、悲しみを通して新しい命への道が拓かれたのです。

 前のカトリック教皇ベネディクト16世は、「悲しみには二種類がある」と語りました。ひとつは、神の愛と真理に信頼を置かない、希望を失った悲しみ。これは人間をその内側から腐敗させ、破壊すると。それは、イエス様の弟子であった裏切り者のユダの悲しみに譬えられ、ユダは自分の犯した罪への驚きから、希望することを放棄し、絶望のうちに死んだとするものです。
 ふたつ目は、「真理(イエス・キリスト)によって、魂が震えることによって起きる悲しみ」と語ります。ペトロは、イエス様に「共に牢に入れられ、殺されても構わない」と言いながらも、三度イエス様を「知らない」と否定しました。ペトロのイエス様に対する愛は真実であったに違いありませんが、彼にはとっさの時の弱さがありました。そして「知らない」と三度目に叫んだ時、イエス様がペトロを振り向かれた(ルカ22:61)、その時の主の愛の眼差しに触れて激しく泣きました。イエス・キリストに思いを寄せながら罪を犯したペトロ、魂が震えるような悲しみは、人間を悔い改めに到らしめ、悪に抵抗する力を与える悲しみであり、イエス様の眼差しに触れたペトロの涙は、悔い改めを心に起こさせ、ペトロは自分の人生を新たにやり直し、その先に聖霊降臨の出来事を経て、ペトロは新しい者とされました。そのような悔い改めと新生へと向かう悲しみであったと言うのです。
 主イエスのまなざしの中に生かされていることを知るならば、その悲しみは、慰められ、励まされ、新しく生かされる悲しみに変わるのです。

 新型コロナウィルスの問題で、礼拝は皆さんと共に集うことが適わなくなり、また教会のすべての集会が取り止めになっています。とはいえ、変わり行く状況に対応するためのさまざまなことが多くあり、いつも以上に牧師は慌しく緊張して過ごしていましたが、電車や車での移動を控えているため、離れて暮らす夫・家族と会うことが適わず、その分少しだけひとり自分自身を振り返る時間が出来ていることは、思いがけないことです。
 そんな中、今日の御言葉について思い巡らせつつ、「悲しむ」という感情に纏わる記憶が、私の中にもさまざまある、そんなことを思い出しました。「悲しみ」があったからこそ、イエス様に出会ったことも思い起こしました。そして、私の場合、その「悲しみ」は、まさしく自分自身の罪をきっかけとして起こったことでした。
「悲しみ」が契機となって信仰を持ち始めて暫くした頃に、更に別の大きな喪失感に襲われる出来事があり、毎朝起きて、聖書をむさぼるようにやみくもに開いて読んで、その御言葉に一日を生きる力をいただいて、起き上がり、その日一日を生きた、毎日、ひとつの御言葉で一日を生きる、それを続けることで生きた数か月があったことも思い出しました。例えばイザヤ書54章などにはどれほど生きる力をいただいたことかを思い出しました。
 先が見えず、心が凍りつくような悲しみを抱えつつ、自分を省みつつ、イエス様に、御言葉により頼むことだけで生きた日々に、私は主の御言葉に慰められ、励まされ、生きる力をいただいた、そして新しい道を切り開いて歩んだ―それは振り返ると確かなことでした。主は、私の悲しみを慰め、主ご自身が私を満たしてくださいました。

 イエス様は「悲しんでいる人々は幸いである。その人たちは慰められる」と言われました。
世にあって、人は「悲しみ」避けて通ることは出来ないことでしょう。愛が深ければ、深いほど、必ず訪れる死という別れは耐え難いものです。また、人間は誰しも罪を犯してしまう。罪を犯さない人はおりません。
 しかし、私たちがすべてをとりなしてくださるイエス様に泣きながらも寄りすがるならば、その悲しみは慰められ、より深く主を知り、主によって新しく、神の御心を生きるものとるに違いありません。
 悲しみと共に、主に希望があることを忘れてはいけない、このことを強く思います。