「福音の力」(2021年1月24日 礼拝式文 礼拝説教)

前奏    「み神より離れまつらじ」           曲:ブクステフーデ
招詞   ヨシュア記 1章5節
賛美 11 感謝にみちて
詩編交読 53編(61頁)
賛美 459(134) 飼い主わが主よ
祈祷
聖書   ハバクク書 2章2~4節 (旧 1465)
ローマの信徒への手紙
1章1~7、16~17節(新 273)
説教   「 福音の力 」
祈祷
賛美 522 キリストにはかえられません
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
頌栄 27 父・子・聖霊の
祝祷
後奏

「福音の力」
ハバクク書2:2~4
ローマの信徒への手紙1:1~7 16~17

 1月18日未明、この教会の出席教職であられた平田久牧師が天に召されました。91歳、と言ってもあと3日で92歳を迎えようとしておられました。昨日は平田牧師の遺志により、ご家族のみで葬儀を教会で執り行わせていただきました。
 私自身は、平田牧師の晩年にお出会いをさせていただいており、現役の牧師として働いておられた先生を直接は存じ上げていません。そして、お借りした平田牧師のお書きになられた文章や、平田牧師が初代牧師となられた札幌中央教会の記念誌などを頼りに司式を務めさせていただくことになりました。
それらの資料を読みながら、心にまず覚えたことは、平田牧師は、キリスト教会が2000年に亘って固く守り宣べ伝えて来た、使徒の伝承に基づくイエス・キリストの十字架と復活の福音を、その牧会のご生涯の中で、戦い抜いて守り、神の栄光が表されることを求め続けた謙遜な主の僕であられたということでした。
「教会がイエス・キリストの十字架と復活の福音を語ることは当たり前なのでは?」と思われるかもしれません。しかし、何度かお話をさせていただいたことがありますが、パウロが自ら立て上げて直接教えた教会であっても、パウロが去った後、パウロの語ったイエス・キリストの十字架と復活の福音とは違う「異なる教え」を語り、信仰から離れさせようとする人が教会に入って来て、教会を混乱に陥れることが、初代教会の時代から至るところで起こっていたのです。
私たちにも現在受け継がれているキリスト教信仰というものは、「異端」と呼ばれることもあるそれらの教えとの戦いの中で、火で精錬された金のように練り上げられて形づくられ、2000年の歴史の中で語り伝えられてきたものです。そのひとつの形の表れは、私たちが礼拝の中で毎週唱える「使徒信条」に凝縮されている信仰告白です。更に使徒の教えに基づいて、洗礼と聖餐をサクラメント(秘蹟=カトリック・礼典)として大切に堅持してきました。
 現在も日本基督教団には洗礼を受けておられない方々も共に聖餐を受けられるかどうか?という「聖餐問題」が大きな問題と横たわってある訳ですが、それらの発端となる出来事が、1960年代~70年代、平田牧師が牧師として充実して働いておられた時代に起こっておりました。
平田牧師はその真っ只中に、既存のキリスト教会に対して当時「新しいキリスト教」と自ら語りつつ、「異なる教え」を広めようとしていた人たちが当時集まるようになっていた中心的な教会に赴任されることになり、その教会はそれらの人々の勢力がいよいよ増しており、教会のそこかしこに当時の社会問題についての垂れ幕が掛けられ、受け継がれて来たイエス・キリストの福音をそのまま宣べ伝えることが出来ない状態となっており、そのような中、赴任して来られた平田牧師のまっすぐに福音に立つ信仰の姿勢を見た、教会の変貌に苦しんでおられた数十人の信徒の方々から、自分たちをイエス・キリストの福音のみを語り伝える教会に導いて欲しいと熱心に懇願され、平田牧師は教会の分裂は避けたい思いが強く、二度断られたということですが、遂に祈りの中で「主の啓示」を受けられて、イエス・キリストの十字架と復活の福音を正しく宣べ伝えるための、新しい群をつくることへと向かわれたのです。
それから30年。新しく形づくられた札幌中央教会は、今日の御言葉でパウロが語っている、「ローマの信徒への手紙」全体の凝縮された主題とも言える、1:16~17節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には神の義が啓示されています。それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と、この御言葉を証しする、イエス・キリストの十字架と復活の福音を告げ知らせる教会として、主によって豊かに報いられ、成長し、教会員の献身的な信仰によって素晴らしい会堂を得るに至り、平田牧師が去られた後も、豊かに実を結ぶ教会として成長されているのです。
 ご遺族には世の別れは辛いことですが、平田牧師を通して、私たちも主の栄光を仰ぎ見たいと思います。

 さて今日お読みしたローマの信徒への手紙は、使徒パウロの書いた最後の手紙であり、パウロ神学の集大成とも言われる手紙です。非常に難解な手紙ですが、この手紙の信仰理解が、私たちも受け継いでいる2000年に亘るキリスト教を造り上げていったと言っても過言ではありません。
 平田牧師はご自身の葬儀にロマ書8章を読むことを選んでおられました。また、同志社大学神学部に入学のための英語の勉強にこの書を用いたこと、パウロを通して神と人との「和解」ということを熱心に求められたことが先生のお書きになられた文章から分かりました。今日お読みした1:17には「神の義」という言葉がありますが、これはパウロによれば「和解」という言葉と同様の意味の言葉です。また、修士論文は「パウロのイエス理解」と題した論文でした。
 平田牧師はパウロ書簡を吟味されること通して、伝統的に受け継がれてきているキリスト教信仰というものをご自分のうちに確かにされたことを思わされています。

 パウロの語る「福音」とは、その理解がお読みしたこの書簡の冒頭1:2節からの言葉と出来事を指します。もう一度お読みします。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。
「福音」とは、「良きおとずれ」の意味であり、「良きおとずれ」は、旧約聖書の時代のすべてを通して語られ、殊に預言者の言葉の中に、例えばイザヤ書の「苦難の僕」として預言されるなど、多くのところで既に到来が預言されていた、神の御子が、罪の故に神から引き離され苦しむ、全ての世の人の救いのために来られたということ。そのお方はまことに私たちと同じ人としての肉を持ち、イスラエルの王ダビデの子孫として世にお生まれになり、旧約の時代の動物犠牲に終止符を打たれ、自らがすべての人間の罪の贖いとして十字架に架かり死なれた。しかし復活され、今は天に昇られ、神の右の座についておられる。その言葉と出来事そのものであり、「信仰」とは、そのように顕されたイエス・キリストの十字架の救いに与り、この福音に生きること、生かされることです。
「福音」に生かされるということは、私たちがどれだけ弱く、罪深く、時に情けない者であったとしても、私たちを救うために十字架の上で血を流し肉を裂かれ死なれた主イエス・キリストを見上げ、主が「私」の罪のために死なれたことを思い、自らの罪を悔い改め、死なれたけれど復活をされ、栄光を受けられ天に昇られ、今、天に於いてすべてのものをその支配のもとに置いておられるイエス・キリストを私の救い=主と仰ぎ、復活の主の命と共に、罪赦されて主と共にある新しい命のうちに生かされていることを信じ、日々、自らを省み悔い改めつつ、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し生きる、そのような生き様です。そして、教会は、そのように主にあって新しくされた者たちの群です。

 しかし、十字架と復活の福音とは、世にあって何と愚かなことに聞こえますでしょうか。パウロは「コリントの信徒への手紙一」1:18で語っています。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と。
 十字架は、自分の罪を知らなければ知り得ない事柄です。神の愛による気づきが与えられなければ分からない、そうとも言えるかもしれません。それにしても人間は自分の罪をなかなか認めようとはしません。キリスト教に魅かれながらも、「教会は罪、罪というから嫌だ」という方が多いことを知っています。
 パウロの時代にもそのような人々は多く教会に関わる人の中にもおり、現代の教会でも「信仰を持っている」と言いながらも、「罪」の問題を軽んじる人々がおられることを思います。それは、どこまでも罪を認めない、人間の傲慢な思い、神中心ではなく、人間中心の生き方を、神を信じると口で言いながらもどこまでも求め続ける―― しかしそれこそが、聖書の言う人間の罪の性質そのものです。
 また、日本という国は八百万の神々、木でも石でも何でも「神」と呼んでそれらを自分の願望を写す鏡として自分勝手に神と崇めることに慣れながらも、「自分は無神論者だ」と言う人々があまりにも多い。そのような「神観」のある習俗の中、「イエス・キリストの十字架と復活」こそが福音であるなど、何と愚かに聞こえることでしょうか。

 しかし、福音は人を生かします。まことに人を生かし、人を造り変える力、人を罪から救い出し、命をもたらす神の力です。私自身、主の十字架と復活の力によって転んでも起きて、生きてきたことを憶えています。
 パウロ自身、日本人が八百万の神々を祀っているのに非常に良く似た、当時のギリシャ・ローマ社会に於いて、十字架と復活の福音を宣べ伝え続けました。そして人々から嘲けられ罵られました。しかしパウロには確信があります。
 パウロは世にあってはすべての繁栄に結びつくものを持った恵まれた環境に生まれ育ったユダヤ人でしたが、パウロはそのすべてを捨てて、弱さを見に纏い、罪に死に、イエス・キリストの十字架と復活の福音に生きる者となりました。そこにあるまことの豊かさ、平安、信頼、そして神の愛をパウロはその身をもって知っています。何度も牢に入れられましたが、そこにあっても神が共にある喜びに包まれ得ることを、パウロは何度も経験しており、またどのような危険からも信仰によって守られました。
 パウロは「福音を恥としない」、イエス・キリストにこそ真理があり、救いがある。パウロはそのことを知っているのです。それは世の労苦、苦難、悲しみを通してパウロが知り得たただひとつの真理でありました。そして、パウロはすべてを捨てて「信仰に生き」たのです。

 信仰にひたすら生きるということは、時に非常に厳しいところを通らせられることがあります。人間は罪があり、その罪を打ち破り、まことに神に近づくためには人間は忍耐を覚え、忍耐をイエス・キリストの福音を希望とする信仰にしっかりと立つことを知るためには、人間には気づかねばならないことが多いのです。そして、主の十字架を見上げる時、私たちは徹底的に、自分の「弱さ」を知らされます。しかし、その弱さをまことに強くしてくださるのが、そして新しく生かす道を与えてくださるのが、十字架と復活の福音です。

 私たちはこの福音を自分のものとし、また教会の信仰として固く保ち、歩みたいと願います。主の十字架と復活の福音に立つ者を、そしてその群を、主は必ず祝福し、神ご自身の業を表してくださいます。
 そのことを信じ、また私たちひとりひとり、今一度信仰を堅く保ち、歩みましょう。
 この週も、皆様の上に、主の命が顕されることを祈ります。