「真実の言葉で」(2020年8月23日礼拝説教)

民数記30:3
マタイによる福音書5:33~37

「天地神明にかけて誓います」
 テレビで観たのだったか映像のイメージと共に記憶に残っていますが、この言葉を聞く時、厳粛な感じもありつつ、どちらかと言えば「嘘っぽい」。人はこの言葉を自分の嘘や心の弱さを正当化するかの如く、時に慌てたような弁明の言葉に使うことがあるように思います。
 また「宣誓」ということで思い出すことは、学校の運動会の選手宣誓。私はその役目になったことなどありませんでしたが、これは誰に対して宣誓をしているのかな?と、思って聞いていました。私たちは日常の折々に、「誓う」「宣誓する」ということを、形式的な美辞麗句のように言葉に出しているのではないでしょうか。
 また、人が「神にかけて誓う」と言う時、「神を信じて畏れる」というよりも「神を恐れる」=恐がり、恐い神という存在を何となく覚えつつ、出来そうに無い事を「やります」と自分を奮い立たせるように、人に対しては大言壮語するように言う、内心、誓いを全うする自信がない・・・など、曖昧な気持ちのまま「神かけて」「天にかけて」という言葉を使うことがあるのではないでしょうか。
 
 今日のイエス様の言葉の中にある昔の人=旧約の時代の人々が「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と言い伝えられていた言葉とは、レビ記19:12の律法の言葉をイエス様は引用されたのだと思われます。正確な引用としてお読みします。「わたしの名を用いて偽りを誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」。また、今日の旧約朗読民数記30:3もそれに近いものでした。コヘレトの言葉5:3,4には「神に願をかけたら誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。願をかけておきながら誓いを果たさないなら願をかけないほうがよい」という言葉もあります。

 誓いというのは、社会生活の重要な場面において、自分の言葉が真実であることを約束し、相手側がその言葉に信頼を持ち得るようにするための一種の儀式と言えましょう。
 旧約聖書は「誓い」そのものを否定していません。いくつか「誓い」について肯定的に書かれているところがあります。「誓い」が否定されていない中、旧約の時代、またイエス様の時代も、口先だけの「誓い」「天、神にかけての誓い」というものが、形式的なものとして横行していたようなのです。そのような理由からでしょう、「誓い」が形式的な言葉だけになることに対して、聖書は警告を発しています。そしてイエス様は更に「一切誓いを立ててはならない」と厳しくここで言われるのです。
 更に言われました。「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。またあなたの頭にかけて誓ってはならない。」
 当時、実際に天、地、エルサレム、自分の頭というものを指して誓願をしていたのだそうです。
 しかし、「神」に対して誓ってはならないとはイエス様は仰っていないことは、注目すべきことだと思います。これは、「神の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の掟に由来していると考えられ、イスラエルの人々は、神、そしてヤハウェという神の名を呼び、神の名にかけて誓うということは、十戒の教えに背くこととなり、そこで神の名に代えて、天、地、エルサレム、自分の頭にかけて誓願をしていたということなのです。しかしそれらは神の名ではなくとも、神と深く関わる場所です。それらに対して誓願をしながら誓いの言葉がうわべだけの真実の願いのないものならば天、地、エルサレムが、汚されることになります。
 この中で「頭にかけて」というのはユニークな言葉ですが、イエス様は続けて「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである」と言っておられるのは、その髪の毛一本の色も含めて、私たちの体、そして私たちの存在は本来誰のものなのか、と問うておられるのでしょう。あなたは、自分の頭、自分の命にかけて誓うと言うけれど、その頭は命は誰に属するものなのか、それは本来神に属するものです。神は万物を創造され、私たちもお造りになられたからです。
 自分の頭に、また命にかけて誓うと言うことを人は口にすることがありますが、それは自分を誇ることに他なりません。神によって造られた存在であることを侮る、人間の傲慢な性質そのものということになりましょう。しかし「頭」も結局は、神に属するものですから、誓いが破られたならば、やはり神が汚されます。
当時の人々は、そのように「誓願する」ということが、かなり多かったのですが、その誓願は果たされることが少なく、安易な誓願は破られるばかりで、中身の無い上っ面だけの威勢のよい言葉だけが並べられ、実態が伴っておらず、威勢の良い言葉だけが上滑りをして、何も成ることがなかったのです。
 天や地、エルサレムを、自分を信用させるために利用し、誓願を果たすことなく神を「汚す」だけの、「虚しい言葉」ばかりが横行していた―イエス様は、それらの世のことに対し、「誓ってはならない」と語っておられるのです。

 ところでイエス様の「一切誓いを立ててはならない」というこの言葉を聞いて、牧師として、私は少し戸惑いを持つことがありました。なぜなら、教会は「誓約」ということを重んじて、形成されているからです。
 洗礼式では、「告白しますか」「願いますか」「志しますか」と牧師は三つの問いかけをし、それぞれに「告白します」「願います」「志します」と答えていただくことを求めて、教会はその誓約の言葉を宣言した方に洗礼を授けます。転入会も同様です。役員の任職に於いても誓約をしていただきます。また牧師自身も遣わされる教会に対し、誓約をいたしますし、教会員にも誓約をしていただいて、牧師を受け入れていただきます。また、牧師は牧師として按手礼を受ける時、自分の言葉で自らの決意を語り、また式文によって誓約をして牧師になっています。また結婚式に於いても、誓約はもっとも大切なことであり、誓約をするために結婚式をすると言っても過言ではないでしょう。
 教会共同体は、誓約という言葉によって、誓約の内容である言葉を実行することに於いて形成されていると言ってもよいのです。教会は、まことにイエス・キリストを信じている、という信仰の告白を基にして、神によって集められた人の群れ(エクレシア)であり、信仰の告白によって集う者たちの群れです。「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ロマ10:10)とパウロが語っているとおりです。
 そのように集められた人間の群れ、共に交わりに生きる場でありますので、信頼関係を保つために、常に言葉を交わさなければなりません。それが教会の「誓約」に結びついていきます。

 イエス様は更に言われました。「あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは悪い者から出るのである」と。他の訳では「はい、はい」、「いいえ、いいえ」と訳されているものがありますが、これは「誓います」と神を自分のために利用する言葉を発するのではなく、自分自身の心からの決断の言葉を発することをイエス様は教えておられるのだと言えましょう。
 教会の誓約は「天にかけて誓いますか」という問いでありません。「神と会衆との前」に「於ける」、自らの意志を、「然り」また「否」で答えることを求めているのです。ですから、例えば洗礼に於いての応答は、「(神にかけて)誓いますか」ではなく、「(あなた自身が)告白しますか」に対しての、「告白します」であり、「志しますか」に対し、「志します」と、問い掛けに対する「然り」=「はい」というその人自身の「然り」か「否」かを問うているのです。

 私たちは、神の御前に真実の心からの言葉をもって立っているでしょうか。
「言葉」とは、旧約聖書に於いてダバールというヘブライ語で語られますが、ダーバールとは、言葉だけでなく、その言葉は事柄となって表れていくという意味が含まれています。神は創造のはじめ、「光あれ」と言葉を発せられ、発せられた言葉によって「光」がそこに生じました。神の言葉は、その言葉のとおりに実現していく言葉です。神の言葉は「成る」のです。
 私たちは、このことにもっともっと信頼をすべきでしょう。また、私たちの誓約の言葉、また誓約に限らず日常の言葉が、神の言葉が真実であるように、真実のものとなっているかどうか問われているのではないでしょうか。

 御言葉に対し、私たちが本当に信頼をしきれない、どこかに「成るわけがない」という思いがあるとしたら、私たちの心にも、私たちが例えば教会で神と人の前で誓約をする時、信仰を告白する時、その「言葉」に対しての曖昧さ―「然り」と「否」が混在し、その言葉へのいずれ裏切りの心が残っている、そのようなことにも結びついて行くのではないでしょうか。

 また信仰を持ち、誓約をし、洗礼を受け、毎週礼拝で私たちは日本基督教団信仰告白使徒信条を唱えていますが、唱える言葉を信じ、すべて自分の心からの真実の言葉にしているでしょうか。ただ、自分自身の心に届かないまま、言葉の羅列を記憶していたり読んだりしているだけ、ということになってはいないでしょうか。「この言葉は信じられるけれど、使徒信条のこの部分はおかしいんじゃないか、ちょっと信じられないけれど」と、そんな思いを含みつつ口に出してはいませんでしょうか。
使徒信条は教会の伝承してきた信仰の内容を、短い言葉の中に凝縮されているものです。私たちは、告白をしている信仰の内容に「然り」であるか、ところどころに「否」と思うことがあるか、今一度、自分自身の信仰を吟味するべきでありましょう。「然り」であったり同時に「否」であったり、入り混じっているとするならば、私たち自身の信仰を今一度、しっかりと見つめなおす必要がありましょう。そして、疑問があったら、牧師に投げかけてください。
 イエス様は、私たちに、心からの真実の言葉を口に出すこと―教会の信仰に於いても、また日常の言葉に於いても―求めておられます。
 心からの真実の言葉を、心と態度が一致する言葉を口に出すことが出来るようになることを、願い求めたいと思います。

 ただ―ここにおられる多くの人生の経験を積まれた皆様には言うまでも無いことですが―口にする「真実の言葉」というのは、その時の自分の感情を口にしてそのままを誰かにぶつける、ということとは全く違います。時々、思ったことをそのまま口にすることが「素直」な真実の言葉だと思う方がおられます。(実は若い頃、私はそのように勘違いをしていたことがあったことを告白します)感情の言葉というのは、その時の揺れ動く心の一部分で、それは真実の言葉ではありません。揺れ動き、変わってしまう言葉であり、時に人を傷つける言葉です。
 真実の言葉を発するためには、沈黙し、祈り、神に問い掛ける、そのことが大切でありましょう。イエス様は、私たちが静まった心の中から、言葉を発し、発した言葉を真実に行うことを求めておられます。
「神に誓います!」というような闇雲に自分を盛り立てようとする心の憤りでも、感情から思いの丈をぶつけるという言葉でもなく、最後には「然り」か「否」か、肯定か否定か、だけが残ることでしょう。
然りと否が混在したまま無責任な言葉を並べるのではなく、自分自身の心と目の前の状況を、沈黙と祈りのうちにしっかりと見極め、「然り」また「否」を言葉にし、自分自身の発した言葉をそのままに、真実の言葉と心をもって神と人との前に立ち、発した言葉を為すことが出来るようになりたいと願います。そのような言葉は、神と人、人と人との和解の言葉となるに違いありません。