「捨てて、得るもの」(2016年10月2日礼拝説教)

申命記5:16~20
ルカによる福音書18章18~30節
「捨てて、得るもの」

 キリスト教の歴史に於いては、修道院が教会の信仰を守り抜き、信仰の腐敗を取り除くための大きな役割を担ってきました。修道院は、神に身を献げ、祈りと時に断食、清貧の中でさまざまな奉仕をし、神に仕え、人に自らを分け与える人々の群です。
 修道院の創始者と言われる聖アントニウス(251~356)は、エジプトの裕福な名家の出身で、両親を早く亡くしたものの、両親が多くの財産を残していてくれたので、その財産で暮らして行こうと考えていたのですが、20歳のある時、教会の礼拝の中、福音書朗読で、今日お読みしたルカ18章とほぼ同じことが語られているマタイによる福音書19章の御言葉、マタイによれば、「金持ちの青年」が、「どうすれば永遠の命を得ることが出来るでしょうか」と聞いた時のイエス様の答え、「もし完全な存在になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる」を聞いた時、衝撃が稲妻のように彼を襲ったのだそうです。「この青年は私だ。この言葉は、私に向けて語られたものだ」と。
 そしてアントニウスは、財産をすべて売り払い、貧しい人たちに与え、神に完全に献身するために、町を去り、乾いた、昼間は焼け付くように熱く、夜は極寒の砂漠に籠もり苦行生活に身を投じました。アントニウスはじめ、初期の修道士たちが砂漠に求めたものは、祈りと断食、そして孤独であったそうです。
しかし、彼がそこで度々経験したのは、自分自身の内面、自分自身の欲望との戦いでありました。彼は荒れ野で多くの誘惑に遭い、何度も財産をすべて売り払ったことへの後悔の念にさらされたと申します。しかし、そうした誘惑にさらされる度に、彼は自分自身をもっと厳しい修行に駆り立て、何日にも亘る断食をしばしば行ったり、食事を日没後の一食にだけ制限したりしていたのだそうです。
 聖書には、断食の話がたくさん出て参ります。モーセはシナイ山で「十戒」を受けることが赦されるまで40日間昼夜を徹して断食をいたしました。またイエス様も40日間断食をなさり、悪魔の誘惑に勝たれました。
 断食とは禁欲のひとつのあり方と言えます。食べ物に対する欲求を制御することで、食欲という欲望から自由にされる。ある本によりますと、断食という禁欲の行為は、人類の大いなる知恵のひとつで、その関門を通るとき、人間は新たな力を手にするのだとありました。断食は、喪失することで獲得し、減少によって得るものが増える。より少ないことがより大きい事となる、そのような原理を含んでいるのだそうです。
 この断食の原理というのは、キリスト教信仰のありようと密接に繋がっているように思います。弱い者が強くされ、小さな者が大きくされる、失うことによって得る。キリスト教信仰には絶えず世の価値の逆転があります。
 何年にも亘る孤独な戦いの後、アントニウスは35歳の時、神の語り掛けを幻の中に聞きます。「神の助けが常に与えられるであろうから、もはや畏れる必要はない」と。アントニウスは、自分自身の欲望との戦いの末に、遂に神の臨在に触れたのです。そして彼が得たものは、完全な無所有、何ものも持たないこと、さらにまことの謙遜と自由であったそうです。
 アントニウスの生涯から感じられること、世に於いて持てるものを捨てることは、並大抵のことではないということです。荒野に出たアントニウスが自分自身の欲望に打ち勝って、神が共にあること=永遠の命を手にしていることを実感するには、荒野に出てから15年もの歳月を要したのですから。しかし、世を失うことによって、アントニウスは確かに神を得たのです。完全に神の者となったのです。マタイによる福音書の同じ箇所には、イエス様が「もし完全になりたいなら」と前置きを語り「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われました。アントニウスは、すべてを捨てて、人々に分け与え、自分自身の欲望とも戦い抜いたことで、神の御前に「完全な」人となったのだと言えましょう。
 そして、アントニウスに続く、修道士、修道院の働きは、そこにも問題があったにせよ、教会の歴史の中で、度々、腐敗しかけた教会を立ち直らせてきました。修道院の献身と祈り、そして働きがあったからこそ、キリスト教は2000年もの歳月、その信仰を守り抜かれたと言っても言いすぎではないことでしょう。
 
 さて、本日は「ルカによる福音書」18章18節からとなります。
 イエス様の旅は、いよいよエルサレムへ近づいて来ておられました。主は既にご自身の受けられる受難と十字架とその時をはっきりと見据えておられます。
「ある議員」―マタイでは青年と語られておりますが、ルカが伝え聞き語ることを、新共同訳は「議員」と語っています。この言葉は指導者とか会堂長など、その地域の長を表す言葉なのですが、「議員」と訳されているということから解釈されることは、ユダヤ教の最高法院の議員、それもファリサイ派の議員ということになりましょう―その人がイエス様のもとにやってきて、訊ねるのです。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と。
 この「善い先生」の「善い」という言葉は、「善い人だ」というような人を形容する良さよりもむしろ「神の善さ」を表す時に使われる言葉です。この議員は、イエス様の中に、よく分からないにせよ、神の知恵が宿っていると思い、敢えて「善い先生」という言葉で語り掛けたのでしょう。その意味で、この人が最高法院の議員であるならば、謙遜な人だと思います。
 その言葉に対し、主は「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない」と、答えられます。イエス様は、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」というこの議員の問いに対する、根源的な答えをまず議員に悟らせようとしているように思えます。それを与えてくださるのは「神おひとりである」のですから。
この人は議員であり、また多くの財産を持つ人でした。世の経験、また世の持ち物をたくさん持っている人です。そのようなこの人が、イエス様の前に敢えて立って、「永遠の命」について問いかけます。世ですべてを持っていても、この人には「何かが足りない」という思い、どこか空疎さや不安があったのではないでしょうか。言い知れぬ不安と飢え渇きがあったのではないでしょうか。また、永遠の命ということは、ファリサイ派ユダヤ人にとっては、かなり切迫した問いでもあります。
 先週、旧約朗読でダニエル書12章をお読みいたしましたが、2節に「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入りある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と記されてありましたように、ファリサイ派ユダヤ人の中には、義人が苦しみ、死んだ後、終わりの日に復活し、永遠の生命に入る、そして悪人は陰府の先に裁かれるのだという、復活信仰が芽生え、死後の義人の復活、勝利が、最大の関心事であり希望となっていっていたのです。その思想、希望はイエス様のお生まれになった時代にも引き継がれておりました。

 聖書に於ける「永遠」という言葉。旧約聖書においては「オーラーム」、これは彼岸の命、死んだ後の世界に於いて流れる果てしない未来に向かう時間を表す言葉ではありません。あくまでも、神が永遠なるお方であること、また神と人とのかかわりの中にある限界なき時間を意味しています。
 少し話がそれますが、主の十字架とは神の永遠の時の流れの大きな裂け目と言えるのではないか、と私は考えています。永遠であられる神の御子が神の永遠からこの世に下られ、死ぬはずの無い永遠なるお方が死なれたのです。それは、罪ある人間をご自身の命によって買い取るためであった。私たちが主の十字架の救いに入れられるということは、永遠なる神が有限なる世に人として生まれられ、そして死なれた。十字架とは、世に罪を持って生まれた私たち人間が、永遠という救いに入れられる唯ひとつの裂け目なのではないでしょうか。イエス・キリストを知り、悔い改めて福音を信じる者とされて、主の十字架の死と復活を通して、人間の生きる時間、この時から、もうひとつの命の次元である神の永遠の時に入れられ、永遠の命を受け継ぐことが出来るのです。

 イエス様に近寄り「永遠の命」を受け継ぐために何をしたらよいのかを訊ね求めた人の背景には、そのような復活信仰、「永遠の命」に対する強い欲求があったと言えましょう。ユダヤ人の信仰によれば、彼は永遠の命とは、苦しみを通った義人に与えられるものなのだということを勿論知っていた筈です。しかし、彼は金持ちであり、先祖からの律法を守る人でありましたが、彼の人生には恐らくは取り立てて大きな問題も苦しみも無かったのでありましょう。問題の無い、満ちたりた人生を生きるこの人は、苦しみを通っていない。この議員は自分のそのあり方を知っている。だからイエス様から、「それでもあなたは律法を守っている義人なのだから、そのままで大丈夫」と言って欲しかったのかもしれません。
 彼の問いかけに対するイエス様のはじめの答えは、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」でした。この議員は、それを聞いて安心したのではないでしょうか。そして答えます。「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と。
 しかし、イエス様は、この金持ちの男にさらに言われるのです。「あなたに欠けているものがひとつある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人びとに分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい」と。
 この人はその言葉を聞いて、「非常に悲しみ」ました。今、持っているものを売り払い、貧しい人に施すということは、この人自身が貧しい人となることです。今、持っている豊かさを捨てる、すべてを捨てる、人間にはそのようなことは可能なのでしょうか。先にお話しした、聖アントニウスは、すべてを捨てましたが、それはあまりにも多くの忍耐と戦い、苦しみの時が必要でした。すべての人に、アントニウスのような信仰や忍耐を持てるとは思えません。誰しも完全にはなれません。またもし、すべての人が自分の持ち物を捨てなければならないのだとしたら、世はすべて貧しい人だらけとなり、信仰というよりも、世捨て人が蔓延し、人間には世の知恵や知識は役に立たないものとなり、文化も文明も発達することは無くなるでしょう。
 イエス様がここで語られているのは、「永遠の命を得るために何をしたら良いか」と問い掛けるこの議員に対する「まだ欠けているひとつのこと」でした。この人は、「何をしたらよいか」と、すべき「行い」を主に尋ねました。主は、その問い掛けに、「すべてを売り払い、貧しい人々に分け与えなさい」という行いで答えを返されました。持ち物を捨てること、そして分け与えること、人との交わり、愛をもって生きることを語られているのかもしれません。
 しかし、この議員はイエス様の言葉に絶望するほどに悲しんだのです。
 その姿を見て、主は、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われ、さらに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい」とまで言われました。
 世で富を持っている人は「「救われない」とも聞こえてしまいそうな言葉です。弟子たちはますます驚き「それでは誰が救われるのだろうか」と互いに言い合います。イエス様はそのように驚きおそれる弟子たちに、「人間にはできないことでも、神には出来る」と言われました。
 これは、神が人間を変えることが出来るということでしょうか?勿論神にはそれがお出来になる。聖アントニウスが礼拝の中で、御言葉を聞いたことで、一瞬にして変えられたように。
ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言います。ペトロはじめ、12人の弟子たちは、「お金持ち」ではありませんでしたが、それまで持っていた仕事を捨てて、イエス様に従った12人です。このペトロの言葉を受けるかのように主は言われました。
「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今のこの世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」と。
厳しい言葉です。永遠のいのちを得たいのなら、富、そして自分の持ち物を捨てなさい。あなたが世において大切と思っている物が、神との関係に於いては妨げるものになっているのだ、「善いお方」=神の御前でまことに自由な人になりなさい、そのことに気づきなさいと、主は語っておられるのです。
 そして、弟子たち、また私たちにも、私たちを神に本当に近づかせないものがあるのかどうか吟味し、何が一番大切にすべきことかを見極めなさいと主は語っておられるのです。イエス様の語るその意味は、何よりも神を愛しなさいということです。

 しかしながら、「人間にはできないことでも、神には出来る」と主が言われた意味は、私には人間の側の態度を求めておられるだけではないと思えるのです。神は、イエス様は、人間がとことん罪深く、愚かで弱い存在であることを、知り尽くすほど知っておられます。その神が、ただ、人間にどこまでも人間の側の行いや、大切なものを捨てること、そのことによって永遠の命を受け継ぐことが出来ると語られているとは思えないのです。
 もちろん、それは大きな要素であり、出来ることならば誰もが出来る限りのことをして、神に近づくべきです。完全な者を目指すならば、自分のさまざまな欲求や欲望を捨てて、魂に全き自由を得て、ただ御言葉に専念すること、このことは測り知れない大きなことを生み出します。断食が、喪失することで獲得し、減少によって得るものが増える。より少ないことがより大きい事となる、そのような原理を含んでいるのと同様に、食だけでなく、自らの大切なものを捨てて、持っているものを人に分け与えたならば、どれほど神は私たちを祝福し、大きな御業を顕して下さることでしょうか。

 しかし、それではすべての人が永遠の命を受け継ぐことは不可能です。人間は弱いからです。行いによって到達出来ることには、限りがあるのです。神は人間に恵みをお与えになりました。
 主イエス・キリストは神の御子であられます。
 主は永遠なるところから、有限の世に下られ、教え、十字架で死なれました。それは、弱く、さまざまな世の重荷や苦悩を背負う私たちすべての人間の罪を、その身に帯びて滅ぼすためでした。
「人間にはできないことも、神にはできる」
 この主の言葉は、神の御子イエス・キリストの十字架の救い、ただ信仰によって、罪の悔い改めによって入れられる永遠の命のことを語っておられるのではないでしょうか。

 主は、私たち人間が、ご自身のいのちをかけた、永遠の時のただひとつの裂け目である、十字架の裂け目の中に飛び込み、永遠の命を得る道を拓かれました。私たちは、ただ、自らの罪を悔い改め、イエス・キリストを信じるだけで、永遠の命を受け継ぐことが出来る。そこから世にあっても、神の新しい創造が私たちを通してはじまります。
 これは、神の御業です。人間の業ではありません。私たちは、神の永遠というご支配の中に、主の十字架を通して入れられ、世にありながらも永遠なる天におられる父と主キリストと今、結び合わされることが出来る、イエス・キリストは、その十字架によって、人間が永遠の命を受け継ぐ道を拓かれたのです。これは、神の不思議な救いの御業です。

 今日は世界聖餐日。世界中の教会が主の十字架の死を思い、十字架の上で流された主の血によって私たちは救われ、永遠の命を受け継ぐものとされた、神にしか成す事が出来ない救いの恵みを味わいつつ、聖餐に与りたいと願います。
 そして、さらに、主が私たちの人生に何を求めておられるのか、私たちのうちに、神に近づくことを妨げている何かがもしかしたらあるのではないか、今日はそのことも問いつつ、この恵みに与りたいと願います。
 洗礼を受けておられない方は、その場にて、御自身の内側を見つめ、神にもっと近づくためには何が必要なのか、何が欠けているのかを吟味される時間として用いていただきたいと願います。
 主は、私たちを永遠の救いへと招いておられます。主の恵みに相応しいものとなりたい、そのように心から願います。