「天の大きなしるし」(2016年12月18日礼拝説教)

「 天の大きなしるし 」
イザヤ書7:10~14
ヨハネの黙示録11:19~12:6

 昨日、季美の森家庭集会で、三位一体のことについての文章を共に読みながら、はっと気づいたことがあります。
 三位一体ということは、最も重要なキリスト教教理の一つでありながら、私たちが最も理解しにくいことであると思えるのですが、そのことについて雪が融けるように昨日理解出来たように思えたのです。それは何よりも、「おひとりの神が低きに降られた」ために三位一体と言われるありかたをされるようになったのだ、ということを、おそらく聖霊によって私自身が示されたのだと思うのです。天におられる神、天におられてそのままおひとりのまま良いはずの神が、低きに降られたのです。神は全能であり、人間ではありません。人間の理解を超えた存在のあり方をされるのです。
 そして思ったことは、「父、子、聖霊と、神が三つのありかたをするけれど、おひとりの神様」という、三つに分かれたところから考えるから三位一体が分からなくなってしまうのだということでした。神はあくまでおひとりなのです。そのおひとりの神が、人間を憐れまれ、人間を救うために、なりふり構わないような愛を以って、親が子を愛する愛を以って世に降って来られたお方が、イエス様であり、聖霊なる神は、イエス様の十字架と復活の出来事の後、私たちひとりひとりに強く強く働かれるお方として、ひとりひとりに迫るように力として働かれる神の姿であられるのです。イエス様は仰いました。「わたしと父はひとつである」(ヨハネ10:30)と。そして「神は霊である」(ヨハネ4:24)と。また、聖霊を与える約束を語られた時、イエス様は言われました。「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14:18)と。
 神は偉大なお方で、人間を遥かに超えておられるお方であられるから、天の玉座でどっしりと構えておられたら良いのに、神は罪深く、苦しみ多い人間が憐れで見過ごすことが出来ず、いてもたっても居られず、低い地上に降りてきてくださった。こんな卑しい罪深い人間のただなかに、人間に直接関わり救うために、イエス・キリストとして来られ、十字架ですべての人の罪を滅ぼし、私たちの救いとなってくださり、さらに生きる力を与えてくださるために、聖霊として降ってきてくださった。そしてこんな私のような片隅にいる小さな者に至るまで、神が共にいてくださる、そのような神と人間との関わりを実現されたのだ、ということを深く思い至りました。
M姉妹が、「三位一体というよりも、一体三位」と言ってくださったことが、私のうちに響き渡りました。そして、低きに降られた神、イエス・キリスト、十字架の上で、死の苦しみを味わい尽くして死なれた神の御子の、その人間の低さの極みまで降りてきてくださったその限りない愛、そして神の憐れみ深さに打ちのめされたような気持ちになったのです。

 この2016年という年も、もうすぐ暮れようとしています。
 この年は大きな事件が枚挙に暇がないほど起こった年でした。4月には熊本を中心とした震災、多くの水害、鳥取での地震もありました。貧困の問題が近年これほど取り沙汰された年もありませんでした。多くの人の愛が冷え、親が子を虐待するという事件も多く取り沙汰され、また障碍のある方の施設で起こった凄惨な殺傷事件もありました。弱い人々が侮られる世の中であること、神に背く世であることを見せつけられた事件でした。また世界を見渡せば多くのテロ事件が起こり、またシリア周辺では民間人が空爆によって殺され、そして町が破壊されることも枚挙に暇がありませんでした。そして難民となる人たちが溢れ、そこでも多くの命が奪われました。自然も社会全体も、人の心も、大きく歪んでいるということを思わざるを得ませんでした。どれほどの人たちがその血を流し、またどれだけの涙が流されたことでしょう。私たちの生きる世の中というのは、一体どういう世の中なんだろう?と、戦後の平和と言われた時代を生きて来た私などは、今、目の前で世界が変貌していくさまを肌で感じつつこの年を過ごして来て参りました。
 2011年の東日本大震災の時、日本中が「何故」を問い、「神がいるなら何故このような悲惨なことが起こるのか」と、震災の悲しみを「神」のせいと言わんばかりの言葉を教会は多く投げかけられました。
それらの問いかけにどう答えてよいのか、私の伝道者としての働きは、東日本大震災の翌月、2011年の4月から始まりましたので、御言葉を取り継ぐ時、そのことが頭を離れることはありませんでした。今も絶えずこのことは頭の中にあります。そしてあの時から6年近くが経ち、私にはまだ明確な答えはありません。しかし、この世はまことに神に背く、不完全な世なのだ、ということだけは、はっきりと聖書を通して認識をするようになりました。とても悲しいことですが。
 そして、ヨハネの黙示録の言葉を借りれば、今日お読みした箇所の少しあと12節の後半「悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知っていたからである」のように、悪魔―竜とも呼び換えられていますが―が最後の働き場で非道の限りを尽くしている、そのようにすら思えることすらあります。

 今日は、旧約聖書はイザヤ書7章、新約聖書はヨハネの黙示録12章をお読みいたしました。両方の箇所には共通する事柄があります。それは「しるし」ということ。「しるし」とは、奇跡であり、また神の働きを人間が知るようになるために与えられるものです。
 イザヤ書では「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエル=主は共におられると呼ばれる」というしるし。そして黙示録では天の大きなしるし。それは、「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を生む痛みと苦しみのために叫んでいた」という、何とも不思議なしるし。しかし、女の人が、ひとりの男の子を産むという「しるし」であることで共通しています。
 さらに、黙示録ではもうひとつの「しるし」それは、恐ろしいしるしでした。「火のように赤い大きな竜」のしるしだというのです。竜とは、悪魔、サタンを表して語られています。神はこれらのしるしを通して、何を私たちに告げようとしておられるのでしょうか。
 
 ヨハネの黙示録は、紀元90年頃、ローマ帝国によって、キリスト教徒たちが残酷な死の危険にさらされるという大迫害を受けている時代に、神が、迫害の中に生きる人々に示すために、イエス・キリストを通して、ヨハネという人に与えられた終わりの時の幻です。
 初代のキリスト教会は、多くの艱難を通ってきました。その最たる時代に書かれた文書です。不思議な書き方が多く、直接的な言葉遣いを使わず、比喩的な表現を使っているというのが特徴です。たとえば「大淫婦」という言葉は、文字通り大淫婦ではなく、ローマ帝国を表す言葉として使われています。
 そのように「淫婦」のように女性名詞を使って、悪しき者を表していることに、女性である私などは「どうしてなのかしら」とあまり良い気持ちがせず疑問を持ったりいたしますが、今日お読みした12章で語られる「一人の女」―天の大きなしるしであり、太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶり、身籠っており、子を産む傷みと苦しみのために叫ぶこの女と、ローマ帝国を表す大淫婦は、相反すると言いましょうか、女として描かれる者同士として、相対する、神の領域に於ける存在として描かれていると言えましょう。

 それにしても、ヨハネの黙示録が語ることは不思議に満ちています。「身に太陽をまとい、月を足の下にし、十二の星の冠をかぶっていた」というこの姿はどのような姿でしょうか。背後に太陽があり、月を踏みつけている、宇宙を足もとに置いているというイメージでしょうか?また「十二の星」というのは、イスラエル十二部族を表しており、この女は旧約聖書の民であるイスラエルを象徴しているのでありましょう。
 またこの「一人の女」の持つこの「産みの痛みと苦しみ」は、旧約聖書イザヤ書66章で語られている、メシア・救い主の到来を産みの苦しみを待つ母として捉えられて記されているとも言えます。救いは苦しみを通してもたらされる、そのような聖書の理解がありましょう。そしてその子は疑いもなく、イエス・キリストを表し語られています。
 イエス様のお誕生は、マタイ、そしてルカによる福音書ではある意味牧歌的に書かれていて、その様子はクリスマスの祝いを豊かにしていますが、黙示録で語られるキリストの誕生は、不思議な「象徴的」に描き方をされています。
 そして「もう一つのしるし」である、火のように赤い大きな竜。これは七つの頭と十本の角があるという、恐ろしい姿です。その頭には七つの冠をかぶっている。
「七」という数字は、神の完全を表す数字です。ヨハネの黙示録は、「数」というものも、非常に象徴的に用いられていて、すべての数に意味があるのですが、七とは神の完全を表す数字。それでは、この竜は神を表しているのか?というと、それは違っていて、明らかにサタン・恐ろしい悪魔を表しています。しかし、七という神の完全数をまとっているということは、悪魔は悪魔のくせに、神を真似ようとする狡猾な性質を表していると言えましょう。悪は一見自分を良いもののように見せかけながら、非常に巧妙に人間に近づくのです。
 思い出してください。創世記3章のアダムとエバの物語を。エバに近づき、神から食べてはいけないと言われた木の実を食べるようにそそのかした蛇を。狡猾に言葉を選び使いながらエバに近づき、神の命令から心を逸らせてしまうそのやり方。実は、この蛇は、ヨハネの黙示録では「年を経たあの蛇」と言われ、またこの竜として出て来ているのです。小さな蛇は本当の姿を現したら大きな、恐ろしい姿の、また神を真似た七という数字をまとった竜となっていました。
 そして、聖書は、特にヨハネによる福音書また、ヨハネと名のつく文書に於いてははっきりと、サタン=竜を、この世の支配者として語っているのです。
 この竜はその尾で、三分の一の天の星を掃き寄せて、地上に投げつけ、そして、竜は、子を産む痛みと苦しみのために叫ぶ、太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶる女の前に立ちはだかり、子を産んだらその子を食べてしまおうとしていたというのです。恐ろしい光景です。
 女は苦しんで男の子を産みます。「この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」と語られるこの男の子は、まさしくイエス・キリスト。
 竜はイエス様が怖いのです。イエス・キリストは自分=悪の力を、悪魔、サタンを打ち滅ぼす権威があるお方であることを、竜は知っていたからです。だから、赤ちゃんのうちに食べてしまおうと狙っていた。
 創世記3:15にこのような御言葉があります。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」。
 この「お前」とは、蛇=悪魔を指します。そして「彼」とはイエス・キリスト。蛇=悪魔はキリストのかかとを砕く、痛みを与えはするが、その程度であり、致命的なものではない。しかし、キリストは、悪魔の頭を砕く。頭を砕くということは、致命的な傷であり、それは死と滅びを意味いたします。
 世で悪の力は猛威を奮うけれど、キリストは悪の力、蛇、サタンを滅ぼし勝利するということが、聖書の初めに預言されているのです。
 竜が男の子を食べようとしていた狙いは、男の子が神のもとへ、天の玉座へ即座に引き上げられたことによって敢え無く頓挫します。黙示録は、すべてが象徴的な描き方をされていますので、イエス様のご生涯をここではさらりと飛ばして、キリストを「鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」、というキリストが全世界の統治する天に即座に上げられています。
そして、男の子を生んだ女は、荒れ野に逃げ込み、そこは1260日、換算すると3年半荒れ野の神の用意された場所で守られる、不思議なことです。黙示録は不思議なことだらけですが、神が男の子を産んだ女を守られた場所が荒れ野であるということ、そして黙示録が語る3年半という年月は、苦しみの年月を表す独特な言葉ですので、私たち人間が世の苦しみの中にある時も、その置かれた場所が荒れ野であったとしても、神は、神を信じるすべての人たちをその場所で守っておられる、ということなのではないでしょうか。また、神は苦しみを通して、人間を守り、またまことの救いを顕されるということなのではないでしょうか。

 この世は罪と悪が支配する世界であるというのが、聖書の世界観です。旧約聖書のエデン園とは、神のおられる天であり、罪を犯した人間が置かれたエデンの東とは、人間が罪を持ってしまったがために、神から離され、置かれてしまった私たちの生きる「低き地」なのでありましょう。
 世には多くの苦しみや悲しみがある。神はそれらのすべてを見ておられます。いえ、ただ見るだけではなく、自ら低きに降って来られ、ご自分が苦しみ血を流し、人間の味わう死を経験されることにより、人間を悲しみから苦労から逃れる道を、そしてまことに神と共にある命へと導きいれる道を拓いて下さいました。救いは苦しみを、産みの苦しみをとおしてもたらされる。しかし、救いをもたらすために、最も苦しまれたのは、神御自身であられました。神が御自身の体を引き裂いて、人間に救いをお与えになったのです。何と言うお方でしょうか。私たちの信じる唯一の神は。

今、世は混沌とし、悪の力が跋扈しているように見えます。また、私たちひとりひとりの生活にも苦労があるかもしれない。
しかし、悪の力に既に勝利され、既に天の玉座におられるキリストなる神がおられます。そして、そのお方が再びこの低き世に来られる時が来る、その時こそが、すべての悪が打ち破られるときであるということを聖書は告げています。主はもうすぐ再び来られるのです。
 このことを待ち望む信仰を、マラナタ信仰と呼びます。マラナタ=主よ、来てください、という意味です。マラナタ信仰とは、主が再び来られる日を待ち望みつつ、この混沌とした世にあっては、それぞれが置かれた場で、誠実に生きる、そのような信仰の姿勢です。主を待ち望みつつ、毎日を誠実に歩みたいと願うものです。

 神はおひとり。そのおひとりの神が、人間を愛し憐れみ、低きに降ってくださる。クリスマスを迎えるこの一週間前の聖日、私たちはいよいよ心を低く、キリストをお迎えするための備えをしたいと願います。
 主はもうすぐ来られます。