「憐み深い人々は幸い」(2020年6月7日礼拝説教)

出エジプト記22:20~26
マタイによる福音書5:7

 2ヶ月ぶりに皆さんと見え、礼拝堂に共に集えましたことを心から嬉しく感謝いたします。
 この2ヶ月、イースター、ペンテコステという教会に於ける大切な祝祭日がありました。教会は、イエス・キリストの出来事を辿る半年が過ぎ、教会の暦に於ける後半の聖霊降臨節を歩んで行きます。今日は三位一体主日。神は、父子聖霊なる三つにいましておひとりの神であられることが明らかにされたことを記念する日です。
 これから半年間、聖霊によって導かれるこの群の歩みが、主の祝福のうちにありますことを祈ってやみません。

 イエス・キリストを信じた者たちには、神の霊、イエス・キリストの霊なるお方、聖霊が降されます。パウロは申しました。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(一コリント3:16)と。
 神殿とは、天におられる、神の名、神の権威が、地上に於いてとどめられている場所です。神を礼拝する場であり、神殿で行われる礼拝とは何よりも罪の赦しを乞うために、主に動物の犠牲の献げものをささげる場所でありました。
今はエルサレム神殿はありません。イエス様が十字架に掛けられてから、40年近く後に、ローマによって破壊されてしまい、動物の犠牲は終わりました。私たちキリスト教徒にとっての、捧げられた犠牲は、神そのお方、イエス・キリスト。神ご自身が、私たちの犠牲となってくださったのです。イエス・キリストを信じる信仰によって、イエス・キリストの成し遂げられた十字架の死が、信じる私たちのもの=犠牲となり、私たちは罪赦され、神共に生きる新しい命のうちに生かされることが出来るようになったのです。エルサレム神殿は滅びましたが、信仰者ひとりひとりが神の神殿、神の支配が内にある者とされるようになったのです。
 パウロは、イエス・キリストの十字架と復活、昇天、ペンテコステの出来事を通して信じる者たちに与えられ、神の神殿とさせていただくこの新しい命のことを「内なる人」と呼んでいます(二コリント4:16)。
 私たち人間は罪の中に生まれました。生まれたままの私たち人間は、「外なる人」、滅びゆく弱い体を持ち、神に背き、自分を中心にしかものごとを考えられない罪を持つ者です。しかし、信仰により、聖霊を受けて、私たちの内にキリストにある新しい人「内なる人」が形作られ、日々、内に住まわれる聖霊によってさまざまな罪の気づきを与えられ、神に向かって成長させていただき、やがてガラテヤ5章にある聖霊による実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結ばせていただくことが、「きっと」出来るようになるのです。聖霊から与えられる性質というのは、神のご性質そのものと言えましょう。
そのご性質を、聖書、今日お読みした旧約朗読、新約朗読とも、「憐み深い」という言葉、ひとことを用いて語られています。そして出エジプト記22章には、主ご自身が「わたしは憐み深いからである」と語っておられます。
 その「憐み」の具体的な内容―これは律法の中の一文ですが―は、ここでは「寄留者を虐待したり圧迫してはならない」「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」「金を貸す場合、高利貸しのようになってはならない」「隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない」と、弱い立場の人たちを徹底的に保護する事柄でした。神は弱さの中にある人を重んじられ、その人たちを守ることを、律法に於いて命令しておられるのです。それが神の意志であるのです。

 イエス様は、山の上に登り座られ、口を開かれ、ご自身の周りに集まって来た、生きるさまざまな重荷を負っている人々に向かって、8つの幸いの5つ目として言われました。「幸いだ、憐れみ深い人々は。その人たちは憐れみを受ける」と。
 国語辞典を引いてみますと「憐れみ」とは、「同情を乞う」「憐れを感じさせる」と書かれていました。人間同士の関係の中で「憐れみ」という言葉を使い「憐み深い」と言う時、どうしても人間の優越感情と、立場の弱い人たちを下に見る、そのような印象が拭えません。確かに、「憐み深い」と語られている言葉のギリシア語は、ただ心で「憐れみ」を感じるだけでなく、何らかの行いを伴う言葉です。
 であるならば、弱い立場の方々に施しをする、同情し、手を差し伸べることは、聖書が求めていることです。「聖書が語っているから憐み深く振舞おう」と思い、為してみることも一案でありましょう。でも、それではどこまで「憐み深く」接する相手を、神がひとりひとりを重んじられるように、心の底から重んじることが出来るでしょうか?どこまでも「偽善的」で、自分を高みに置く自分自身がいるのではないでしょうか。三浦綾子さんの小説『塩狩峠』の中で、主人公が「よきサマリア人のたとえ」の御言葉を実践することを決心し、同じ職場で問題を起こした人物の隣人、友としてあり続けようとしたけれど、自分が実は、彼を見下していること、隣人になろうとしながらも、本当に愛してなどいない、実は御言葉を全く実行できないという自分の罪に気づいたことが語られていたように。
 またそこにも行きつかず、手を差し伸べる行為を恐れたり、また偽善すら出来ていない自分に気づかされたりするのではないでしょうか。

「憐れみ深い」ことが神のご性質であり、聖霊によって時間を掛けて結ばれる実りであるならば、「憐れみ深い」という性質は、残念ながら、生まれながらの人間の性質の中には実は無いものと言えるのではないでしょうか。
否、そんなことはない。世の中には、まことの意味で「憐れみ深い」人々はおられるようにも思えます。自分の利益など関係なく、なりふり構わず他者に尽くす、そして世界を変える、そのような方は歴史の中でも多くおられるように思えます。 

 インド・カルカッタで、貧しく死に行く人びとの傍らに立ち生きたマザーテレサの『来て、わたしの光になりなさい!』という本は、マザーが66年間に亘って5人の懺悔聴聞司祭たちに送っていた40通余りの手紙が纏められた本なのですが、この本には彼女の苦悩と信仰への懐疑とも言える言葉が散りばめられており、世界に衝撃を与えました。
「わたしの信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、むなしさと闇しか見あたらない。神よ、この得体の知れない痛みがどれだけつらいことか」。
「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実ではない」。
 これらの言葉がマザーテレサから発せられた言葉であることに驚かされます。たぶん全世界の人がマザーテレサは特別な聖人であって、その献身的な憐れみの行為に、すべてに於いて聖い人であると思い、尊敬を感じているのではないでしょうか。
でもその彼女は、天に召される最後の最後まで、実に50年以上に渡って彼女自身の「心」というか、「霊的な闇」に苦しんで、激しく葛藤していたということが死後になって公表されたのです。マザーは多くの人々のために「憐み深い」援助の手を差し伸べ続けていましたが、自分自身の罪に激しく葛藤し、苦しむ人であったというのです。
 彼女は、路上に倒れ、うじにまみれながらも息をしている人たちのうじを取り、手当てをし、包帯を巻き、見守り、その人が死に渡される時を傍らにいたと言います。どれだけそれをしても、貧しい人や無残に路上で倒れ、またゴミ箱に捨てられる子どもたちが絶えることなく限りなくいる。死を待つ人々はいなくならない。神はいない、と思われるような苦しみの場所に、彼女は神からの特別な召命の経験を経て遣わされ、生涯をそこで働きぬきました。その彼女が、信仰の喜びではなく、凍りつくような孤独と霊的な闇を抱えたまま働き続けていたというのです。
彼女は誰にも真似出来ないほどに多くの人を助けたけれど、自分の為せる「限界」を彼女自身が一番知っていたのではないでしょうか。自分の手はあっても根本的な解決には程遠い現実。どこまでも貧しい人がなくなることが無い世の現実。そしてそれを為しながら襲い来る、神への懐疑と心の闇。

 イエス様の周りにも多くの貧しく、病に苦しむ人々がおりました。イエス様は、病気の人を憐れました。
 イエス様が病気の人を憐れまれる、その言葉はギリシア語でスプランクニゾマイという特別な言葉が使われています。この言葉は「腸がちぎれるほど」苦しむほどに憐れむという言葉です。どこにも偽善など入り込む余地などない、神の憐みを表す言葉です。しかし、イエス様が触れても触れても、病気の人は居なくならず、貧しい人も居なくなることは無かった。この世の悲惨、悲しみをイエス様ご自身、狂おしいほどに感じておられたのではないでしょうか。
 そして主は20世紀のある時、インドに於いて、マザーテレサをご自身の友として、イエス様ご自身の苦悩と憐みを彼女の上に置かれたとは考えられないでしょうか。
それをマザーは自分自身の「霊的な闇」を通して――パウロの言うところの「外なる人」と、聖霊によって与えられた「内なる人」の葛藤の中をとことん為す中で、その苦脳の中で主ご自身から与えられた使命を果たして行ったのではないでしょうか。旧約の預言者たちが、神の熱情とまで言える憐れみを受けて、生まれたままの自分自身と、神からの使命の間で狂おしいほどに苦しみつつ、使命を全うしたように。

 神の憐みがあるところ、それを為す人間は、「外なる人」の偽善などでお茶を濁すことなど許されず、自分自身の闇を徹底的に通らされる、神の国を実現していくためには、そのような厳しい側面があり、徹底的に自分自身の罪を抉り出され、心の闇を通らされ、闇の中で苦闘しながら、イエスの意志を為して行くものなのではないでしょうか。
「外なる人」と「内なる人」の葛藤を通らなければ、イエス様の言われる「憐れみ深い」ということ、イエス・キリストの憐み深いこと―スプランクニゾマイ=単なる同情心ではない神の憐み―に到達することは出来ないのではないでしょうか。

「憐れみ深い者は幸い」、神は「憐れみ深く」人に接することを求めておられますが、「憐れみ深い者となりなさい」「援助しなさい」のようなことを、私自身は安易には口に出来ないと思わされます。人間同士の間で、援助をすること、施しをすること、そこには受ける側の態度も含めて、多くの問題が横たわっています。
しかし、神は、どんな犠牲を払っても、それを時に、神が憐れまれ愛する者を用いて、神の憐れみを託すことがあるのです。託された者は、自分の罪と葛藤しながら、苦しみながら練り清められ用いられる。そして神からの使命を全うする者とさせていただく。そのように憐れみ深い者とされる者は「幸い」でありましょう。

 マザーテレサは、自身の霊的な闇の中で、彼女は自分が味わっている闇をイエス様ご自身が、世の悲しみを味わった闇と言われるものの一部として、またイエスさま自身が味わった渇きであるとして、すべて苦しむ人々は主イエスであり、イエス様の渇きを癒すという境地にまで至ったのだと言われています。自分自身の闇を、イエス様の十字架の苦しみ、また貧しい人々の心の闇と重ね合わせ、それを彼らと共に苦しむことが自分の使命だと考えるようになっていったと言うのです。

 マザーテレサの憐みの行為ですら、ただ美しい人間の意志によるものではなかった。マザーテレサは、選ばれて、神の愛と憐みの中に徹底的に置かれた者、イエス様の憐みを知らされた人であって、憐みを受けて、自分が罪人であることを徹底的に知らされ、暗闇を通らされること、キリストの味わわれた世の苦脳のかけらを与えられることによって、神の憐れみを体現する、イエス様の言われるまことに「憐み深い人」とされた人だったのです。

「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」
 私たちはまず神の憐みを求め続ける者であることを願い求めたいと思います。イエス様の友とさせていただくまでに愛し憐れまれ、それを受けて神の憐みを世に表して行けるようになるならば―それは一瞬の出来事だけかもしれないけれど―何と幸いなことでしょうか。また、心からの小さな業を行えるようになるなら、どれほど幸いなことでしょうか。
 この罪深い、闇に覆われた世に、神の憐れみが私たち、そして教会の業を通して顕されて行くことを願い求めたいと思います。