「王の王、主の主なる方」(2016年11月20日礼拝説教)

「 王の王、主の主なる方 」
ミカ書2:12~13
ヨハネの黙示録19:11~16

 今日が、伝統的な教会の暦に於いて、一年の最後の聖日となります。そのゆえに、この日は「終末主日」と呼ばれまして、特に「終わりの時」について考える日とされています。そして読まれた箇所は、新約聖書の最後「ヨハネの黙示録」19章です。ヨハネの黙示録は、「終わりの時」「終末」を語る書物です。そして、来週からいよいよ待降節。主のご降誕を見据え、心にキリストの灯火をともしつつ自らを省み、悔い改めつつ、主が来られる時を待ち望む時を迎えます。

 イエス・キリストは世の救い主。教会は、私たち人間の「救い」を語ります。聖書に於いて「救い」とは、究極的には終末・終わりの時に顕されるものとして語られています。聖書は、世にははじまりがあり、終わりがある、ということを語ります。そのすべてを司られるのは、造り主なる主なる神です。
 イエス様は救い主。それにしても「救い」とは何なのでしょうか。
ある解説には、「救いとは、人間を罪と悪の勢力から解放するために、神が働いたことと今も働いていることを指す。救いはまた、永遠の命を受けることである」と書かれてありました。この解説は的を射ていると思います。聖書が語る「救い」には、人間が罪と悪の勢力の中に生きていることが前提されています。聖書の「救い」の概念は、人間自身と人間が生きるこの世が今のままでは不完全な存在であることを告げています。だからこそ「救い」が必要なのです。しかし人間が不完全な故に、救いが必要だということを感じている人はどれだけおられることでしょうか。罪と悪の勢力に自分がさらされているということを自覚しておられる方はどれだけいることでしょうか?
「罪と悪の勢力」ということについて。牧師をやっておりますと、「自分は悪いことなどした覚えはないから自分には罪はない。教会が罪、罪と語ることはいい気持ちがしない」という言葉を何度も聞いたことがあります。
 また、人は「悪」、悪い事、また恐ろしいことにどこか心魅かれるような性質があるように思います。「誘惑」という言葉は、創世記3章で、蛇が女を誘惑して神が禁じられた木の実を食べるようそそのかしたことから人間に罪という性質が入り込んだように、良いことには使われず、神に背く力、悪の誘惑、踏みこんではならないものに踏みこんでしまう人間の性質につけ込む悪の力を表しますが、怖いもの見たさという言葉もありますように、人間はとにかく誘惑に弱い。
 以前、ある友人から、「自分の心は善いこと、愛することに素直に反応したいと思っても、なかなか素直にそれが出来ない。悪い事ならすぐに反応してしまうのに」という言葉を聞いたことがあります。気づいた時に踏みとどまり、誘惑を断ち切り、自分自身を省みて、自分の弱さと罪、そして自分をそそのかす悪の力に気づくことが出来れば、イエス・キリストの救いを知るチャンスと思いますが、かすかに気づいても尚、それまでのあり方を続ける人はとても多い。悪というものは、実は人間にとってとても身近なもので、改めて「悪の勢力からの解放」と言われても、ぴんと来ない人も多いのではないかと思ったりいたします。
 さらに「永遠の命」ということ。「永遠の命」と言われれば、不老不死を考えて、科学的に永遠に生きるための研究をする人も現代では出てきたりしているようですが、聖書の語る「永遠の命」とは、不老不死に生き続けることではなく、罪に死に―人間が罪に死ぬためにはイエス・キリストの十字架が必要です―十字架で死なれ、復活されたキリストの復活に与り、神=キリストと共にある新しい命に入れられることです。聖書の語る永遠の命は、自分の罪が分からなければ、到底知り得ることではありません。
 そして「救い」と言うことになると、さまざまな人生の困難な状況からの救い、心や身体が弱くなっている時に、誰かに、何かに「救って欲しい」「助けてほしい」という思いが溢れることはあるでしょうが、状況が変われば、その救いが、神の憐れみによって神が手を差し伸べてなされた救いであったにせよ、喉元を過ぎれば忘れてしまう。出エジプトをして、奴隷であった生活から解放されたイスラエルの民が、神によって海の水を分けられ水が壁のように立ち、その中を走り抜けて出エジプトをしたことを、喉元過ぎればそれが神の奇跡だったのだということを忘れたかのように侮ったように、人間は神の御業をすぐに忘れてしまうのです。
 これらのことを思い巡らす時、生まれながらの人間の思いというのは、いかに神から目を背けるようにされているのか、ということを思わされます。神に背く、神に背を向けるということが、聖書が語る「罪」の意味ですが、罪は、人間には神による救いが必要だということすら、見えなくさせてしまうもののようです。
 しかし、聖書はそれでも徹底的に人間の罪と、罪からの救いを語ります。罪は、造り主なる神と私たち人間を分断するものであり、神は罪によって御自身と分断された人間を自分のもとに取り戻したい、取り戻したいと熱烈に願っておられるからです。この分厚い聖書は、そのような神の熱烈な人間への愛を語る書です。人間は、自分勝手な自分のままが楽だし楽しいし良いと思い、また自分さえ良ければとまで思ったりする。けれど、神の目には、そのような人間のままでは、神の目にやがて滅びてしまうことが見えている。ですから聖書は、人間の罪を徹底的に語り、また救われなければならないということを語るのです。

「ヨハネの黙示録」はその内容のほとんどが、ヨハネという一人の人の見た幻です。ヨハネの見た幻の中に、お読みした19章では白い馬に乗った騎手が現れます。このお方は、救い主キリスト・イエスを表しています。イエス様、私たちの救い主は、白い馬に乗り、「血に染まった衣を身に纏った」姿で、ここで現れるのです。その名は「神の言葉」。「血に染まった衣」とは、十字架によって流された血、人間の救いのために自らが犠牲となり流された血を表しているに違いありません。

 水曜日の「聖書を読む会」では、夏頃からこの「ヨハネの黙示録」を学びはじめ、先週は奇しくも19章10節までを学んでおりました。そして今日の礼拝は続く11節からです。
 黙示録を読む上で、黙示録が語る神の造られた世界の構造を知ることは大切です。それは、私たちの今生きる、この世、地上の生があり、そしてそれと重なり合うように、神の居られる天上の世界があるという、二重構造です。
 天上の世界とは、主なる神と小羊キリストが真ん中におられ、その周りを白い衣を着た大群衆が、神を賛美し、神を絶えず礼拝している光輝く世界として描かれています。大群衆の着ている「白い衣」とは、小羊の血=イエス・キリストの十字架の血によって、洗われて、白くされた新しい衣です。世の苦しみを信仰をもって生き抜いた人々の大群衆です。イエス・キリストは、血に染まった衣を着ておられ、救われた人間は、救い主の血によって洗われて、真っ白にされた衣を着ているというのです。
 地上には、世の権力の腐敗があり、それはサタン(悪魔)の勢力に従属している。サタンの力に、多くの人々、キリストを信じる人々の群は、権力によって迫害され、命の危険にさらされ苦しめられている。しかし、地上の苦しみは苦しみでは終わらない。地上には苦難があっても、それに折り重なるように、天上の完全な支配があり、イエス・キリストを信じる者たちは、地上でどのような苦難があろうとも、天上の完全な支配のうちに置かれている。どのような苦難があろうと、重なり合うように天の高らかな賛美と礼拝がある。私たちのまことの支配は天にあるのだ、と黙示録は全編に渡って、苦難の中の希望を語る書であるのです。

 19章に至るまで、神の裁きによる地上のさまざまな災害や苦しみが描かれます。今日お読みした箇所では、キリストは白馬の騎士として現れますが、この前まで、キリストは小羊、それもいたいけない屠られたような小羊として登場しています。小羊が巻物の封印を解くごとに、地上に災いが起こる。さらに天使のラッパによる災いが起こり、サタンは地上に投げ落とされ、地上で暴れまくる。またさらに天使の持つ鉢の災いが起こり、バビロンと呼ばれる、キリスト教徒を苦しめる地上の国が滅亡する。そこで、天の大群衆は高らかにハレルヤ、主をほめたたえよ!と神の勝利を叫び続ける。この19章というのは、ヘンデルのメサイアの中のハレルヤコーラスで歌われている箇所です。有名なハレルヤコーラスは、天の大群衆の賛美の歌声なのです。
 悪の力が滅ぼされ、罪と悪にまみれたこの世と、世の支配者が滅ぼされ、遂に主キリストが王となられ、信じる者たちを直接支配される時が来る。キリストを信じる者たちは皆キリストの花嫁として迎え入れられる時が来たのです。そして天に於ける高らかな賛美の中、天が開かれ、遂に白い馬に乗った騎士=イエス・キリストが現れるのです。
 そのお方は、「誠実」「真実」と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われると語られています。その裁きとは、世の腐敗した権力、暴力によって自らを高めて驕り高ぶり、貧しい人々を苦しめる人々に対して、また、世の権力や暴力、また搾取によって、世で不当な苦しみを受けている人たちに対して、神の公正と正義が、世で高慢な者たちと、苦しみの中にある人々との真ん中に立たれ、神の公正が顕されるということです。白い馬に乗った騎手、イエス・キリストは、誠実と真実とをもって、世で不当な扱いの中で苦しむ人々の救いのために戦われるのです。
はじめに、聖書が語る「救い」には、人間が罪と悪の勢力の中に生きていることが前提されているということをお話しさせていただきましたが、私たちの生きる世の、罪と悪の勢力がキリストによって打ち倒される時、それが聖書の語る「裁き」の意味です。

 イエス・キリストのその姿は、「目は燃えるような炎のようで、頭には多くの王冠があり、自分のほかはだれも知らない名が記されていた」とあります。多くの王冠は、王のなかの王ということでありましょう。そして、「だれも知らない名」ということは、古代において「名」はその人格そのものと考えられておりましたので、その名を知られることは、知られた相手に支配されることを意味していました。ですから「だれも知らない」ということは、他の何ものによっても支配されることのない、キリストの主権を現しています。
 しかし、「血に染まった衣」を身に纏われたその名は、「神の言葉」であり、衣と腿のあたりには「王の王、主の主」という名が記されているとあります。その本当の名は誰も知らないけれど、ただ、このお方は「神の言葉」であられ、王の王、主の主、すべてのものの上に立つお方であるということです。
 このお方がこの世の悪を、ぶどう酒を搾るために、搾り桶の中で葡萄を踏むように、神に背き、高慢に弱い人々を苦しめ、虐げる世の人々、また権力に追従して疑問を持たないまま、知ってか知らずか、弱い人々を虐げ苦しめる人々を、怒りをもって踏みつけられるというのです。
 ある意味恐ろしい。
終末と裁きを語る「ヨハネの黙示録」は、聖書を知らない人たちもこの書の存在を知り、恐ろしい書のようにさまざまな解釈をされておりますが、語られていることの中心は、罪と悪の勢力が滅ぼされ、神の完全な公正と正義が現される時がやがてくる、救いの完成の時が必ず来るのだということを告げています。
 世の腐敗、神に背を背ける悪の勢力が、キリストの統治によって完全に滅ぼされ、世で苦められた人々、世のさまざまな誘惑を退け、キリストに従い続けた人々は、神の公正と正義によって、神と共にある永遠の救いへと導かれる、そのような救いへと導かれることを、はっきりと告げている書であるのです。
そのように、聖書が語る救いとは、はじめに申し上げましたように、人間を罪と悪の勢力から解放するために、神が働いたことと今も働いていることを指すことであり、また、救いの究極の意味とは永遠の命を受けること、であるのです。

 聖書、キリスト教信仰の語る命に対する考え方、この世に対する見方というものは、非常に厳しすぎるほど厳しいものです。
しかし、神は、人間を神の裁きによって滅ぼしたいなどと、微塵も考えておられません。裁きによって、人間を救うことを熱望しておられます。神は、人間のすべてを「救いたい」のです。そのために、神の御子イエス・キリストは、罪と悪の勢力にまみれる世を憐れまれ、世に、ひとりの人としてお生まれになられ、すべての人の罪の身代わりとなり、すべての人の罪をその身に背負い、十字架の上で死なれました。十字架の上で、釘うたれ、槍で刺され、血を流し、身体の血を流し尽くして死なれました。その血を、白馬の騎士として顕れる終末の姿に於いても衣として纏っておられる。御自身は御自身が苦しみ流された血によって赤く染まり、その代わりに、その血によって、迫害され苦しみぬいた人間の罪と汚れを洗い流し、白くまっさらなものとされるのです。そのよう私たちの罪を取り除くために、自らを犠牲とされるほどに、神は人間を愛しておられます。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネによる福音書3章16節の御言葉です。
神は、私たち人間のすべてを救いに導きいれたいと願っておられます。そのためには、すべての人が、まず自分の罪に気づき、悔い改め、神に立ち返ることです。神と向き合い、自分中心の生き方から、まず神がおられて私がいる、という神中心の生き方へと方向転換することです。まず、神を求めることから、もう一度はじめるのです。

 イエス・キリストの死と復活は、私たち人間の永遠の命への究極の救いと共に、今、私たちが生きている現状の上にも、キリストの命は顕されます。黙示録の世界が、世の苦しみと、天の賛美の世界の二重の構造になっているように、私たちの究極の救いは天にありますが、神は世を生きる私たちの生きるただなかにも、キリストの復活の力を顕されます。私たちが自らの罪に気づき、悔い改め、神に立ち返った時、私たちの罪と重荷はキリストの十字架によって取り去られ、世にあっては、神が共にある新しい生き方へと方向転換が促されるのです。
 思い起こせば、私自身も30年ほど前、罪にまみれた中、キリストに出会い、キリストの十字架にあって罪に死に、キリストと共にある新しい命、生き方へと促された時があったことを思い出します。キリストを信じても、さまざまな誘惑や自分の弱さの問題があり、長い時間が掛かりましたが、それでも何よりも、神を第一にすること、そのことには忠実であることを願い続けた日々でした。問題が起こった時、「神の言葉」なる聖書の御言葉を思い起こし、自分の思いよりも御言葉に、血に染まった衣を身にまとわれた、神の言葉なるキリスト、私のために苦しまれ、命を捨ててくださったお方に従うことを選ぶ努力をしてきました。そのような積み重ねをする中で、いつしかさまざまな問題の日々も、霧が晴れるように、神が共にあることを日々実感する日々へと変えられていきました。

 世を支配しようとする罪と悪の勢力に心引かれるのではなく、私たちがまず自らの罪を見据え、神に立ち返ることから、神の私たちに対する救いの業は始まります。イエス・キリストはそのために御自ら「誠実」と「真実」をもって、今も戦っておられます。人間を御自身のもとに取り戻すための命を掛けた戦いを、キリスト自らがしてくださるのです。
 王の王、主の主なる、イエス・キリストはもうすぐ来られます。希望を持って主を待ち望みましょう。