「カインとアベル」(2020年11月8日礼拝説教)

創世記4:1~16
ガラテヤの信徒への手紙6:14~17

「カインとアベル」。はじめの人、アダムとエバの最初の子どもたちの出来事です。と言いますか、人類で最初に「人間と人間との間に生まれた子どもたちの出来事」と言った方がよいかもしれません。
 神から人間へのただひとつの命令「善悪の知識の木から決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われていたことを、蛇の誘惑にそそのかされるままに、アダムとエバが食べてしまったがために、神と共にいた楽園を追放された後、起こった出来事のはじめです。
 彼らは「木の実」を食べても死ぬことはありませんでした。死ななかったのは、神の憐みではないでしょうか。しかし、アダムとエバは、神の憐みによって死ぬことなく生かされたにも拘らず、主に対して、言い訳と互いに責任転嫁をすることに終始して、悔い改めることが無いままにエデンの園を追放されたのです。
そして自分の罪が分からないまま、労苦して生きることが始まったのです。

 エバは身ごもり最初の子カインを産み、わたしは主によって男子を得た」と高らかに叫びました。
「主によって男子を得た」という言葉は、神への感謝と賛美の言葉かと思いきや、原語からの読み方によれば、「神に協力して最初の子を形づくった」と、あたかも神とエバとの共同作業のように聞こえる言葉にも読めます。そう読むならば、エバが神の位置に立っているようにも読めるのです。エバはカインを出産した時、あたかも自分自身を神に近いものと位置づけた、そのような意味で、「わたしは主によって男子を得た」と語っているのであろうと思われます。
 聖書の中で、自分を誇り、神を超えようとする人間の姿が多く見受けられます。このエバの言葉もそれに類するものであり、自分を神の位置に高め、自分の誉れを求める、深い罪の世の出来事がこれから始まることが暗示されているのです。

エバの産んだ子は「カイン」と名付けられました。「カイン」という名前は「鍛冶屋」を意味する名前です。そして、弟が生まれ、アベルと名づけられます。これは儚いもの、すぐに消えてなくなるものという意味であり、「空しい」と訳される言葉でもあります。聖書に於いて「名前」はその人格を表すものですが、カインの子孫から文明が始まって行ったことが、今日はお読みしませんでしたが、4章19節以降に記されてあり、カインという名前は世の文明を表すような名前と理解出来、アベルはその生涯の儚さを象徴する名前と思われます。

 カインは土を耕す者となりアベルは羊を飼う者となりました。
「時を経て」、カインは自分自身が耕した土の実りを主への献げ物として持って参りました。弟のアベルは自分が飼っている羊の中から、肥えた初子を持って来て、主への献げ物としました。
 主はこの時、アベルとその献げ物には目を留められましたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。アベルの献げ物とアベルに対しては、神は喜び受け取られ、カインとその献げ物は受け取られなかったのです。

 私にとってここで語られる「主の振る舞い」は、長年混乱を感じずにはいられない事柄でした。カインは自分で汗を流して地を耕し、精魂こめて作り上げた農作物を持ってきたのに、神に献げ物を省みられず、アベルは勿論大切に育てた羊には違いないのですが、自分の育てた羊の初めての子、肥えた若く美しい羊を持って来て献げた―寧ろ、カインの農作物の献げ物の方が、労力が多く、麗しい地の実りに思え、またアベルの献げ物は、若く美しい羊を神に献げるということは、それを殺して燃やし尽くすということでありますから、何とも残酷で痛ましいものと感じられ、この神の振る舞いということに違和感と抵抗を覚えずにはいられませんでした。
それと共に、何故精魂込めて造り上げたものを、ふたりとも同様に献げた筈なのに、これほどの差が与えられることが聖書に記されているのか、主なる神、というお方に対して混乱を覚えるものでした。

このことを紐解く鍵は、聖書は後の世の人間社会を見据えていることにあるのではないかと思われるのです。
肥えた羊の初子を神に献げたアベルは遊牧民であり、地の実りを神への献げ物として献げたカインは農耕民族の象徴として描かれているのではないかと思うのです。

アブラハム以来、イスラエル民族は人類の非常に古い体系の暮らし方をしていたと言ってもよいでしょうか。イスラエルの民は遊牧民として、移動する民として生きていました。定住する場を持たず、羊や牛と共に移動しながら生きて行きました。エジプトに移住し、奴隷として400年過ごしますが、モーセによる出エジプトが為され、その後40年間荒れ野を定住することの無い、やはり謂わば遊牧民族として過ごすのです。
移動する民としての生活の中でも、多くの罪の問題が起こりましたが、荒れ野での移動しながらの生活というものは、「ただ神だけが私たちを養ってくださる」ということを徹底して教え、鍛えられる時となりました。天からのマナによって養われ、神に導かれて移動し、神の赦された場所でひととき幕屋と仮庵を建てて過ごし、また移動するという主なる神によってのみ導かれる40年を過ごしたのです。
それが羊を神に献げたアベルに象徴される、神中心の生き方でした。動物の犠牲の献げものは、神へのなだめの香りとなりました。律法の第一の掟は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」であり、神を中心に置いた生き方が、求められているのです。

それが約束の地カナンに入り、定住をして生きることになり、新しい問題が出て来ました。定住するということは、その地を耕し生きることに繋がります。また、カナンの地には、イスラエルの民がカナンの地に定住する前に住んでいた先住の人々がおり、その人々は、それ以前から農耕生活を送っており、豊穣の神々という偶像を祀り、それらの偶像はイスラエル民族を罪へと陥らせる大きな原因となりました。
また、定住し、農耕をするということは、神の造られた大地を人工物に変えることとも言え、また人は富を蓄積するようになり、経済格差が起こり、またその地を巡って権力闘争が多発するようになります。王政も始まって行きます。
農耕の生活というのは、一定の人々に権力が集中する、謂わば、現代社会の象徴とも言えましょう。
先ほど、カインという名前は、「鍛冶屋」を現す名前で、4:19以下に、カインの子孫のこと、それは人類の文明の始まりであったということに触れました。家畜を飼う者、竪琴や笛を奏でる者、青銅や鉄でさまざまな道具を作るなどの、所謂「文明」ということに属する事柄。カインはそのような人類の先祖となったと語られています。
人間が作る文明というもの、殊更に18世紀の産業革命以来、どこまでも人間中心、経済中心の生き方となり、科学技術の発展こそが第一義ともされ、神は遠く、見えなくなるような世界です。人間の知恵が神より優っているかのように人は錯覚をし、造り主なる神を忘れ、この世の繁栄に翻弄されています。
主なる神がこの時、アベルの献げ物を喜ばれ、カインの献げ物に目もくれなかったということは、そのような神を退けて、どこまでもこの世の繁栄と自分の誉れを求め続ける人間のあり方というものを、カインとアベルの物語は見据えた物語なのではないか、そのように考えられるのです。そして主はアベルの献げ物を受け入れられ、カインの献げ物を退けられたのです。

 主なる神から献げ物を目に留められなかったカインは、激しく怒り、顔を伏せました。
 弟は認められたけれど、自分が認められなかった、そのことにカインは怒り、アベルに対する嫉妬に燃え滾ります。
 私にはこのカインの気持ちが分かります。せっかく精魂込めて献げたものを省みられなかった主に対する怒り、屈辱。何故神はそれを受け取られなかったのか―そのこともあまりにも理不尽に思えます。この出来事が、後の人間中心の文明を聖書が批判していることであるにせよ、人間としての悲しみや怒りは分かります。

 主は、そしてこの世は理不尽だ―そのように思えることに、私たちも生きる中でしばしば信仰を持ちながらも出くわすことがあります。そのような時、私たちは主に向かって顔を上げて、抗議をしても良いのではないでしょうか。そして徹底的に主と向き合い、祈りのうちに主にとことん訴えて良いのではないでしょうか。そして、主もそのことを求めておられるのではないでしょうか。主に向かって訴えた時、主は必ず御心を返してくださるお方であるからです。そして私たちは自分の過ちに遂に気づく時が来ることでしょう。

 この時、主はカインに語られます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」
 この時、主はカインの中に入り込もうとしているアベルを殺そうとする考えを制するように、言葉を掛けておられます。顔を上げろと。正しく振る舞えと。今、心に過ぎっている悪しき思いに導かれるならば、それは罪がそこに待ち伏せていることだ。罪はお前を求めて戸口にあり、正しい者として顔を上げなければ、お前は罪の中に、罪を支配することになる、と。私たちも、よからぬ思いが心にもたげるとき、神は私たちに「顔を上げて、まっすぐになれ」と語っておられる、そのことも覚えたいと思います。

 しかしカインは主の言葉に顔を上げることはありませんでした。あくまで主に向き合おうとしないまま、アベルに「野原へ行こう」と誘い、野原で弟アベルを殺し、土に埋めたのです。
 神に背き、楽園を追放されたアダムとエバ、人間と人間との間に生まれた初めの子どもたちは、兄弟殺し、殺人という罪を犯す者となったのです。
 
 主はカインに言われました。「お前の弟のアベルはどこにいるのか」と。カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」=弟を見張らなければいけないのですか、そうではないのだから、知るわけはないでしょう、としらばっくれて答えるのです。主なる神ととことん向き合おうとしない、カインの姿が思わされます。

 死んだ人の声、私たち人間には聞こえません。カインは弟を殺して埋めてしまえば、それですべてが見えなくなり、聞こえなくなると思っていました。しかし、神は死んだアベルの声を聞いておられたのです。
主は言われます。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」。
 そこで我に返ったカインは「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれあれ、わたしを殺すでしょう」と主に恐らく泣いて悔いて訴えます。ここで遂にカインは主に向かって顔を上げて訴えるのです。

 それに対し、主は「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」と言われ、カインに「しるし」を付けられます。それは、カインを守るための主のしるしでありました。
 主は弟を殺すという恐ろしい罪を犯したけれど、泣いて悔いたカインを憐れまれました。そしてカインが生きるための保証としての「しるし」を与えられ、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住まわせたのです。

 カインとアベルの物語から、私たちは何を受け取ったらよいでしょうか。
 何よりも、私たちの心の中の罪を認めることでありましょう。そして、自分中心の生き方から、主なる神を中心とした生き方を見据えて、自分自身を整えて行くことを私たちのうちに戒めたいと思います。また、新型コロナウィルスによって、生活や、世の価値観が一変させられた人類です。今こそ、神に立ち帰る時。主は私たちが神を絶えず見据えて、神を中心とした生き方に方向転換をすることを待っておられます。
神を中心にするということは、不自由な生き方ではありません。イエス様は「神の国と神の義をまず求めなさい。そうすればすべてが与えられる」と仰いました。主のあるところにまことの自由があり、主からすべてが与えられる道が拓けます。このことを覚えたいと願います。
 そして、主は憐れみ深いお方。罪を犯しても、悔い改めたならば赦してくださるお方です。カインは、世を生きるための保証としての神の憐れみとしての「しるし」を受けました。
 私たちも「しるし」がつけられています。それは「イエスの焼印」、イエス・キリストの十字架の赦しと新しい命の保証です。このことも、しっかりと心に刻みたいと願います。