「神の秘められた計画」(2016年12月4日 礼拝説教)

「 神の秘められた計画 」
イザヤ書59:12~20
ローマの信徒への手紙16:17~27

「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」
 お読みした旧約聖書イザヤ書59章20節の御言葉です。イザヤ書59章は、紀元前6世紀初め頃、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの人々が、新しく台頭したペルシャ王キュロスによってエルサレムへの帰還を許され、帰ってきた頃に、第三イザヤとよばれる預言者の口を通して神が語られた預言の言葉です。
 旧約聖書には、「主」という言葉が神を表す呼名としてたくさん出て参りますが、この「主」という言葉の原文には、神の名前が、ヘブライ語のアルファベットで書かれています。ヘブライ語というのは、アルファベットに母音=あいうえお、に当たる文字がなく、子音のみで書かれています。そのため、ひとつのアルファベットを見て、ヘブライ語に本当の意味で親しんでいない人には、その子音のアルファベットを何と発音してよいのか分かりません。その子音のアルファベットが英語でYに当たるものだとしたら、それを「や」「い」「ゆ」「え」「よ」のどれにして読んでよいのか分からないのです。
「主」と訳される神の名前には、四つの子音アルファベットが書かれていますが、旧約聖書の十戒の中に「神の名をみだりに唱えてはならない」という掟がありますため、聖書に書かれている「主」にあたる部分を、そのはじめの頃の人たちはその名の読み方を知っていたのでしょうが、神の名を唱えなくなったため、時間が経つうちに、その子音のアルファベットをどう読んでよいのか分からなくなりました。読み方の分からなくなった、神の名を表す四つのアルファベットは、「神聖四文字」=神聖なる四文字と呼ばれています。
 しかし現在の研究では、その名前は、ヤハウェという呼び名であったのだろうと考えられております。ですから、私も「旧約聖書の神の名はヤハウェ」と言うことがあります。しかし、本当の本当のところは、分からない。人間には父なる神の名は隠されているのです。
 古代社会に於いて名前というのはその人自身を表すものであり、その名を知られてしまうということは、名を知られてしまった人に、その人自身を「支配される」ということを意味いたしました。本当の名を呼ばれない神、知られない神は、すべてのものを超えて在られるお方である、ということを意味しているのでありましょう。
 しかし、そのようなすべてのものを超えて在られるお方が、「贖う者として、シオン=エルサレムに来られる」とイザヤは預言するのです。「贖う」という言葉は、「あるものを代償として、また代価を払って手に入れる」「買い求める」という意味の日本語です。そして、「ヤコブのうちの」、ヤコブすなわちイスラエルのうちの、罪を悔いる者のもとに、本当の名を誰も知らないようなすべてを超えた高きに居られる神が来られ、罪を悔い改める者を、代価を払って手に入れられる、と言うのです。
そのお方は、イザヤ書の約束のとおり、およそ預言から600年を経て、ヤコブ=イスラエルのうちの罪を悔い改める者のもとに、来られました。
 そのお方が、神の御子イエス様。
 天使ガブリエルがイエス様の母マリアのところに来て「あなたは男の子を産む」ということを告げた時、「その子をイエスと名づけなさい」とマリアに命じました。名を知られない偉大な神が、高き天から低き世に来られ、名前を明らかにされ、その名を呼ばれるお方となられたのです。
 神は自らを低くされました。そして、そのお方自らが、イスラエルの中の罪を悔いる者のために、罪を悔いて、悔い改める人たちを買い取るための代償、代価となられて、悔い改める人たちの罪をその身に帯びて、十字架に架かって死なれたのです。悔い改め、イエス・キリストを信じる人たちは主の十字架によって罪を滅ぼしていただき、主の復活に与る者とされ、永遠の命に至る救いを得る。このことを、聖書は「福音」と呼びます。
「福音」とは、「良きおとずれ」という意味であり、神が人となり、人間の救いが現されたこと、それは神のひとり子が十字架に架かり、悔い改める者たちの罪の贖いとなってくださったことを指す言葉です。
 聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書がありますが、これらはすべて人となられた神、イエス様の地上に於ける生涯とその教えが語られてあり、神の御子が世に来られ、暗き世に光となって生きられたという、そのご生涯のすべてが福音=よきおとずれとも言えますし、またよきおとずれ=福音は、イエス様の十字架と復活の出来事へと凝縮されて向かって行くものです。
 さらにこの福音、十字架と復活こそ、旧約聖書の時代を通して、「世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものである」とパウロは語るのです。
 主の十字架と復活、これはキリスト教信仰の中心です。これを無くしてキリスト教ではありません。

「ローマの信徒への手紙」を書いたパウロは、世に生きておられたイエス様のお弟子ではありませんでした。生きておられたイエス様とその弟子たちを迫害する側の人でした。そんなパウロを、ある時突然、天からの光が彼の周りを照らし、その時パウロは、天からのイエス・キリストの声を聞いたのです。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と。
 その経験を経て、パウロは、イエス・キリストを信じる人に変えられました。それまでのあり方と180度変えられてしまい、イエス・キリストの十字架と復活の福音を告げ知らせる、命をかけた宣教の旅をする人となりました。
 イエス・キリストの福音とは、人を強め、人を変える力があるのです。

「イエス」とは、地上に降られ、人として生きられ、十字架に架かり、死なれ、陰府に下り、復活され、天に昇られた神の御子の名前です。名を呼ぶことも適わなかった神が、人となられた時、名を呼ばれる者となられました。
 さらに、イエス様ご自身、ヨハネによる福音書16章に於いて、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と、イエスの名を用いて祈る特権までも、人間に与えて下さいました。
 神が人となられた、これをパウロは、「フィリピの信徒への手紙」で「へりくだられた」という言葉を使って語っています。名を呼ぶことすらみだりには出来なかった神が、人間の低みにまで降られ、すべての人に名を知られる者となられ、人に仕えた生涯を送られ、十字架の上で命まで捨てられ、さらにその名を用いて祈る特権まで、信じる者にお与えになられました。「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)とまで、イエス様は語っておられます。

 イエス・キリストの十字架と復活の福音は、イエス・キリストについての宣教によって、神は「あなたがた」=私たちを強めることが出来るとパウロは語ります。
 これは、パウロ自身の経験による実感からの言葉でありましょう。パウロは、キリスト・イエスに出会うことによってそのあり方が180度変えられ、さまざまな困難なことも、絶えずイエス・キリスト、聖霊の力によって守られ、励まされ、すべてのことを乗り越えて、福音を宣べ続けたからです。また、その宣教の業によって、多くの人が悔い改めに導かれ、その福音によって強められたことを目の当たりにしてきました。
 ローマの信徒への手紙1:18からのパウロの言葉をお読みいたします。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」
 パウロは徹底的に、主イエス・キリストの十字架と復活を、良きおとずれ=福音として語ります。十字架と復活が、どれほどの神の力か、それは信じるすべての者に救いをもたらすものだということを、パウロは自分自身の全存在をもって知っている。福音は、永遠の命に至る救いと共に、現実的な私たちの生きる現実の問題に於いても、古い自分に死に、新しくされる意味を含んでいます。
 それこそが、旧約の時代を通して秘められていた神の人類救済のご計画であったことを知り、そしてイエス・キリストに救われた者として命を賭けて福音の宣教のために生きたのです。

 パウロは福音を宣べ伝えるためにローマに行きたいと熱望しながらも、その願いは叶えられておらず、まだ見ぬローマの教会に向けて、イエス・キリストの十字架と復活という福音を、このローマの信徒への手紙でさまざまな角度から語っておりました。
 本日お読みした16章はその最後の部分で、ローマの教会と関わりのあった人々への挨拶を語り、お読みした17節からは、最後の勧告=勧めをしています。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい」と。

 パウロの福音の宣教は、苦労の連続でした。パウロは、フィリピの信徒への手紙3:16で、「何度も言ってきたし、今まだ涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」と語っています。命がけで福音宣教をしてきたパウロですが、人間の心が、キリストの十字架という神の秘められた計画に目を開かれない人はあまりにも多かったのです。
 ここでパウロが語っている「学んだ教えに反」することというのは、具体的なあり方は分かりませんが、イエス・キリストの十字架と復活を、自分本位な解釈によって、その「神の秘められた計画」をないものにするような、人間中心の信仰の解釈であったと考えられています。
 十字架は、この礼拝堂にもありますが、人間の心のありようによっては、美しい飾りやただの教会のシンボルになりかねない。しかし、十字架とは、神の御子が世に降られ、人となられ、私たち人間の罪のすべてを負われ、血を流し、苦しんで死なれた場所です。ここにすべての人の救いのための「神の秘められた計画」がありました。
 しかし、何故、神の御子が十字架に架からなければならないのか。パウロ自身「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(一コリント1:18)と語っておりますとおり、自らの罪を知り、「罪を悔いる心」がその人のうちに無ければ、十字架を理解出来ることではないのです。人間の理性では、キリストの十字架と復活は疑問だらけでありましょう。信仰によらなければ、神の御子が十字架に架かって死んだことで、すべての人が救われる、などということは、愚かな荒唐無稽なことにしか思えないからです。

 そして、初期の教会では、神の御子の十字架を侮るような、また、人間の理性で分かり易いような教えを語る人々が教会に紛れ込み、パウロの伝えた福音の教えに反して、教会の中に不和やつまずきをもたらす人々が現れてきていたのです。
 例を挙げますと、復活について、パウロは「体の復活」を語ります。イエス・キリストは十字架で死なれ、墓に葬られ、墓は空になっていて、キリストは体をもって復活したと聖書は語っています。しかし、当時教会に入り込んでいたグノーシスという教えの中には、肉体、また物質界は忌むべきものと考え、肉体が復活する必要などない、寧ろ消滅すべきで、復活は霊魂に関わることだけだ、などという、徹底的に「精神主義化」した教えがあったそうです。霊魂の復活と言われても、何が何だか分かりませんが、それでも「体の復活」そして、私たちも体をもって復活すると言われるよりも、物質的でなく、霊魂の復活と言われてしまう方が、分からないものは、より難しく分からないものとして解説される方が、人間の理性というのは、納得しやすいような気がいたします。
 また、イエス様の愛を「無償の愛」としての、敵を愛する、その愛の面だけを強調したグノーシスもありました。福音書を読んでおりますと、イエス様は勿論、弱い人々、病を負った人々、また罪人を殊更に大切にされましたが、イエス様の言葉は、そのような愛が絶えず根底にありつつも、厳しい言葉が多い。ただ単に、愛と優しさと寛容を語っている訳ではなく、高慢な者や、神を侮る人々に対しては、非常に厳しい言葉を向けられています。赦しと愛と共に、厳しい裁きも随所に語っておられます。裁きを語ることすら、人間への限りない愛の表れなのですが。厳しい主の言葉を排除して、自分の意に沿う気に入った聖書箇所のみを語る人たちがいたのです。
 パウロは申します。
「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そしてうまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」と。
 そして、そのような人々を警戒し、遠ざかる、ということを知恵として語っているのです。

 信仰を守り抜こうとするとき、さまざまなそれを妨げようとする力が働きます。パウロも、初期の教会も、それらの力に揺り動かされ、また現在の私たちに対しても、そのような妨げの力が働くことがあります。
 それらの力に抗するためには、ただ私たちは、十字架と復活のキリストの福音を絶えず抱きつつ生きることです。
 自らの罪を知り、罪を悔い改め、高き天より低き世に降られた神の御子、名前を呼ぶことが適わないようなお方だった神が、イエスという名を持つ人となられ、世を生きられ、十字架の上で私の罪を背負い血を流し、苦しまれ、死なれた。そのような神の御子イエス・キリストを見上げ、その死によって、私自身が罪赦され、救われたこと、そしてキリストが復活されたのと同様に、私たちも新しい命を得ていること。このことを、絶えず心に刻みつけ、救いの御業を味わい知ることです。尚その上、善にさとく、悪に疎くあることです。そのような信仰の従順へと、私たちが導かれることを、神は望んでおられます。
 
 今日はこれから聖餐式が執り行われます。
 主の十字架と復活こそ、人間の救いのための、神の秘められたご計画でありました。主の死によって、私たちが今、新しい命を受けて生かされている。永遠に至る救いへと入れられている。このことを喜び、私たちのうちに、この神の秘められた計画を刻み付けるために、今日も主の食卓を味わいたいと願います。