「他者の尊厳を重んじる」(2020年8月9日礼拝説教)

マタイによる福音書5:27~32

 今日の御言葉、説教題を何にするのか、非常に悩みました。「姦淫してはならない」「離縁してはならない」、それらも選択肢でしたが、それらの言葉が看板に掲げられることを想像したら、時々、街角に貼ってありぎょっとする「世の終わりが来る 聖書」という看板と同じに思われるかもしれない、でももしかしたら、心に秘密のある人が看板を見て、神様に心の中を見透かされて、戒められるような言葉に思えて、自分のあり方を考えさせられることがあるならば、それも良いかもしれないなとも想像しました。そして、何度も読んでみて、「他者の尊厳を重んじる」という説教題にいたしました。

「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、心の中でその女を犯したのである」、イエス様の言葉は強烈です。実際の姦淫の行動には至らずとも、心の中で、「みだらな思いで他人の妻を見た」ならば、心実際の姦淫の行動と同様だと仰るのですから。

 性、肉の欲望とキリスト教信仰―このことは、イエス様のこの言葉の故に、信仰を持とうとし、また信仰をもって御言葉に従い真剣に日々生きようとするならば、一度は立ちはだかり、悩まざるを得ない事柄のように思います。アンドレ・ジッドの『狭き門』をはじめ、多くのキリスト教文学も、この主題を扱っています。
またキリスト教は、このイエス様の言葉の故に、「厳しい」「私には無理」と思ってしまう方が多いのであろうと感じています。人間にとって性の問題、愛し合うこと、結婚、それに纏わるさまざまな葛藤は、生きる上で無いことには出来ないことであり、人間であることの喜びも、悲しさも、誇りも、みじめさも、性、そしてそれに纏わることを含めた人間同士の関わりの中で、人は体験しつつ生きるものと思います。

 神は創造のはじめに男と女を、向かい合い、互いに見つめ合って生きる存在として造られました。本来そのような姿であるべきですのに、「みだらな思いで他人の妻を見る」ことは、向き合った状態から外れること、神に創造の形が崩れはじめる出来事と言えましょう。
 しかしながら旧約聖書の時代というのは、一夫多妻が多く語られています。罪ある人間の世界に於いては、立場の弱い女性が生きるためには、生活力のある男性が多くの妻を持つという意味もあったのでしょうか―今もイスラム教はそのような考えがあると聞いていますが―聖書には、夫婦の関係が1対1の関係ではなく、一夫多妻の故に、愛に苦しむ女性の姿がいくつも語られています。
 ヤコブには二人の妻と二人の側女がおり、それぞれに子がありました。サムエルの母ハンナの夫エルカナには、もう一人の妻がおりました。ダビデも多くの妻を持っていましたし、ソロモンに至っては数知れぬ妻や側女が居たことが語られています。「姦淫」という言葉が無意味なほどに思える事態です。
 イエス様の時代のローマの皇帝に纏わる性的なことなども、乱れに乱れていたようですし、日本の歴史を考えてみても、性的な事柄というのはかなりあからさまに奔放だったと思います。女性は男性の「遊び道具」のように、人格の無い「商品」のように扱われることが多く、家庭の貧しさからまさに商品として売られて、いつの時代、どこにあっても、「娼婦」と呼ばれる女性がおり、また、今もそのような生活を余儀なくされている方々がおられます。娼婦ではなくとも、若い女性は男性の欲望の対象として見られて、扱われることが日常茶飯事です。その結果、心身ともに傷つき苦しむのは女性です。
 そのような男性中心と言える人間社会にあって、イエス様は「姦通」ということを、それが「心の罪」であったにせよ、厳しく戒められるのです。
「姦淫してはならない」は、モーセ十戒の中の7番目の戒めですが、これは、互いに向き合い生きる関係として造られた男と女、本来は1対1であるべき関係の重さ、愛で結ばれる関係の重さを語る掟であり、またそれと同時に旧約聖書に於いては結婚を神と人との関係にたとえておりますので、「夫婦関係の裏切り」という姦淫の行為を、神を裏切り、偶像に心を寄せる非常に重い罪にたとえて語っています。
 さらにイエス様は、姦通という行為に至らないでも、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、心の中でその女を犯したのである」と言われるのですから、男性は、もしかしたら誰しもぎくっと思い当たったりするのでしょうか。また、男性のみならずイザヤ書3:16には「シオンの娘らは・・・流し目を使い、気取って小股で歩き、足首の飾りを鳴らしている」と女性に対して叱っていますので、配偶者以外の人を、みだらな心で見る点では、男も女も変わりないのかも知れません。
 先週、一コリント5章の御言葉の解き明かしで、図らずも今日の御言葉に触れたのですが、「心の罪」は、小さな黴のように、私たちの存在のすべてを瞬く間に侵食して、体全体を汚します。「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましである」とは、心の罪が、人間存在のすべてに「滅び」を齎す、そのことをイエス様は強く警告しておられます。

 そして、イエス様は「離縁」を禁じる言葉をここで語られています。
 イエス様がここで引用して離婚を否定しておられる『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』という言葉は、申命記24:1に語られるモーセの言葉なのですが、妻という存在と言いますか、女性をぞんざいに扱う、そのことを赦す酷い掟だと女性の私は思います。妻が気に入らなくなったら、離縁状を渡せばよいというのですから。これは不要な品物を手放すように妻を捨てることを認めた掟です。
 このモーセの言葉自体を、イエス様はマタイ19:8でで「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」と、主の律法が元来このことを許してはいなかったということを語っておられるのですが。聖書はさまざまな立場で読まれますが、70年代に起こったフェミニスト神学では怒りの鉄拳を向けられるモーセの掟と思います。
 しかし、イエス様はそのようなことが当たり前にされている社会に於いて、男性が女性を、男性の好き勝手に応じて得たり、捨てたりしてはならないと、妻の立場、女性の立場を重んじて厳しく命じられたのです。「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる」、勝手に捨てられてしまう妻の悲しさに加えて、律法に合わせれば、姦通の罪を「犯させることになる」と。この意味は、離縁状を書いて出してしまった妻、女性が、その弱い立場のゆえに、その後、他の男性との関係に翻弄せざるを得なくなるであろう悲しみをイエス様は仰っておられるのではないでしょうか。離縁され家を出された女性に、当時自立して働くことの出来る仕事があったとは思えないのです。そして安易な結婚を繰り返すことしか生きる道はなくなってしまったことでしょう。
イエス様は、徹底的に立場の弱い存在、女性の悲しみに寄り添われます。
 イエス様の女性の弟子の筆頭とも思われるマグダラのマリアは、イエス様に出会うまで娼婦でした。イエス様の足を涙で濡らし、自分の髪の毛で涙を拭った娼婦であったの違いない女性に対し、イエス様は「あなたの罪は赦された」(ルカ7)と罪の赦しの宣言をされました。イエス様は、女性であるが故に、男性から粗末に扱われ、涙に暮れる女性に限りない憐れみを表されました。

 これらのイエス様の言葉は、男性中心の社会、世の男性に対しての厳しい戒めであり、その根底にはイエス様の、弱い立場の女性、弱い立場の人々への限りない憐れみがあることを覚えます。
 この言葉を読んで、私たちは自分に引き寄せ、頭の固い「禁止条項」のように受け止めて、ああ堅苦しいなどと受け留めてしまい勝ちです。勿論、禁止条項と言えますが、旧約聖書の律法の心、一番大切なことは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして第一に神を愛すること、隣人を自分のように愛すること」それに尽きます。イエス様のお考えもそこに立っておられます。そして徹底的に弱さの中に置かれた女性、病を負った人々の傍に立たれて、今も、生きて働いていてくださっておられます。

 また「姦淫をしてはならない」「離縁してはならない」と語られるイエス様は、結婚を重んじておられます。イエス様ご自身は、結婚をされませんでしたが、ヨハネによる福音書によれば、イエス様の最初のしるし、神の御子としての栄光を現された場所は、カナの婚礼の席、結婚式でした。そして聖書は結婚を神と人との関係に譬えています。神・イエス様は夫であり、妻は私たち人間です。男性も含めて、神との関係においては妻です。
 神は人間を愛し抜かれ、罪を赦し、人間が神と共に生きることを求めておられます。ですから、私たちキリストにある者たちは、結婚に於いて、他者を愛することに於いて、神に愛し抜かれている者として、神が向かいあい、正面にあって絶えず相対する存在として二人の人間を創造された原点に立ち戻ることを、婚姻の関係の中心に置かねばならないでしょう。
 とはいえ、罪をもって生きる中にはさまざまなことが起こってくる訳ですが、恋は感情でしょうが、人間同士の愛は愛するという意志をもって造り上げていくものです。愛するという意志をもって相対することです。結婚の形は現在はさまざまでしょうが、いずれにせよ、そのように互いを重んじ合いながら、自分を大切にし、尚且つ相手を重んじ生きる関係を造り上げることは神の御心でありましょう。

 しかし、イエス様が「離縁をしてはならない」と語られたから、キリスト教徒は離縁をしてはならないということを「規則」として、何が何でも婚姻の関係に縛られなければならないか、それはとてもデリケートで難しい問題だと思います。「神が結び合わせてくださったものを、人を離してはならない」とも、イエス様はマタイ19章で語っておられます。
 モーセに「気に入らないことがあったら離縁状を書いて妻を去らせる」ということを、定めさせるような、結婚という関係について乱暴な考えを持つ人たち、女性を所有物ですとか、自分と家族の身の周りの世話をする便利な存在と思ったり、他の女性に目を奪われたり、姦通の罪を犯したりする、また言葉と力の暴力を振るう、女性を虐待する、そのような人は現代に於いて後を絶ちません。純粋なクリスチャンの女性で、間違った判断の結婚をして、そのような状態に置かれて、でも「離縁をしてはならない」と言うイエス様の教えがあるから、また聖書は忍耐を語るからと、傷み続け、自分の尊厳を見失いながら、自分を犠牲にして、苦しみながら生きている人たちがあまりにも多いことを、女性である私は知っています。
 私は、イエス様はここでそのようなことを「忍耐せよ」とは仰っていないと理解しています。イエス様がここで、モーセの律法で「気にいらなくなったら離縁状を渡せ」という掟があるから、安易に立場の弱い妻、女性を離縁し、家から出してしまう、そのようなことが許されると思っているユダヤ人社会の男性に対して、またすべてのちょっと傲慢で自分本位の男性に対して「離縁してはならない」と警告をおられるのです。婚姻関係を粗雑に扱うな、神が人を愛しておられるように妻を愛しなさい、大切にしなさい、妻の人間としての尊厳を重んじなさい、そのように厳しく、男性に対して教えておられるのです。

 イエス様はとことん弱い立場に置かれている人の傍らにおられます。そのような人の味方です。私たちがもし、弱い立場に置かれ苦しむことがあるならば、主は共に居て下さいます。信頼し、祈り、主の憐れみと主の道を求めましょう。
 そして私たちは婚姻の関係は勿論、すべての人間関係に於いて、他者の命の尊厳を重んじ、他者の人格を重んじること、そのことを心に留めなければなりません。神が人間を愛して、その人格を重んじておられるように、この地に於いて、この教会の交わりに於いて、「互いに」尊敬をもって重んじあうことを心に留めつつ共に歩ませていただきましょう。