「聖霊の賜物」(2020年5月31日礼拝式文 礼拝説教)

招詞 創世記 28章17節b
賛美 17(124) 聖なる主の美しさと
詩編交読 35編11~28節(41頁)
賛美  346   来たれ聖霊よ
祈祷
聖書   創世記11章 1~9節(旧13)
      コリントの信徒への手紙 一
             12章1~11節 (新 315)
説教
       「 聖霊の賜物 」 小林牧師
祈祷
賛美    343(124) 聖霊よ、降りて
信仰告白   日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
頌栄    26 グロリア、グロリア、グロリア
祝祷

創世記11:1~9
コリントの信徒への手紙一12:4~11

 イエス・キリストは十字架に架かり、三日目に復活をされ、弟子たちに40日に亘って復活の姿を顕され、多くの教えをなさり、弟子たちの見ている中で天に上げられました。
 キリストの昇天日はイースターから数えて40日目となりますので、毎年木曜日です。日曜日ではないので、主の昇天ということを私たちははっきりとした区切りとしてなかなか実感出来ないことがあるかもしれません。しかし、この日はまさに主が栄光を受けられた日。イエス様が天に上げられなければ、「約束されたもの」=聖霊は降されることはなかったからです。
 イエス様は今、天におられます。天とはどこでしょうか。空のずっと向こう、宇宙の彼方でしょうか?キリストは、雲に隠れて見えなくなったというのですから、きっと空の向こうなのだと思われますが、はっきりした「場所」は分かりません。私たちが認識すべきは、天の「場所」ではなく、天とは「神がおられるところ」だということ、そのことを心に留めるべきでありましょう。
 イエス様は、父なる神のおられる天に帰られました。今も、父なる神のおられるところ、右の座、神の支配の座についておられます。
 そしてキリストの昇天から10日後の今日、イエス様が約束をされた聖霊なる神が、天の父とキリストのもとから、それは不思議に思える驚くべきあり方で、熱心に祈る弟子たちの只中に顕された日、ペンテコステの出来事が起こった日です。この出来事については、使徒言行録2章に記されてあります。
 激しい風が吹くような音が聞こえ、炎のような舌が表れ、弟子たちひとりひとりの上に止まり、弟子たちは新しい言葉、他国の言葉で話し出したという出来事です。聖霊が与えられた、その最初の「しるし」は新しい「言葉」によるものでした。
 旧約聖書創世記1章で、神は「言葉」によって、言葉を発することによって、すべてのものを創造されました。ヨハネによる福音書は、初めにあったこの言葉はイエス・キリストであると語っています。
 神は三位一体。父なる神、イエス・キリスト、聖霊。三つにいましておひとりの神。イエス様は、神の言葉そのもの。そして、聖霊降臨は、「言葉」=神から与えられる新しい言葉=イエス・キリスト、そのお方そのものによって始まったのです。そこに居た弟子たちが話すことが出来るわけのない外国語を突然話し始めたというのですから、誰もが驚く信じがたい出来事でした。
 創世記11章には、人間の傲慢を神が散らされたバベルの塔の物語が記されてありますが、この時起こったことは、それまで同じ言葉を世界中の人々が話していたのに、神によって言葉を混乱させられたという出来事でした。罪によって与えられた言葉の混乱により、人々は互いの言葉が聞き分けられないようになってしまった。そして人と人、民族と民族、国と国の分断が起こりました。
 しかし、ペンテコステの出来事は、それと反対。弟子たちが知る筈のない他国の言葉を話し始め、大きな音に驚いて家に入ってきた各国からの人々が、思いがけず、自分たちの生まれ故郷の言葉を聞いたというのです。聖霊―神の、そしてイエス・キリストの霊であられるお方が、イエス・キリストの十字架と復活、昇天を通して、混乱させられていた世界の言葉に和解を与えられた出来事であり、神の、人間の罪への赦しが、人間の言葉、舌という体の器官を通して顕された出来事と言えましょう。それが、聖霊降臨のはじまりの出来事でした。

 聖霊とは、三位一体の神御自身、イエス・キリストの霊であられるお方です。イエス様は今、天におられますが、天より、天の父と御子イエス様のもとから、神の霊、イエス・キリストの霊であられる聖霊を、言い換えますと、ご自身を霊として、ひとりひとりの弟子たちに送られたのです。
 イエス様が地上に居られる間、イエス様は、人間としての体を持ったイエス様おひとりでした。しかし、主は十字架に架けられ、死なれ、復活され、昇天された―すべての人の赦しと救いの道を拓かれ、天に戻られ、神の栄光を受けられました。栄光を受けられた天より、罪の世、苦難の世を生きる弟子たちに、ご自身を霊としてひとりひとりに与えられたのです。
 聖霊は、イエス・キリストご自身であられる、このことを私たちはしっかりと心に留めるべきです。信じる者に、イエス様はいつも共に居てくださり、その人の内側に住まわれ、生きて働いてくださるのです。信仰によって、私たちの体は、神の神殿とさせていただくのです。

 聖霊が降されたこの日を境に、それまで弱虫だったペトロをはじめとする弟子たちは、聖霊が彼らの内側から生きて働かれるようになり、内側から強められ、弟子たちはイエス・キリストを証しする人として立ち上がり、弟子たちの言葉と、イエス様がなさったようなさまざまな不思議な業を為すようになり、その言葉と力に多くの人々がキリストの御前に自らの罪を悔い改め、その日のうちに3000人の人が洗礼を受け、教会の働きが始まって行きました。そのため、ペンテコステは「教会の誕生日」とも言われる日なのです。
 神の創造は言葉によりましたが、キリスト教会は、神の霊、イエス・キリストの霊であられる聖霊=神の言葉なるイエス・キリストを受けて、新しい言葉によって形づくられ始めたのです。神の新しい創造の業が、ペンテコステを通して始まって行くのです。

 本日お読みいたしました新約朗読、コリントの信徒への手紙は、使徒パウロがギリシアのコリントに自ら造り上げた教会に宛てての手紙です。ギリシア文化と偶像に満ちた、港町コリント。この教会は、パウロが伝道旅行に出掛けるために去って行った後、多くの問題が起こっていました。パウロは教会の混乱に対して教えるのです。
 そしてこの箇所では、ペンテコステの出来事以来、教会を立て上げ続けている、聖霊の賜物についてパウロは語っています。教会を造り上げるのは、聖霊の力に拠ることに他ならないからです。

「賜物」これは文字通り、プレゼント。神からのプレゼントのことです。神は愛であられ、神のもとにはすべての良いものがあります。
ガラテヤの信徒への手紙5章には、聖霊の結ぶ9つの実=果実のことを語っていますが、ここでは9つの聖霊の賜物をパウロは語るのです。聖霊の結ぶ実―実、果実というのですから、時間を掛けて聖霊なる神が人間のうちに働かれて結んで行く実りのことです。それは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、これらの性質です。これらは、イエス・キリストを信じるひとりひとりの内に働いて、やがてすべての信じる者が結んで行く実です。
 それに対し、聖霊の9つの賜物は、すべてのものをひとりの人が持つものではないと語られています。教会に連なるひとりひとりに、聖霊の働きが顕され、教会全体を益とするためにそれらが結び合わされて、用いられる、そのような賜物、カリスマ、神からのプレゼントです。
 ここでパウロが語るのは、私たちが賜物という時、それぞれに与えられた能力、特技のように思い勝ちですが、全く違うことをパウロは語っているのは注目すべきです。神の霊の不思議な働きによって、初代の教会は力づけられ、形づくられていったことを思わされ、そして今、21世紀の現代の教会も、決して侮ってはならない、いつも変わらぬ神からの聖霊の賜物が、私たちそれぞれに分けて与えられ得るのだ、それは教会を立て上げるため、イエス・キリストを宣べ伝えるために必要な力であるのだ、もし、教会に宣教の力が不足しているのであれば、私たちは自らを省みて、悔い改め、今こそ聖霊の賜物を求めなければならないと思わされます。

 まず「知恵の言葉」。イエス様は、「ローマ皇帝に税金を納めるべきですか」と、イエス様を陥れようとするユダヤ人たちに対し、「銀貨の銘は誰のものか」と問われ、それは皇帝の銘であったことから、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。それは、誰も貶めることなく、またご自身を陥れられることも出来ない、知恵の言葉でした。そのようなイエス様の持っておられた知恵を、与えられるならば、さまざまな混乱は回避出来ることでありましょう。
 次に「知識の言葉」。イエス様は、徴税人のザアカイとまだ会っていなかったのに、無花果桑の木の上にいたザアカイに、「ザアカイ、降りてきなさい」と、ザアカイの名を呼んで招かれました。イエス様はまだ見ぬことを見抜く知識がありました。そのような知識を与えられる人が教会にいると言うのです。
更に「信仰」。信仰は神の賜物です。心の目が、イエス・キリストに向かって、ますます開かれること、真理を知ることを求めたいです。
 そして「病気を癒す力」。これを与えられたとしたらどれほど私たちは嬉しく神の御業を知ることでしょうか。勿論癒されない病もありましょう。しかし、神の御業が顕されるために、このような力が、そして次に語られる「奇跡を行う力」が与えられることがあるというのです。これらのことを、大昔の絵空事と思わずに、与えられると信じて求めることは、大切なことです。
 更に「預言する力」。かつての預言者のように神の言葉を受けて、語る力です。パウロはこれを同じコリント14章で「願い求めなさい」と語ります。預言は教会を造り上げると。
 また更に「霊を見分ける力」。この世には、悪の諸霊の力が働いていることは、聖書が多く語っていることです。それらの霊の力と、聖霊なる神の御業を見分ける力を、しっかりと持てるようになりたいと願います。そうでなければ、世の諸霊による不思議なことが顕されたならば、それらを信じる、なんでもかんでも奇跡があれば良いという「ご利益」を求めるだけのものになってしまいます。それは、まことの信仰ではありません。ただ悪しき力を引き寄せるだけのことになりましょう。
霊を見分ける―このことは超自然的に知る人も居るということなのでしょうが(ここに聖霊の賜物と語られていますので)、私たちひとりひとりもそれを信仰によって知ることが出来ます。それは、現された出来事が、イエス・キリストの救いと愛に結びついていくかどうか。ただそれだけです。
 そして「異言を語る力」。ペンテコステの出来事は、弟子たちが知り得なかったはずの言葉、外国の言葉を突然話し始めたことから始まりました。それを異言と言います。また異言には、世界にある言葉ではない、神からの言葉というものの有り得ます。異言を語ることを、パウロは同じコリント14章で、「異言を語る者は自分を造り上げる」と語っています。
 また更に「異言を解釈する力」。異言は殆どの人は、その言葉の意味が分かりません。しかし、それを解釈する力がある人が、教会に与えられるというのです。それは、神の言葉、預言と結びついて行き、異言を解釈することによる預言は、教会を造り上げる、パウロはそのように語っています。

 パウロの語る、聖霊の賜物―不思議なこと、絵空事のようだと思われましたか?
 しかし、これらは聖書がはっきりと語っていることです。私たちは今一度、聖書に立ち返り、教会の宣教の在り方というものを見つめ直すべきなのかもしれません。
 ペンテコステのこの日、私たちの教会が、聖霊の賜物を求め、聖霊の賜物で満たされる人々が起こされることを、強く願い求めたいと思います。