礼拝説教「信仰の危機を乗り越えて」(2021年11月14日)

聖書ガラテヤの信徒への手紙4章8~11節

辻 哲子(つじ・てつこ)牧師

 

はじめに

洗礼を受けてから一生涯教会から離れず信仰生活を続けておられる方は日本にはどれくらいおられるでしょうか。日本の人口の0.8%がキリスト者であるとの統計が出ておりますが毎年受洗者が与えられながら教会から離れてしまう人々が多いことが分かります。それほど日本の国は唯一神信仰、主イエス・キリストを信じる信仰を持ち続けるにはむずかしい精神風土なのでしょうか。その中にあって私たちは礼拝のたびに信仰の原点に立ち返る機会が与えられています。

1,信仰の原点とは何か

それはガラテヤの信徒への手紙3章26~4章7節の中で語っております。

①イエス・キリストにより私たちが神の子とされているということです。私たちが神の子であることはイエス・キリストと同じ身分になったということではありません。主イエス・キリストだけが本質的に神の独り子でいらっしゃいますが、私たちは主イエス・キリストの十字架の贖(あがな)いの死によって子たる身分をさずけて頂いたのであります。従って養子となったと言った方が分かりやすいかもしれません。今まで罪の奴隷、律法の奴隷、もろもろの神々や風習のもとに縛られていましたが、それから解放され自由にされたのです。(4章5節)「それは律法の支配下にあるものを贖い出して,わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッパ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」

②御子の霊により「アッパ、父よ」と祈れる者

御子の霊とは言うまでもなく聖霊です。「聖霊によらなければ誰も『主イエスは主である』ととなえることはできない」(Ⅰコリント12:3)。聖霊は私たちにイエス・キリストを救い主として信じる信仰を与え神様を「天のお父さま」と祈れる心を

与えてくださいました。「アッパ、父よ」と旧約聖書においては神様をこのように親しく語りかけることはできませんでした。しかしイエス・キリストを通して「主の祈り」をはじめ神様に何でも祈り願えるようにして頂きました。「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14:13)

③約束の財産を受け継ぐ相続人とさせられた

約束の財産とは<罪のゆるし、体の甦り、永遠の命>です。使徒信条で告白している財産を頂ける者としてくださいました。父なる神、子なる神、聖霊なる神が総力をあげて私たちに働きかけ与えて下さいました財産です。

そこには私たちの努力や熱心さやよき行いがあったからではありません。神様の一方的な働きかけ、愛の働きにより私たちは神の子とされ、アッパ父よと祈れる者、約束の財産を受けつぐ相続人とされたのです。

ところが、そのことが余り認識しないうちに、信じないうちにこの世のもろもろのことで忘れてしまうことがあるのです。そして信仰のない、もとの生活に逆戻りすることがあるのです。

私はかつて静岡県の静岡草深教会で47年間牧会をしていました。教会から離れてゆくひとがおりました。その理由は①未信者と結婚した方、②教会が近くにない地域に転居した方、③牧師や教会員につまずいた方、④病気や不幸な出来事が続いた方、⑤他の楽しみに心を奪われた方などでした。ガラテヤ教会でも教会から離れてしまう人たちがでてきたのです。

2,諸霊の下に逆戻りへの信仰の試練

4章8節「ところで、あなたがたはかつて神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」

 

ガラテヤの人々も私たちもキリスト者になる前は異教社会の中で、もともと神ではない神々や因習や人間の価値観に縛られていました。

日本は八百よろずの神々がまつられている精神風土ですから竹の子のように新興宗教が生まれています。それも長い歴史をくぐりぬけて存在している国には珍しいと言われています。あいまいに妥協し村八分にならないように生きて行く方が生きやすい国です。

その中でキリスト教は唯一絶対なる神を信じ、「我の他何ものをも神として拝んではならない」とありますから苛烈な宗教であると見られてきました。小説家の正宗白鳥は上村正久牧師から洗礼を受けたのですが、懐疑的な批評家としてキリスト教を苛烈な宗教であると批評し教会から離れていました。しかし亡くなる前に復帰し悔い改め上村環(正久の娘)牧師に会い、信仰を告白し葬儀を行っていただきました。

キリスト者はいつでもキリストの元に引き返すことができるのです。私たちはキリスト者になる前までのこの世の価値観にどっぷり影響されていますからすぐ逆戻りすることがあるのです。

この世の価値観の幸せ、不幸は何でありましょう。子供も大人もお金、家族、友人、仕事、健康と見えるものにとらわれています。

今日、老人が100歳の寿命にたいして3Kを考えなければいけないと言われます。それは健康、経済、孤独といわれています。すべて一理があります。

しかし、キリスト者の3Kは神であるキリスト、教会の交わり、感謝でこの3つを心にとめることではないかと私は思っております。

3,神に知られている私たち

4章9節「しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」

 

「しかし、今は神を知っている」とはどういう意味なのでしょう。<神様がいる>と思うことではありません。<むしろ神から知られている>ことを知っているということであります。聖書に証しされている神は愛の神であり、何もかもご承知の上で私たちを愛し選んでくださる神様です。その神を知っているということです。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)

神様の方が先手、先手で働きかけておられ、わたしたちを知り尽くされておられる中で選び導いておられるのです。

また「神を知る、神に知られている」ということはイエス・キリストの救いを知ることであります。漠然と神様がおられることを知るのではなく、キリストの十字架によって罪が赦されて救われていることを知ることであります。それなくしては神様をほんとうに知ることにはなりません。その救いの神を知るのに、神に対する知識だけを求めて求道する方がおりますが、神様が私たちをいかに愛しておられるか知ることが神を知ることになるのです。

4,信仰の危機を乗り越えて

このような神の愛に生かされていながら「なぜあの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りしもう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」

4章10節「あなたがたはいろいろな日、月、時節、年などを守っています。」

 

ガラテヤの人々の状態をパウロは心配しています。せっかく神の愛を知り、神の恵みの中をバプテスマを受けキリスト者となったのに、逆戻りしてイエス・キリストのもとから離れていくことはまことに嘆かわしいことであるからです。

 

なぜ逆戻りするのでしょう。様々な事情によるのでしょうが、

究極的には

①自分中心からくるのではないでしょうか。教会に行くよりもこちらのほうが楽しい、利益になる、魅力がある、心惹かれるということでしょうか。<諸霊の支配下>は私たちにとって何なのでしょう。楽しみや利益ばかりではなく忙しさも入るのではないでしょうか。そして神の言葉よりも人の言葉に左右される。神の評価よりも人の評価を優先する。

②身体的な弱さ、精神的な弱さから自分のことしか考えない。

そして祈ることもできなくなるのです。

 

信仰の危機は思いかけない形で起こります。

教会には祈祷会があります。なぜ祈祷会があるのか。信仰的に弱っている人々のためにと

りなしの祈りをするのです。

 

5、とりなしの祈り

4章11節「あなたがたのために労苦したのは無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」

 

パウロは宣教の労苦が無駄になるのではないかと思うほどガラテヤ教会の人々の信仰を案じているのです。しかしガラテヤ教会の人たちはそのことに無自覚でした。とかく自分は教会の礼拝に行かなくてもイエス・キリストから離れません、という方がおられます。しかし自己流の我流の信仰に傾いていくことに気づきません。

私たちはいつ信仰の試練や危機に会うか分かりません。「我らを試みに会わせず悪より救い出したまえ」と主の祈りにあるように<試みにあうこと、試練にあうこと>があります。祈ることもできなくなるほどのスランプに陥ることがあります。

その時教会の人たちのとりなしの祈りが求められます。パウロは「あなたがたの信仰が心配です」と語り、伝道してきた者として試練にあっている人の信仰を心配しています。

そこにとりなしの祈りがささげられます。①神の子として神の国の相続人とされた恵みを無駄にしないように、②神の愛の中にとどまり続けられるように、③キリストの体なる教会に死ぬまで生涯つらなり続けられるよう未信者である家族にもよき配慮がなされ信仰の危機を乗り越えられるように祈り、わたしたち一人一人が支えあっていきたいと思います。

 

教会のかしらなる唯一の救い主イエス・キリストの父なる神さま、主イエス・キリストをお遣わし下さり、私たちに神の子としての身分を与え相続人として豊かな賜物を約束して下さいましたことを感謝いたします。今その恵みから遠のいている人たちがいるなら、どうか引き戻してください。信仰の危機のなかにある人々に乗り越える力を与えて下さい。そして主の教会を愛する私たちのとりなしの祈りを聞き入れてください。土気あすみが丘教会の上に豊かな祝福がありますように祈ります。アーメン