「隠れた祈りこそ」(2020年9月13日礼拝説教)

ダニエル書6:11
マタイによる福音書6:1~8
(敬老感謝として)

 歳を重ねる毎に、過ぎてきた時間の記憶が増えていくことをおぼえつつ、今の年齢を生きています。年齢を重ねて行っても、内面はそう変わっていない。子どもの頃は「大人になったら泣くことも悩むこともきっとない。40歳になったら惑うこともなくなるらしい」、そんな風に、伝え聞く言葉と共に、涙を見せない私の周囲の大人たちを見て思っていたのですが、歳を経ている今、さまざまな感情や思い、葛藤は、若い頃と変わらずあり、また静かに深くあることを憶えています。そして、歳を重ねることは、たくさんの愛する人たちを、先に天に送り続けながら、持っていたものをひとつ、またひとつ手から放しながら、でもたくさんの思いを若い時よりも多く持ちながら、生かされているのだということを思っています。
 歳を重ねるということには、そのような側面もありつつも、尚且つ教会のご高齢の方々は、子どものように心が躍動していらっしゃる方がとても多いと思います。皆さん、無邪気な子どものように感じることがあります。
イエス・キリストの復活を記念する日曜日の朝ごとに同じ主を礼拝し、またここに来れば会うことが出来る主にある友がいること。交わりと共に、聖書という極めても極め尽くせない、人間をはるかに超えた神の言をいただいていること。御言葉という汲めども尽きぬ、命の泉を私たちがいただいていることは、私たちの魂を奮い立たせ、また知識への欲求も尽きないものにさせていただけており、私たちをいつも好奇心いっぱいの若さに溢れさせていただいていることを思っています。
私たちは、信仰によって神の霊、聖霊を私たちの内にいただいています。年齢を重ねて行って、体の不調を憶えることもありますけれど、そのような時こそ、イエス・キリストが弱い私たちと共にいて、励ましてくださり、私たちを最期の一時まで主を深く知るものとなるように成長させてくださることを信じています。私たちの内側には、復活の主から与えられる聖霊が共に居てくださり、私たちを日々新たに生かしてくださっているのです。
悲しみの中にあっても、これからどうなるのかと不安の中にあったとしても、体が弱くなっていくことを感じることがあっても、主の復活の命が私たちのうちに生き生きと躍動してくださり、私たちを内側から強めてくださいます。
 皆様のうちに、主にある若々しさ、心身の躍動が、主にある命が、これからも主の祝福と共に豊かにありますことを祈っています。

 今年は新型コロナウィルスによって、私たちのこれまで「あった」生活、さまざまな習慣、楽しみの多くが失われておりますが、いつもと違う生活を強いられる中、私も休日をひとりで家で過ごすことが多くなり、さまざま自分自身を振り返ったり、本を読む時間が少しだけ増えています。そのように自分自身を振り返る中に、今日の御言葉が、私の少女時代にあったことを思い出しています。今日は、私自身の心の経験をお話しすることが多くなりますが、お許しください。

 私は聖書を小さな頃から読みたくて、何度か試みてはマタイの冒頭の系図であっけなく挫折をしていたのですが、小学5年生の時、少しだけ読み進めて遂に6章まで進んだのです。今でも、読んだ時の驚きを鮮やかに覚えています。
そして今日の御言葉は、私自身を大きく変えた特別な御言葉となりました。しかしながら、聖書を子どもの心と知識のままに誰にも教わらず理解したため、後の生き方に対して多くの弊害もあったことを憶えますが、とにもかくにもこの御言葉が、私に罪の気づきを与えられて、初めて自分自身を御言葉による変革へと向かわせられた御言葉となりました。
 子ども心に、私の心には何か良いことをすることがあるならば、人にそれを見てもらいたい、褒めてもらいたいと言う思いが多分強くあったのです。
 そんな子どもながらに「姑息な」思いを秘めていた私は、今日の御言葉を読んだ時、神様に心の内側を見られて、叱られたような思いに初めてなり、大いに悔い改めに導かれたのです。「偽善者」という言葉が私に向けられた言葉に思えて突き刺さり、自分の心のあり方を、その先いつもこの御言葉に照らし合わせながら、確かめながら生きるようになりました。
「自分の心が心の底から綺麗になる」ことを求め始めました。本心からの善い行いというのはどういうことなのだろう?と事あるごとに考えるようになり、何かを為そうとする時、心の底からの突き上げられる無償の思いではない、いつも何か別の瘡蓋のようなものがはりついていることに苦しみました。
「偽善者」になりたくないばかりに、時に「偽悪的」に振る舞うような過ちを犯したこともありました。―そんな態度が今も残っているような気がして、それはそれで今なんとかせねばと思っているのですが―内側にある悪いものを出し尽くしたら、いつか無くなって綺麗になれるのではないかと思ったりしました。でもどこまでも心の内側から芽生えてきて、なかなか無くならない姑息な思いや心の汚さに、自分で自分が嫌になるほどでした。
この心の経験から、パウロがロマ書7:18で語る「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」という御言葉は、自分の実感として深くあります。

 もう少し先の6:18には「隠れたところを見ておられるあなたの父が報いてくださる」という御言葉がありますが。6:1~18まで、「主の祈り」を含みつつ、ひとまとまりとして一貫して、施し、祈り、断食というユダヤ教の伝統に根差した、典型的な三つの善行について、それらをどのような心で行うべきかを語られます。
まず施しについて、「人の前で善行をしないように注意しなさい」「施しをする時には、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」、「さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と語られます。イエス様が語っておられることは、その心は誰に向かっていくのか、ということでありましょう。人間は、神の戒めを行う言いながら、(私だけでなく)「人に見られる」ということ、人から賞賛を得ることを求めることが先にたち、行動をするということがままあるのではないでしょうか。
「自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」というのは、面白い言葉ですが、ユダヤ教では、ラッパの合図は喜ばしい施しの合図だったそうです。毎年畑の収穫が完了する7月はじめ、ラッパを吹き鳴らして、喜びの礼拝と貧しい人たちへの施しの時が来たことを告げたそうです。そのようなことから、自分の前でラッパを吹き鳴らすということは、「これから私は善行、施しを行いますよ」と、町中に伝えて自分自身をひけらかす合図となることにもなっていたようなのです。
 更にイエス様は「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と厳しいことを言われました。これは、良いことを右の手で行ったとしたならば、それを自分の左の手に伝えるまでもなく忘れなさい、ということなのではないでしょうか。もし善行を、施しをすることがあったならば、いつまでも心に留めておいてはならない。人に教えたがるだけでなく、自分のもう片方の手にそれを教えるということは、自分の誉れを自分のうちで大きくすることに他なりません。
 見返りを求めず為した施しを、神は見ておられます。罪深い「私」が心からの業を為し、自分の片手の行ったことをすぐに忘れるように心からの善い行いをしたなら、誰も見ていなくても、父なる神がその人をご覧になっていて、報いてくださると、イエス様は言われるのです。

 また、祈る時、ユダヤ人ファリサイ派の人々は、会堂や大通りの角に立って、大きな声で祈っていたことをイエス様が語っておられます。そのように、自分が敬虔に神の前に祈っている姿を人々に見せたい、神への祈りに於いてすら、人からの賛辞を受けたいがために、祈る姿を見せびらかす人々―イエス様はその人々をも「偽善者」と呼ばれ、「既に報いを受けている」と厳しい言葉を語られました。さらに、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と。

 父なる神は「隠れたところにおられる」、イエス様はそのように仰いました。私たちには神は見えません。私たちにはそのお姿は隠されているけれど、神は祈りを聴いていてくださるのです。私たちは強く祈りたいと願う時、礼拝堂で神に近づきたい、そのように願うこともありましょう。礼拝堂は特別な場所ですので、ここで静まり心を注ぎだすことも大切なことです。しかし、イエス様は神は「隠れたところにおられる」、さらに「隠れたことを見ておられる」と仰るのです。
 祈りはどこででもささげられるものです。通勤電車の中でも、私たちは神に心を向けることが出来ます。会社員の時代、鮨詰のように混み合った電車で、眼を閉じて、心をひたすら神に向けることは、私にとっての「逃れ場」になっていたことを思い出します。誰にも知られず神に心を向け、祈ること、家族と暮らしていれば、なかなか「奥まった部屋」など無いかもしれませんが、私たちは人に知られず、神に祈ることがどこにあっても出来るのです。「隠れたところにおられる父なる神」が、そこに居てくださいます。

 更に「異邦人のようにくどくど述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない」とイエス様は言われました。
 異邦人というのは、誰が神かも分からないまま、願い事だけをくどくどする人たちのことでしょう。
 5年生だった私は、この御言葉も心に刺さりました。確かに私はくどくど祈っていたのです。「クリスマスプレゼントにはあれとあれとあれと・・・欲しい」のようにそんなことばかりを長くだらだらと。
 私はそのことも叱られたような気がしました。そして、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」という言葉を読み、「神は私たちに必要なものを祈る前から知っていらっしゃる」ということに衝撃を受け、教会に行っていなかった私は、その時以来、自分の言葉で祈ることを止め、この次に教えられている「主の祈り」をすぐに覚えて、それだけを祈ることを、何と25歳で教会に足を踏み入れるまで10数年、毎夜続けていたのです。青春期、忙しく、誘惑も多い時代でしたが、「主の祈り」を祈ることだけは続けていました。そして教会の礼拝に初めて出席した時、「自由祈祷」があったことに、何より驚いたのです。笑いごとに思えますが。
それにしても「神は私たちに必要なものを祈る前から知っておられる」この言葉は衝撃でした。私は教会に行っていなかったがために、教えてくれる人がないままに聖書を自分で勝手に解釈したために、大きな間違いを犯しました。どこか「運命論者」になったようなところがありました。「必要なことを神がご存知で与えてくださるなら、一体私たちの願望や努力はどうなるのだろう?そんなものを持つことは無駄なんだろうか?」そんなことまで考えていました。そんなことを考えながらも、いろいろやりたいことを人一倍やっていたようにも思えますが、勝手に解釈をした御言葉が、どこか自分自身にブレーキを掛けていて、「もう一歩」頑張ることを怠った、そんな後悔が実はあります。とても恥ずかしい心の問題でした。でも、きっとそんな過ちも、主は益として今用いてくださっているのだと思っています。

勿論主は、私たちに必要なものをご存知です。ですから、主の祈りには「わたしたちに必要な糧を今日もお与えください」という祈りの言葉があるとも言えましょう。しかし、例えばヤコブの手紙5章に「主にいやしていただくために、罪を告白しあい、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(5:16)という御言葉もあり、これは自分の言葉で願い求めることを、語っている御言葉です。
私たちの祈りは主の祈りと共に、私自身の訴えを、人に祈りの態度をひけらかすのではなく、「隠れたところ」で神に自分自身を明け渡すのです。祈りは私たちと主なる神、イエス・キリストとの人格的な深い交わりの場所です。ひとりで、隠れたとことでこそ出来得る神との親しい交わりです。私たちは隠れたところで、神に自分の思いも願いも悲しみも喜びも、すべて神に明け渡し、また隣人のために祈るべきです。隠れた祈りを訴えを神は喜んで受け入れてくださり、祈りを通して私たちに御心をあらわしてくださいます。

コロナ禍で、また高齢となられ、家にいることが多くなった私たち。今こそ、神へ深く祈る時です。礼拝のことを英語で「サービス」と言いますが、これを日本語に直訳すれば「奉仕」となりますね。礼拝は神への最大の奉仕であり、またひとりでささげる祈りも、神へのサービス「奉仕」となり得ましょう。
礼拝、そして祈りを通して、神は私たちを養い育て続けてくださいます。ひとりの家は、神への祈りの場所。祈りによって深く神と交わりつつ、内側からの日々新しくされる聖霊によって力づけられ、主にある喜びと共に、歳を重ねることの恵みを受けることと共に、この週も歩ませていただきましょう。