「神の国を受け継ぐために」(2020年9月20日礼拝説教)

申命記17:8~9
コリントの信徒への手紙一6:1~11

 コリントの教会はパウロ自身が造り上げた教会ですが、教会の中は多くの問題が起こっていました。それらの具体的な問題に対し、パウロは厳しい言葉を語り続けています。
 4章では教会の富んでいる人たちの心の高ぶりの問題。
 5章では教会内でみだらな行いをする人がいたけれど、教会はそれを見て見ぬふりをしてそれを放置していた問題。
 日本基督教団教憲教規には「戒規」という項目があり、教職も信徒も、「相応しくない」事柄が何某かあった場合、滅多にあることではありませんが、そのまま放置すれば教会内に悪いパン種が広がり、教会の秩序が保たれないと思われる問題が起こった場合、「戒告」「陪餐停止」「除名」という対応をすることが可能とされています。それらを許す項目は、5章のパウロの言葉によることが大きいと思われます。しかしコリントの教会は、教会の中に悪いパン種が入って全体を侵食しようとしているにも拘らずそれを取り除くことをしませんでした。
 そして今日の6章では、5章で悪いパン種を放置して問題としなかったにも拘らず、教会内部で、信徒同士の間の問題―8節に「奪われるままでいないのです」というという言葉があることから、何らかの金銭、財産の絡む問題であったと考えられます―が起こった時、その問題を世俗の裁判に訴えて解決しようとしていた、そのことに対し、パウロは教会内の問題を「聖なる者たち」に訴えず、何故世俗の裁判に訴えるのか、何故自分たちの間で信仰による解決をしないのか、そのことを問題として語るのです。
 間違えてはいけないことは、これは教会内の問題についてです。パウロ自身、使徒言行録25章などによれば、世に於いて信仰そのものの存亡にかかわる場合、ローマ皇帝に上訴しているところがあります。私たちは世に生きており、世の基準で諮らなければどうしようもないことは多くあります。そのことは念頭に置きたいと思います。

 旧約の民の末裔であるユダヤ人は、自分たちの間で起こった問題を、会堂=シナゴーグの長老の前で解決する習慣を持っていました。ユダヤ人にとって、信仰と生活はひとつですので、会堂=シナゴーグは、神を礼拝することのみならず、人々の間の問題を裁き解決する役割も担っていたのです。
 しかし、コリントの教会には、ユダヤ人だけでなく、多くの異邦人と言われる人々がおりました。ローマ帝国に居住するギリシア人たちは、歴史的に訴訟を好む人々であったとのことで、訴訟はギリシア人の生活にとって日常茶飯事の出来事であったそうです。その伝統のようなものを引き継いでいる人々が教会の中に居たのです。
そして、教会員の間の恐らくは金銭問題を、教会外のローマの法廷の裁判の裁きに委ねるということが起こっていたのです。
 パウロはこのことを聞いて嘆きつつ、まことの裁きとは、終わりの時、神が人々を裁かれるという信仰の真理と関連付け、すべての人が神の裁きの前に立たされる時、既に神の支配のうちに入れられることが約束されている「聖なる者たち」の群である教会と、その内に入れられている人々に、教会員同士の問題を訴え出ないで、何故、世の裁きに聖なる仲間を訴え出るのか、とこの問題を教会と信仰に於ける大きな問題として捉え語るのです。
「聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません」と。

 想像してご覧になってください。同じイエス・キリストを主と告白するこの教会で、教会員同士の問題が起こったとします。不義・損害を受けたこの教会の一人が原告となり、奪い取るこの教会の一人を被告として、教会の役員会に訴えるのではなく、千葉地裁に訴え出て法廷で争った、そのような出来事です。このことが起こったことを想像すると、教会内が大いに混乱することを思わされます。
 パウロは申します。「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間で裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」と。
 このパウロの言葉に対して、私たちの教会はパウロの望む教会のあり方が、今恐らく「ある」ことを皆様に感謝しています。教会のさまざまなことを、役員はじめ重荷を担って下さり、教会と牧師をしっかりと支えてくださる方々がおられます。そのことを覚えつつ、この先にも、道を間違うことがないためにも、改めてこのパウロの言葉をとどめておきたいと願うものです。
 教会内の問題が起こったならば、それは、教会の対話の中で解決すべきものです。なぜなら、キリストによって召し集められ、イエスを主と告白した者は、既に終わりの日の裁きの座に於いて、「聖なる者」と既にされており、「天使」さえも裁く者であるとまで、パウロは語るのです。
イエス・キリストを信じて、キリストの内に入れられ生きる者とされているということは、同じ一コリント3章によれば、この体は、「神の霊」がこの体に住んでくださる「神の神殿」であるとまでパウロは語っています。神の神殿であるならば、天使とは、神の働きをなす存在ですが、そのような天使すら裁く者であるのだから、教会で起こった問題は、教会内で解決しなさいとパウロは語るのです。

 更にパウロは申します。「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、奪われるままでいないのです」と。
 それは、同じパウロが書いている「ローマの信徒への手紙」12:17~19「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしがすること、わたしが報復する』と主は言われる」という御言葉と関連づけられましょう。
 そして申します。「正しくない者が、神の国を受け継げないことを、知らないのですか」と。

 このような問題、現代の教会でも同様のことが起こり得ています。実際教団や教会の中には、内部の問題を地裁に訴えて判決を受けたものがあることを知っています。人間的には事情と気持ちは分からないでもないですが、でも、このパウロの言葉を神の言葉と信じるならば、「奪われるままにする」こと、何より教会内で解決すること、「神の裁きに委ねる」ことが神の御心と言えましょう。

 パウロは語ります。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲なもの、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪うものは、決して神の国を受け継ぐことは出来ません」と。
 これらパウロの言葉の中に、「同性愛」に関することが含まれており、現代的には人権問題にもなり兼ねない、そのままの適用は難しいと思えることも含まれていますが、ここでパウロが語る意味は、いわゆるジェンダーの問題としてではなく、人間の奔放な生まれたままの罪の状態の中にある、自己中心的な欲望と捉えるべきでありましょう。しかし、今は信仰によってそのような状態にあった人たちも、主のものとなっている、そのことは「あなたがたの中にはそのような者もいました」という過去のものとしてのパウロの言葉から分かります。そのような人でかつてあったけれど、イエス・キリストの名を信じるあなた方は、その信仰によって既に赦され、神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされている=神と結ばれ、神共にある者とされている、だから、世に於いて、すべての裁きは、終わりの時、主に委ねなさい、そのことを励ましとして、また戒めとして、パウロは語っているのです。

 イエス・キリストを信じる者は、既に神の国を受け継がせていただいています。
しかし、今日のパウロの言葉は、たとえキリストを信じて洗礼を受けて、主に連なる者とならせていただいたとしても、「そのままではいけない」ということを含んでいます。信じる者となってからの「あり方」が厳しく問われ、また、一度は信じても、再び罪のうちに身を投じ兼ねないことも、パウロは戒めとして語っていると言えましょう。
 パウロは「人は行いによるのではなく、信仰によってのみ救われる」という所謂「信仰義認」を語る人ですが、信仰とは成長させられるべきものです。
 イエス・キリストの名を信じる私たちは、信仰によって神の国を受け継ぐ者とさせていただいたことは確かなことです。しかし、神は憶えていてくださっても、人間の側は主をないがしろにし、忘れてしまうということが起こります。
ですから、私たちは主のご復活を記念する日曜の朝ごとに、集い、神を見上げ、礼拝するのです。週の初めの日ごとに、私たちは神の国を受け継ぐ者とさせていただいていることを確認し、神を喜び賛美するのです。
 洗礼によってキリストのものとされた民は、世に於いて、礼拝で養われる民とならせていただきます。そして礼拝と共に、主にある教会の交わりに於いてひとつとさせていただき、礼拝を通して共に生きる民とさせていただきます。問題が起こったとしたならば、まず互いに自分自身を省み悔い改めることから始めて、共に生きる交わりの中で、誠実に解決することに務めるべきです。

 そして歩み続ける中、思いがけない神の御業が時に私たちに顕されて行くことでしょう。神の国が私たちのうちに到来していること、私たちは神の支配の中にあることを、知ることが出来ることでしょう。
 礼拝、そして共に生きるこの信仰の交わりを大切に歩ませていただきましょう。 まことの裁きは神のもとにあるのです。