「義のために迫害される人々は幸い」(2020年6月28日礼拝説教)

イザヤ書53:1~5
マタイによる福音書5:10~12

 本日は、この教会の教会員で、4,5,6月という月に、天に召された=神がおられる天に入れられ、今、主の御許におられる召天会員の方々を憶えて、祈りの時を持たせていただきました。
 私たちの地上の生涯は、世の死をもって終わりではない―これは聖書がはっきりと語っていることです。フィリピの信徒への手紙3:20に「わたしたちの本国は天にあります」という御言葉がありますが、私たちはこの地上に生を受けて、いずれ誰であっても世の生涯の終わりの時を迎えます。それは神が定められた時。イエス・キリストに結ばれ、世にありながらイエス・キリストの復活の命のうちに入れられた者たちにとって世の死とは、天への凱旋の時。本国である神のおられる天に戻る時、神共にある命に入れられる時であると聖書は語っているのです。先に天に凱旋をされた兄弟姉妹と、私たちは主にあって今も結ばれており、やがて天の御国で再会する、天で共に神を賛美する者となる、そのことを覚えたいと願います。
 イエス様はヨハネによる福音書14:6で言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」と。
 私たちの世の生涯とは、本国である天に戻るための、その道を見出すための道のりなのかも知れません。だから、私たちは真剣に、神に向かって、誠実に生きねばならないのです。

 今日の御言葉は、山上でのイエス様の語られた8つの「幸い」の中の最後です。
 この8つの幸いの前半の4つは、世に於ける「繁栄」の姿とは間逆と言える姿が幸いと言われました。幸いなのは「心の貧しい人々」「悲しんでいる人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」。世に於いて背中を曲げ、腰を低くするように生きる人々が幸いとイエス様は語られました。
 それはただの慰めではなく、真の、神の支配に於ける真理です。神の目には、世俗的な尺度はひっくり返されるのです。世間的な目から見れば、貧しい者、失われた者と見られている人たちが、人によらず、自分の力によらず、神の愛によってのみまことに富ませていただく幸いな者であり、祝福された者であり、世にあってどんな困難があろうとも、その中で神が共にいまして、神の憐れみが顕され、世にあって世にない喜びに満たされ、まことの喜びの声を上げることが赦されるのです。
今、もし、生きる困難の中にある方がおられましたら、自らを今一度省み、真剣に神の憐れみを祈り求めていただきたいと思います。祈り求め、イエスの名を呼ぶ時、神は喜ばれ、力を与え、主を知る知識に富ませ、立ち上がる道を示してくださることでしょう。その主の小さなささやく御声を聞き分ける耳を持たせていただけますように。

 そして後半の四つ「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」とは、世に於いて神と共にある人々の実践的な生き方が語られています。その4つ目が今日の御言葉、「義のために迫害される人々は幸いである」です。そして、続く言葉は「天の国はその人たちのものである」。
3節に戻り読んでみます。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。
 イエス様の語られる8つの幸いは、最初と最後が「天の国はその人たちのものである」です。これは、この8つの幸いのすべてが、「天の国はその人たちのものである」に結びついて行くことを表していると考えられます。そして、「慰められる」「地を受け継ぐ」「満たされる」「憐みを受ける」「神を見る」「神の子と呼ばれる」、それらは世に於いて主に結ばれて生きる人々に、主なる神から与えられる、天来の恵みです。
これら8つの幸いを、ひとつずつ読んで参りましたが、根底にあることはひとつです。すべてが繋がっており、イエス様の語られる「幸いな人々」は、生きることに於いても、死ぬことに於いても、神の支配の中に、キリストと共にある命のうちにすっぽりと入れられている人のことが語られているのです。

 そして「義のために迫害される人々は幸いである」というイエス様の言葉は、預言的と申しましょうか。この後のキリストを信じる者たちの群とその人々、キリスト教会の歴史を語るものとなりました。「義」という言葉は、以前にもお話しいたしました。神と人間との正しく結ばれた関係を表す言葉であり、尚且つ、神と結ばれた人間の生き様です。
 イエス様の十字架と復活と昇天、聖霊降臨によって、世にはイエス・キリストの名による地上の教会が各地に起こされました。しかし、その歴史は苦難の歴史です。使徒言行録には、絶えず使徒たちがキリストの名のもとにユダヤ人たち、またローマ帝国から迫害を受けることが語られています。イエス・キリストの名のもとに、神のまことの救い、天の国の福音を宣べ伝えたがために、キリストを受け入れることの出来ない人々から激しく迫害をされたのです。
ローマ帝国に於いては、今も遺跡として遺されているローマのコロシアムで、キリスト教徒は野獣と戦わせられて殺されたり、見世物にされ、殉教しました。それだけでなく、ローマ帝国でキリスト教が公認宗教となる4世紀初めまで、厳しい迫害が続きました。キリスト教会は、迫害の中で信仰を守りぬきました。
今のトルコは、パウロが伝道旅行をした土地であり、初代キリスト教会の宣教の拠点となったところですが、トルコには3世紀頃のローマからの迫害を逃れて生きたキリスト教徒たちの生活した、岩を掘った洞窟の奥深い地下都市が残されています。蟻の巣のように張りめぐらされた地下都市です。どうやって掘り、どれだけの人が迫害を逃れ地下で生活をしていたのか、摩訶不思議に思える場所でした。
「義のために迫害される」そのような中で、信仰を固く守り続けた人々がおり、多くの信仰の闘いがあり、そのような経過を経て、キリスト教はローマの公認宗教となり、後にローマの国教となり、世界に広がって行く足がかりを得て、2000年経った現代も、イエス・キリストの名による教会は増え広がっています。
「迫害」=「殉教」ということに繋がって行くわけで、殉教ということについて、私はまだ語る言葉をはっきりと持てない者なのですが、そのような人々が居たからこそ、信仰の純粋は保たれ、後の世に残る真理となったことは確かなことです。そして、特にヨハネの黙示録に於いては、殉教者たちの天に於ける輝ける栄光の姿が語られています。まさに「天の国はその人たちのもの」であることが高らかに語られているのです。
そして誰よりも、イエス様ご自身が、「義のために迫害される人」となられました。
 ユダヤ人たちは、自分たちの先祖から受け継いでいる信仰に於いて、待ち焦がれられている救い主が世に来られた。それなのに、ユダヤ人たちは、イエス様を神から遣わされた神そのお方であることを認めず、神を神と認めず、イエス様を憎み、殺そうと企み、そして遂に十字架への道を歩ませました。イエス様ご自身が、人々から中傷され、非難され、排斥され、その極みに於いてローマ帝国の政治犯の極刑である十字架刑に処せられ、殺されたのです。

 私たちは、そのお方を主とあがめています。

 人間の理性の範疇で考えますと、2000年前、ユダヤ人の貧しい庶民の子としてお生まれになり、ガリラヤのナザレという田舎町で大工として30歳頃まで過ごされ、30歳にして天の国を宣べ伝えられ始め、人々を一気にご自分のもとに引き寄せると同時に、権力のある人々からは嫉妬され、憎まれ、罪が無いのに罪人とされて、十字架に架けられ死なれ、三日後に復活をされ、天に昇られた・・・という―その「ひとりの人」を神のひとり子と知り、そのお方の血を流され死なれた十字架のもとに集い、十字架に自らの罪を明け渡し、主の十字架によって赦された者、神と結ばれた者として世にあって生きるということ、この言葉を聞いて、今、キリストの教会に集っている私たちは、人間の理性では思いがけない真理に心の目を開かれたとしか言いようがないのではないでしょうか。聖霊の御働きによって。

 しかし、私たちの確信を、身近な家族、友人に伝えることの難しさを、私たちは知っているのではないでしょうか。
私自身は、イエス様のことを幼少の頃から話を聞いて知っていましたし、聖書に興味を持っており、キリスト教に否定的では決してありませんでしたが、「イエス・キリストこそが私の救い」ということをまことに知るようになったのは、自分自身の罪を知った時でした。罪の中で苦しむ中、キリストの憐れみによって、聖霊によって教会に導かれたことをはっきりと認識をしています。それまで見えなかった十字架を、目が開かれたように家の窓から見つけ、その十字架を目指して翌週日曜日、自転車を走らせたのですから。礼拝で自分の感情とは別のところで、不思議なくらい泣けて泣けて仕方が無かったのですから。
でも、そのことを初めは家族であってもなかなか伝えられなかったです。罪を語ることは恥ずかしいことですし、心の内奥はなかなか語れない。自分の理性や感情の領域ではなく、主に「導かれる」ことは、自分の理屈では語れない領域です。ましてやそれを、キリストを知らない人にはなかなか伝えられない。「この人大丈夫かしら?」と思われ兼ねない。

 特にこの日本という国に於いては、神仏が混ぜ合わさり、明治以降は天皇制も複雑に絡み合いながら、自然宗教的な感覚を持つ人々が殆どで、「神」というと、大木も山も仏像も全部同じと思う感覚が根付いてあり、またそれらの感覚を自ら「無宗教」と言って、それをあたかもとても良いことのように語ります。キリスト教は、そのような感覚の中では、西洋から入ってきた異質な印象を持ちながらも、文化的で何となく良いもののような印象が、明治大正期のキリスト者の、女子教育や今の青山学院、明治学院などの学校を作ること、またさまざまな社会事業的なよき働きの影響があり、長年あったと思います。そのような良さに何となく教会に来るようになり、しかし、罪を認めないまま、西欧のキリスト教的なものを求めて教会の周縁にいる人たちのことを、植村正久という牧師は、「精神の風流譚」と言ったのだそうです。しかし、近年は、オウム真理教の影響があり、「精神の風流譚」的なものも退けられ、熱心な信仰というものが、ひっくるめて「こわいもの」という印象を持たれ、今は殊更に宣教が難しい時代となっています。
 また日本は武士の時代から「恥の文化」が根付いていて、罪の意識がないということを、ルース・ベネディクトの『菊と刀』という書物で語られていますが、そのとおり、「日本人には恥はあるが、罪意識はない」ために、イエス・キリストの語られる人間の罪ということに対する違和感を持つ人が多いのだろうと思っています。
また、キリストに出会う、自らの罪を知るということは、自分自身を剣で貫かれるように辛いことです。ヘブライ人への手紙4:12には「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」と語られておりますように、人間の内側を切り刻まれるように露わにされ、罪を曖昧にはされないのですから。そして、罪の自分自身というおものを認め、悔い改め、十字架の御許にすべてを差し出さなければ、神の御前に立つことは出来ない、そのことが信仰の核心であるのですから。

 キリストに出会うことを、多くの人は拒否し、教会はしばしばさまざまな悪口を浴びせられます。
しかし、イエス様は、はっきりと語られるのです。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」と。

 真理はただひとつ。イエス・キリストの十字架の救い。人は、イエス・キリストを通らなければ、神のもとに行くことは出来ないのです。
その真理に、世は歯向かい、抵抗をします。この世は神から引き離され、悪の力が大手をふるう世であるからです。
しかし、イエス・キリストの十字架に身を寄せる者たちを、神は必ず世から救い出してくださいます。そしてたとえ迫害を受けようとも、イエス・キリストの福音を宣べ伝え続けるならば、天に於いて報いが、大きな喜びがあり、神は必ず世の問題から私たちを救い出し、祝福への道を拓いてくださいます。

 教会の宣教には闘いがあります。私たちの信仰生活にも闘いがあります。
しかし、ひるまず、祈りをもって、大胆に地域に、また私たちの隣人に、イエス・キリストを宣べ伝え続けたいと願います。
私たちの本国は天にあり、私たちは、天の国にある神の尺度、神の側の命の価を生かされているのですから。
恐れず、前に進みましょう。