礼拝説教「信仰による義」(2021年10月31日)

聖書ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節

辻哲子(つじ・てつこ)牧師

 

10月31日は宗教改革記念日です。1517年10月31日にマルチン・ルターがヴィテンべルグの城教会の扉に95ヶ条の提題を出して問題提起したことから宗教改革は始まりました。「ローマ教会の人の教えではなく、聖書に書かれているイエス・キリストの言葉に立ち帰ることだ」と。ルターの宗教改革の基本となる理念は「信仰によって義とせられる」という福音の真理の徹底でした。「行いによって義とせられる」のではなく信仰によって救われることを聖書に基づいて人々に伝えました。

1,すべての人は信仰によって義とされる。

今日のテキストのガラテヤの信徒への手紙2章15~21節も「すべての人は信仰によって義とされる」。最も大切なことにふれているところです。順を追って読みますと、

2章15節「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって異邦人のような罪人ではありません」

これはどういうことなのでしょう。<わたしたち>はとはペトロをふくめユダヤ人キリス者たちということです。

ユダヤ人はみな自分たちは神様から選ばれた民、聖なる民として律法を与えられていることを自覚しておりました。そしてユダヤ人以外は皆<異邦人>と呼び、<律法をもたず、守らない罪人>と見ていたのです。<わたしたちは生まれながらのユダヤ人は>男性が生まれて8日目に割礼を受け、しるしをもちましたから特別な民としての自覚がありました。

けれども主イエス・キリストによりその特権意識は打ち砕かれました。パウロ自身「人間すべて罪人である」ことを認識させられて次のことを説明しています。

16節A「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされることを知って、わたしたちもキリストイエスを信じました」

一番大切な言葉です。マルチン・ルターはこの一節のために10数ページをさいて解説しているほど、福音の神髄を語られている内容です。それは<救いの原理>が語られているからです。

 

2,「神から義とされる」とは

ところで神から義とされるとはどういうことでしょうか。パウロはイエス・キリストに出あう前までは、律法によって義とされると信じてきました。

聖書の中に「神から義とせられる」という言葉はよく出てきます。日本人にはなじみにくい言葉です。しかもそのことが分かりませんと2章16節の内容はわかりかねます。

「神から義とされる」ということは「神から無罪を宣告される」ということです。また「神と人とが正しい関係になる」ことです。<義とされる>という言葉は本来犯人が裁判の結果無罪を宣告された時に用いる言葉です。従って<義とされる>反対の言葉は<罪に定める、有罪である>を宣告されることです。

本来私たちは神に背を向けて身勝手に生きていますから神様から罪を宣告されても当然であります。従って<義とされる>ということは<救われる>と同じ内容ですから必死に考えねばならぬ事柄です。

そこでユダヤ教徒たちは律法トへの信仰によって義とされることを知ってわたしたちもキリストイエスを信じました。これは律法の実行ではなくキリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら律法の実行によってはだれ一人として義とされないからです。

なぜ二度も<律法の実行ではない>と語るのでしょう。それはユダヤ人キリスト者の中にはイエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされる、神に赦される、救われる、ということが受け入れがたいことであったからです。

ユダヤ人は律法の実行により神様と人との関係が正しく保ち救われると考えていたからです。

そもそも律法はイスラエルという神との契約の民が義しく生きる目的のための手段として与えられたものでした。多くの人々の祝福の基として神のみ旨を表す使命のために異邦人と分離して、律法の実行がすすめられてきたのです。

しかし律法を完全に守ることができません。罪を犯します。そのために贖罪日(レビ記16章)があり「年に1度イスラエルの人たちのためにそのすべての罪の贖いの儀式」が行われました。

あくまでも神の恵みが先行して律法の実行なされていたのです。しかし次第に律法は契約の民として生きる目的のための手段であったものを目的そのものとしてしまいました。

パウロ自身もかつては律法により神の義を得るためにファリサイ派の一員として、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし律法は生きれば生きるほど自分の罪深いところにつきあたったのでした。

「わたしはなんとみじめな人間だろう。だれがこの死のからだから私を救ってくれるのだろう(ロマ書7)と呼ばざるをえませんでした。パウロは律法の実行に真剣に生きた者であるからこそ<律法の実行によってはだれ一人として義とされないからである>ということがはっきりと分かるのです。

人間の力で一点のくもりもなく完全に律法を守ることは不可能です。しかし主イエス・キリストの時代のファリサイ派の人々や律法学者たちは律法に更に細かな法則をつくり、自分の義を誇りました。

神様はそれを打ち砕きました。主イエス・キリストをお遣わしになりました。

17節「もしわたしたちが、キリストによって義とされるよう努めながら自分自身も罪人であるなら、キリストは罪にも仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。」

分かりにくい言いまわしですが、もしわたしたちキリスト者が<キリストによって義とされる>ことを求めることによってユダヤ主義の律法を守る人たちから私たちを「律法背反者」だと見なされているならば、そうだとするとキリストは<律法背反をうながす者>ということになるのでしょうか。決してそうではない。

18節「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違反者であると証明することになります。」

ユダヤ人の律法に対する特別な思いを知らないとこの言葉がよく理解できない言葉だと思います。パウロはあくまでも律法では人間を救うことはできない、ただ、キリストによるほか救いはないことを断言しているのです。

 

3、律法による罪の自覚

人間はどこで自分の罪を自覚するのでしょう。人との比較でしょうか。法律によるのでしょうか。

私は受洗する前までは<律法を行うことにより義とされる、救われる>ほうが理解しやすく思っていました。人間観が甘かったのでした。癒しがたい人間の罪、我執にみちた自分を自覚したとき、人間はどんな善き業でも神の御心に全く一致するよき業を行えないことを知りました。従って受洗してもしばらくは<道徳的キリスト教>でした。イエス・キリストの十字架が分かっていなかったのでした。神学校に入ってはじめて「福音的キリスト教」に導かれたのでした。

19節「わたしは神に対して生きるために律法に対しては律法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています。」

急にパウロは18節以降<わたし>とパウロ自身のことを語ります。

パウロは「キリストはすべての人(人類)の救いのために神から受けねばならない刑罰の十字架にパウロ自身の神への反逆と罪のための刑罰を重ね合わせて十字架を見ました。自分自身が受けねばならない刑罰をキリストの十字架とぴったり重ね合わせ自分が十字架にかけられていることを知ったのです。<律法に生きていた自分がキリストと共に律法に対して死んだことを知ったのです。>そしてキリストの愛に生かされていることを知ったのです。

4,キリストの愛に生きる

20節「「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

キリストはわたしのうちに生きているということはキリストの愛の中を生かされているということです。

私が道徳的キリスト教の信仰に生きていた時<これこれをせねばならない>、<ねばならない>という自身に対するきびしさと共に他人へも心の中で裁く思いがありました。しかしイエス・キリストの十字架の祝福を信ずる信仰を与えられた時その恵みにお応えしようという信仰に変わりました。<道徳的キリスト教>から<福音的キリスト教>に変わりました。<恵みにお応えしたい>信仰に変わりました。

改めて大切なことは<信仰によって生きる>ということと<律法を守る>ということとどういう違いがあるかということです。

信仰によって生きる者は<神の愛によって生きる>ことです。

イソップ物語の「太陽と北風」の話に似ています。旅人の上着を脱がせるために北風は強い風で吹いたらますます上着を脱げないようにと固くつかみました。太陽は強く旅人を包んだ時旅人は自然に上着を脱ぎました。

キリスト者も律法を守ることが目的となると<ねばならない>という自分にとらわれていきます。そして固くなります。人を裁きます。しかし神の愛に包まれて生きる者は<神を愛したい、人を愛したい>という思いに変わり、自分にとらわれている思いが少なくなっていくのではないでしょうか。キリストがわたしの内に生きる、ことです。

5,イエス・キリストの愛を信じる時人は変わります。

20節「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

キリストが私を愛しわたしのためにご自身をささげて下さっていることによって生きているのです。救われるために何かをしなければならないのではなく、救われているからその恵みにお応えしたいと思うようになります。

宗教改革者の聖書に立ち帰る信仰は恵みに甘える信仰ではなく何かを始めることができる信仰です。

5,今日は召天者記念礼拝を共にしています。

私たちが召天者を思い起こすことは召天者も私たちも、生きているときに主イエス・キリストに出逢い、その恵みを得ていることを覚えることではないでしょうか。召天者たちに与えられた主の慰めと恵みがいかに大きいかを覚えます。また生かされている私たちは先に召された兄弟姉妹をよい模範としてならう願いをささげることが召天者記念礼拝ではないでしょうか。

21節「わたしは神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの、キリストの死は無意味になってしまいます。」

主イエスがだれのために死なれたのか、何のために死なれたのか、そのことをはっきり知り感謝したいと思います。私たちは罪深い生活をしておりますが、キリストの救いの恵みの中を生かされています。その恵みを無駄にしないように、生活してまいりたいとおもいます。

 

教会のかしらなる主イエスキリストの父なる神様

宗教改革記念日に召天者記念礼拝を共にささげることができ感謝いたします。

過ぐる日、召された兄弟姉妹と共に私たちも主の深い恵みの中でキリストを信ずる信仰によって救われたことを感謝し、心より御名を崇めます。これからもキリストのみを誇り、キリストが私の内に生きておられることを信じ、主の愛を証しさせてください。土気あすみが丘教会の上に、役員はじめ教会員、求道者一人一人の上に主の豊かな祝福をお祈りいたします。主の恵みにお応えする日々となりますように。アーメン