「柔和な人々は幸い」(2020年5月17日礼拝説教)

招詞     ヘブライ人への手紙 4章14節
賛美     11 感謝にみちて
詩編交読   34編12~23節(40頁)
賛美     226(123) 輝く日を仰ぐとき
祈祷
聖書     詩編37編7~11節 (旧869)
       マタイによる福音書5章5節 (新 6)
説教      「 柔和な人々は幸い 」 小林牧師
祈祷
賛美    482 わが主イェス いとうるわし
信仰告白   日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
頌栄    25 父・子・聖霊に 一同
祝祷

詩編37:7~11
マタイによる福音書5:5

 イエス様の語られる8つの「幸い」の三つ目は、「柔和な人」です。
「柔和」という言葉、この言葉は原語から見ますと、3節の「貧しい者」という言葉とほぼ同じ言葉なんです。
「ほぼ」と申しましたのは、ちょっと複雑なのですが、イエス様は、旧約聖書の詩編からの言葉を引用し語られることが非常に多いのですが、この「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」という言葉は、お読みした詩編37編11節「貧しい人は地を継ぎ」という言葉と、そのヘブライ語の意味を受け継ぎつつイエスさまは語られていると言われているのです。
 新約聖書はギリシア語で書かれていますので、ギリシア語を読みますと、「貧しい」と「柔和」は別の言葉が使われているのですが、イエス様が詩編37:11を念頭に語っておられるならば、ヘブライ語の独特の意味が、イエス様の言葉に含まれているに違いなく、それによれば、「貧しい者」と「柔和」は同じ言葉なのです。
 詩編37:11の「貧しい人」は、ヘブライ語でアナウィム。この言葉の意味は幅が広く、虐げられている者、苦しむ者、あわれな者、貧しい者、柔和な者、へりくだる者、弱い者など多様に訳される言葉で、また国家、富、身分などの世の「誇り」を剥ぎ取られ、背を曲げて、神だけに頼っている人の姿を表す言葉です。そのような人が「地を受け継ぐ」と言うのです。天ではなく地を受け継ぐと。
地を受け継ぐのは、国家の権力を持つ人であったり、富を持っていたり、身分の高い人、そんな風に思ってしまいますが、聖書、そしてイエス様は、ここで貧しい人、虐げられている人、苦しむ人、憐れな人、弱い人、そのような人が地を受け継ぐ、そのように語られるのです。少し不思議に思えます。

「地」すなわち「土地」と考えて良いでしょう。
「地を受け継ぐ」ということ―旧約聖書に於いて「土地を取得する」=地を受け継ぐということは、重要な意味を持っておりました。主なる神は、アブラハムとその子孫にカナンの地=現在のイスラエルのあたりを与えると約束をされました。イスラエルに対する、主なる神の契約が、「土地を与える」ということだったのです。そして「土地を与える」ということは、偶像にまみれた世にあって、聖別された礼拝をする場所を確保すること、「神の言葉を聞く場所を保証する」という意味を持っていました。それがすなわち「地を受け継ぐ」ことであり、神の契約の民となることに結びついて行くのです。
その意味で、私たち土気あすみが丘教会は、この地に、礼拝をするこの土地、そして会堂をいただいています。今は、新型コロナウィルスのため、集うことは適っておりませんが、ここは私たちに与えられている、神の嗣業、神の分け前、神からの相続の地と言って良いのではないか、そのように思えています。

アブラハムの後、孫のヤコブの時代にイスラエルの民はエジプトに移住することになり、およそ400年間エジプトで、寄留の民として、土地を持たない奴隷として生きることになりました。
しかし、主はアブラハムに与えられた約束を反故にすることなどありませんでした。主はエジプトで奴隷であったイスラエルを、モーセを用いて出エジプトをさせ、約束の地へと戻そうとされます。しかし、イスラエルの民は主なる神の言葉に従わなかったが故に、40年間、荒野での生活を強いられることになります。荒野で貧しくされ、世の富や身分などを剥ぎ取られた場所で、多くの苦難を負いながらも、天から与えられるマナが与えられ、ただ神によって養われる民、神にのみ頼る民とされました。罪を犯し、多くの失敗もしますが、それでも主なる神しか、彼らには無かったのです。荒野での40年は、主がただ一人の神であられ、主に従うことに於いてこそ、人は生きるのだということを、徹底的に教えられた、イスラエルの民にとっては忍耐と試練の時であり、また恵みの時でありました。

その指導者であったモーセは、「地上のだれにもまさって謙遜(柔和)であった」(民12:3)と語られています。
とはいえ、モーセについて聖書が語っていることは、所謂日本語のニュアンスの謙遜や柔和である姿ばかりではありません。若い時代には、同胞のヘブライ人がエジプト人から虐待を受けているのを見て、エジプト人を殺すということをしています。その故に追われて逃げて、ミディアンの地で、羊飼いとして苦労をした40年を経て、主に召し出され、出エジプトを指導する者とされ、その後も人々の罪に怒り嘆く姿が多く書かれています。
しかし、モーセは主の言葉を誠実に取り継ぐ人であり、絶えず主に対し、誠実であり続けた人でした。苦難を耐え忍び、主にのみより頼み、すべてを主に委ねて、苦しみの中にあっても主に希望を置いていた人でした。
モーセは苦しみによって練られて、柔和な人となって行った人だったのです。人生には多くの困難がありますが、人は、苦難や悲しみの中にあっても、主に希望を持ち続け、忍耐をもって主にのみ頼り生きる時、まことに日本語で言うところの「柔和」な人になるのではないでしょうか。そしてイエス様はここで、そのように、苦しみの中で練られながらも、主に希望を持ち続ける人を「柔和な人々」と呼んでいるのです。

モーセ自身、約束の土地に入ることは適いませんでしたが、そのモーセの神への謙遜と柔和によって、イスラエルの民は守り導かれ、神の約束の地を、神からの分け前の地、神からの相続の地を、受け取る者たちとされました。土地を受け取る=地を受け継ぐということは、主のものとされるということです。主の契約の成就、主の祝福の民とさせていただくというです。
約束の地に入った後のイスラエルでしたが、しかし絶え間ないほど、その土地を狙い、征服しようとする人々や国が起こります。しかしそれらの征服者たちは悉く去って行きました。征服者はやって来ては去って行きます。残るのは、土地を耕し、苦難のうちに、忍耐をして種を蒔き、収穫をする人々です。高ぶることなく、淡々と忍耐強く生きる人々こそ、歴史的に見ても、高慢で暴力的な支配者よりも、永続して、地を受け継いで行くものです。

東日本大震災に於いて、はかり知れない悲しみがありました。それまで住んでいた土地が、家屋が地震によって壊され、津波で流されました。今尚原発の被災地に於いては、取り残されたようにやむなく「当時のまま」の街があることを知っています。しかしながら力強く復興されている多くの町もあります。忍耐強く、一歩一歩新しく歩み始めている人々が居られ、復興していく町々があります。

以前、聖書の「ケセン語訳」=気仙沼の方言に訳した聖書を出版されたクリスチャンの医師・山浦玄嗣(はるつぐ)さんという東日本大震災の津波によって被災された方の講演を聴きに行ったことがあります。講演の中で、「外から来る人は、『こんなことが起こるとは、神はどこに居るんだ』と言って怒ったり嘆いたりするけれど、ここらに住んでいる者は、津波は来るもんだということを知っている。住んでいる者は、『なんでこんな目に遭わねばならないんだ』ということを言った人はひとりも居ない。恨み言を言った人はひとりも居ない。」と語られたことが印象的でした。
大震災、津波という大きな災害の被災者となられた方々は、津波を神への恨み言にせず、自然災害は何百年に一度はあることを知っているから、そうなったならば新しく種を蒔いて、その地を耕し、その地で生きぬく。苦労と悲しみを負いながらも、生きる希望を捨てず、捨てないどころか、ただただ前を向いて、土地を耕していく。そうやって生きている。そのような話をされました。
その話を聞いた時、イエス様は、そのような人たちを「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」と言われたのではないか、そのように思いました。悲しみや、苦労を負われながらも、土地を耕し、新しい種を蒔くように、忍耐強く生きる人々。そして何より、主に希望を置いて、主にのみ頼り生きる人々―そのような人々を、主は祝福をされ、悲しみや労苦の傍らに共におられ、励まし、導かれ、主なる神の約束の地へと入れられるのではないか。そのような人々こそ、神の嗣業の民とされるのではないかと思いました。

イエス様は、ご自身を語られました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と。イエス様は、神であられるのに、へりくだり、低き世に来られ、貧しく、苦労の多い、悲しみの多い世の歩みをしている人々と共に、歩まれ、最後は、すべての人の救いのために十字架に架かり死なれました。
その主イエスは、苦難に耐え忍び、その中にあっても希望に生きる民と共に、おられます。そして、すべての人が、主イエスを知るものとなり、主にのみ信頼をして希望を持って歩み続ける中にこそ命があることを知ることを、待っておられます。そしてそのことを伝えることにこそ、教会の宣教の使命であるのです。

今、私たちは新型コロナウィルスのために、神から与えられた世から聖別された、嗣業とも言える、この会堂に共に集い神を礼拝することが適わず、一見散らされているように思えてしまいますが、忍耐と希望を以って過ごし、主が必ず私たちを回復してくださり、この「地を継ぐ」一層大きな祝福へと入れてくださることを信じて、この時を歩みぬきたいと願っています。
そして、世界中の教会が、この大きな苦難の中にあるこの時、主の約束の源、礎として、世の救いのために、定められた「神の嗣業」としての使命を、果たし続けられますことを祈りたいと思います。