「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(2020年9月6日礼拝説教)

イザヤ書53:7
マタイによる福音書5:38~48

 何かのきっかけで、人に対して怒りや憎しみのようなものが込み上げてきて、自分の敵のように思えてしまう。そこまでではなくとも、ある人の小さな言葉が心に引っかかり、いつまでもそれが離れず、ひとりの人のことが不快な思いとして悶々と気になり続ける―人はそのようなことをしばしば経験します。そして自分のその心のままに、ひとつのことに拘り続けて怒りを持ち続けるならば、やがて小さな出来事が自分の中のすべてのように思えて来て、どんどん心が澱み、暗闇に心が支配されるようになっていく ということが起こって来ます。それらの感情の矛先となった人が更に、先に憎んだ人を憎み返し。同様の態度を取ったならば、陰湿な終わりの見えない争いになってしまうことでしょう。
 イエス様は、そのような人間の心と罪の性質いうのをよくご存知なのだと、今日の御言葉を読んでつくづく思わされます。

 山上の説教は、モーセの律法に代わる新しいイエス様の戒めと言ってよい教えです。イエス様は5:17以降、律法の言葉を語られ、律法を受けた人間の心の過ちを正す言葉を語り続けておられます。今日お読みした御言葉で引用されている旧約の御言葉は、「目には目を、歯には歯を」、「隣人を愛し、敵を憎め」という教えです。
「目には目を、歯には歯を」は、出エジプト記21章、レビ記24章、申命記19章に語られる言葉ですが、「隣人を愛し、敵を憎め」という教えそのものは、引用出来る御言葉は旧約聖書にはありません。「隣人を愛し」という言葉は、レビ記19:19にありますが、「敵を憎め」は無く、聖書全体を俯瞰した上での、おそらくは当時の人々に言い伝えられていた伝承なのではないかと思われます。

「目には目を、歯には歯を」という律法は残酷な報復に思えますが、これは同刑報復法と呼ばれ、古代メソポタミア、ハムラビ法典にも見られるものなのですが、人間は損害を与えられた相手に対し、過分の復讐をする衝動にかられるような心の罪を持っているのではないでしょうか。映画の中などによく出て来そうですが、目に傷を負わせられたら、その怒りは増大して、その仲間が大挙してあだ討ちと言いましょうか、命を奪いに行くことにまでなり兼ねなません。
 そのような人間の衝動に対して、受けた以上の報復をしてはならないという戒めであり、旧約で語られる三つの箇所(出エ21、レビ24、申19)をよく読めば、人間のエゴイズムを刑法によって防ぐ手立てとしても読めます。この世の秩序が保たれ、あだ討ちが無制限にエスカレートしないための知恵とも言えましょう。
 その同刑報復法に対して、イエス様は「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着を取らせなさい。」さらに「だれかが、一ミリオン行くように強いるならば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」
 報復するのは完全に止めて、自分に損害を与える者に、更に与えなさい、そのように仰るのです。

 この言葉を聞いて、戸惑います。戸惑うからこそ、この御言葉は聖書をよく知らない人にも、どこかで聞いて心に残っていて「その教えは自分には到底守り得ないので、クリスチャンにはなれません」という方がおられるのです。
 私も今でも、「私は主にふさわしいのか、ましてや牧師・・・」と尻込みしそうになるイエス様の御言葉です。そして、常に今日の御言葉と格闘しているようにすら思えます。事ある毎に、「敵を愛しなさい」―「敵」という思いはないですが、心に掛かることがあると、イエス様のこの御言葉が胸に過ぎり、この状況で自分はどのように振る舞い、何を為すべきかを考え込んでしまうのです。そして、御言葉に従う、ということを絶えず心に刻まされて信仰が鍛えられます。それほどに、私の、いえ恐らくは私だけではなく、自分の罪を認めるならば、信仰を持って生きる中で、私たちの心にとって身近な御言葉と言えるのではないでしょうか。

 イエス様の仰ることをひとことで言えば、無抵抗。無抵抗に加えて、更に相手が理不尽なことを望むならば、さらに増して理不尽なことをもっと与えよとイエス様は仰るのです。
 暴力的になり、理不尽なことを言い、そしてそれを強いる人、また奪う者は、その時恐らく心が猛り立っていることでしょう。若しくは静かに沈殿する悪意に燃えていることでしょう。
 その怒りの元は、勿論怒りを受けている人に完全にある、復讐をされるほどにどうしようもなく酷いことをしたという場合はあります。聖書は「罪は償われなければならない」ということについて、徹底しています。
しかし、私たちの何気ない日常に於ける「復讐心」というのは、受ける側にあるというよりも、怒りを持つ人自身に問題があることの方が多いのではないでしょうか。自分の内側の問題を自分自身の問題と捉えられず、人になすりつけるように、人のせいにして怒りを持ち続ける、そのようなことがありえます。―イエス様は、人から憎まれましたが、それは人の嫉妬心や自分を脅かす存在と恐れられるという理由によりました。そのような人の前に、同じ心にならずに毅然と静かに立て、とイエス様は仰っておられるのです。

 もし私たちが右の頬を打たれたとして、やり返さず、静かに立ち、もう一方の頬をその人に向けたならば、その人はこれ幸いと打つでしょうか?静かに立つ沈黙の姿に一瞬怖気づきはしないでしょうか。沈黙の態度には気迫があります。その後、左も打つかもしれませんが、もしかしたら、ほんの少しの罪悪感、罪の意識が残るのではないでしょうか。
訴えて、下着を取ろうとする者に、静かに「これも」と言って敢えて上着を脱いで差し出したならば、相手は大喜びするでしょうか。一瞬ぎょっとするのではないでしょうか。そわそわしながら鼻息荒く受け取るかもしれませんが、やはり何らかの「怖さ」が残るのではないでしょうか。
 一ミリオン行くように誰かが強いるなら―この強いるという言葉は、新約聖書であと一箇所、具体的には同じ事が書かれてあるマタイマルコの二箇所ですが、イエス様の十字架への道行きで、「キレネ人シモン」という人が、イエス様の十字架をローマの兵士によって「無理に背負わせられた」という出来事がありますが、「無理に背負わせた」この「無理に」という言葉として使われています。イエス様の十字架への道行きの苦難、そしてイエス様の「十字架を担う」ということと大いに関わりのある言葉としてここで使われているのです。
 無抵抗ということを考える時、イエス様の逮捕から十字架への苦難の時、イエス様は唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれても、不利な証言をされても、葦の棒で頭をたたき続けられても、どれだけ侮辱されても、それを受け入れておられた、そのことを思い、悪人に手向かわなかったのは、イエス様ご自身だったことを覚えます。
 そして私たちが、理不尽な屈辱を受けることがあり、その時、私たちが主のこの御言葉を思い起こすならば、その時、イエス・キリストが共に居て下さることを、私たちは覚えるべきでありましょう。主は言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。
「無抵抗」を教えるこの御言葉を過剰な戒めとして捉えることは、時に判断を誤ることもあるとも思え、私たちは御言葉の前にひたすら謙遜に、賢く立つことを覚えなければなりませんが、主の忍耐と静けさを私たちが主と共に保つ時、憎しみの増幅ではない、神の働きが、対峙する人との間に必ずあることを信じたいと思います。

 更にイエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられました。
「敵を愛す」―何と難しいことをイエス様は仰るのでしょうか。そもそも「敵」とは誰のことでしょうか。
 47節に「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」と語られておりますので、同じ信仰を持つ兄弟を愛して、同じ信仰でない人を憎むと読むことも出来ましょう。その場合、信仰を別にする人々をも愛し、その人々のために祈りなさいと主が教えておられることになります。それも尊い教えです。イエス様はすべての人をご自身の救いに入れようとされておられるのですから、主を知らないすべての人を、私たちは大切に愛するべきです。
 しかし、信仰の問題ではなく、私たちの日常の中に現れる「敵」。
 意見の違いなどで対立の状態にある人、「ああこの人がいなければ、すべてのことはスムースに進むのに」と思えてしまう人、過去にあっても心に思い当たることはありませんでしょうか。
 人は考えの違い、意見の違い、多様性があります。私たちは自分の考えを「絶対」と考えがちです。違ったものを受け入れることがなかなか出来ないかたくなさがあります。
 聖書には人は「神の形に作られた」という人間に対する大前提があります。いろいろな言い方が出来ましょうが、これは神が人格があるお方であるように、人間ひとりひとり、人格、尊厳をもって造られたということが第一に言えます。
 それぞれが人格があり、尊い存在。そして、顔も姿も違い、心もそれぞれ独自のものです。他者は自分とは違う、しかし、神に愛されている存在であること、神が救おうと願っておられる人であることを、私たちを迫害する「敵」であっても、そのことを、その人の神から愛されている人格を、私たちはまず認めるべきではないでしょうか。
 しかし、酷く醜く人を迫害する人もいることは確かです。私たちを狂おしいほどに、人生を狂わせるほどに苦しませる人がいることも確かなことです。
イエス様は、ユダヤ人はじめ、多くの人々から迫害を受けられ、罵られ、十字架への道を歩まれました。
 しかし、そのイエス様は言われるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と。そして、主はその言葉をご自分のものにされました。十字架の上で主は祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と。

 私たちは自分のこと、また大切な人たちのことは、まず熱心に祈ります。祈る時、次々に心の思い浮かぶ顔がありましょう。しかし「この人のことは祈れない」また、始めから祈る対象として認識をしていない、そんなことがこれまでにありませんでしたでしょうか。
 イエス様は、そのような人のことこそ祈りなさい、と言われます。それは「あなたがた」「わたしたちが天の父の子となるためである」と言われるのです。
 
 詩編に於いて、「敵」に対する祈りが多くあります。詩編は祈りの言葉です。私たちの教会では詩編交読を1~150編まですべて交読していますが、しばしば「唱えにくい」と思えるほど、他者に対する呪いの言葉がちりばめられている祈りがあります。でも、ほとんどの詩は、呪いの言葉を語りながらも、いつしか同じ詩の中で心が変えられて、神への信頼と賛美に変わっていくのです。
 私たちの「敵」に対する祈りは、神に対して「その人をお救い下さい」と祈るだけではなく、まずその人と私の関係をあからさまに神に委ねる、そういう祈りをささげる時があっても良いのではないでしょうか。詩編がそうであるように。
私たちの祈りとは、神に私自身を明け渡すこと。神に自分自身の心をすべてお委ねすることが祈りのひとつの姿であるからです。
「敵」に対する祈りは、イエス様の祈られたように「お救い下さい」と祈ることが出来るならば、それは為すべきです。神は喜んでその祈りを聞き届けてくださいます。しかし、どうしても祈れない、そのような時には、ありのままを明け渡すのです。
 ありのままを明け渡した時、その祈りも主は聞いていてくださいます。そして祈りの中に聖霊が働かれ、私たちの祈りを聞き届けられ、祈りを導かれ、必ず新しいことが拓かれていくことでしょう。
それは赦しの道。しかしまた時に「離れる」ということも示されるかもしれません。テトスへの手紙3:10に、「分裂を引き起こす人には、一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい」という御言葉もあるからです。

 人間同士の関係には苦労がありますが、祈ったことは、神は必ず御心に留められます。祈りは神を動かす力であるからです。祈ったことは、祈ったとおりにたとえならなくても、祈ったことで起こってきたことは、それが神の御心であると私たちは信じて、引き起こされたことには忠実にふるまい、また更に神の御心がなることを求めて祈り続けるべきです。

 祈ることによって、私たちは神から平安と心の癒しをいただきます。祈りには聖霊なる神が働かれます。そして何にせよ、神の御心が顕され必ず状況は変わって行きます。そして、私たちの「敵」と思われる人も、もともと神に愛されて造られたひとりの人であり、更に祈りによって神の御手のうちに入れられており、いつしか「時」を与えていただけることでしょう。神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方であるからです。そのようにして、神の国の福音は、私たちを基にして広がって行きます。

 天の父の子と私たちがまことにしていただくために、祈りましょう。絶えず、どのようなことも嘆きも苦しみも悲しみも、人への恐れも、憎しみも。
神はそれらを受けとめ、御心をへと導いてくださいます。そして、いつしかそのようにしか祈れない私たちをも、心から自らを悔い改め、他者を重んじ、まことに愛することが出来る人、まことに「敵」私たちを虐げる者への祈りをささげることが出来る人に、聖霊によって変えていただけることでしょう。