「苦難の中の慰め」(2017年1月1日)

「苦難の中の慰め」

イザヤ書40:1~2

コリントの信徒への手紙二1:3~11

 

主の年2017年を迎えました。この年を、主の復活を記念する日曜日から始められますことを感謝いたします。新しい年が始まりましたが、教会ではイエス・キリストの降誕の物語が続いています。今日はイエス様が、「イエス」という天使によって示された名前を与えられ、割礼を受けられた日。主の命名日であり、また神に聖別してささげられた割礼の日でもあります。

ルカによる福音書2:21をお読みいたします。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」。12月25日から八日目は1月1日。本に住み、「元旦」「お正月」という神道の行事の中に無意識のうちに入れられているかに思える私たちです。しかし、私たちは、キリストにある民。主が一年のはじめのこの日、割礼を受けられ、聖別されたように、私たちも聖別された民として、この日と、また新しい年も、心新たにキリストと共にある命のうちを歩みたいと願っています。

そして、本日与えられました御言葉は、使徒パウロの「コリントの信徒への手紙二」1章です。 新しい年、それぞれに抱負や希望などおありのことでしょう。昨年に受けられたご苦労や悲しみを、重荷として持っておられる方もいらっしゃるかもしれません。

今日お読みした、コリントの信徒への手紙二は、パウロの手紙ですが、この手紙を書いたパウロも、手紙のこの部分を書く少し前まで、大きな苦労を負っていました。自分の作ったコリントの教会が、さまざまな問題を抱えており、パウロは心配で仕方がなかった。パウロの伝えた福音が、パウロがコリントを発って新たな伝道の旅に出向いた後に、異なる教えに変えられてしまい、分派分裂の大変な事態になっていることを、パウロは知ったのです。パウロは教会を愛し、心配しているのですが、パウロは、教会の分派争いの中で、教会の人々に、散々批判され、誤解をされることも多く、悲しみの中にいたことが、手紙を読むと分かります。しかし、ここでパウロは感謝を語っています。

この手紙の構造は少々複雑で、お読みした1章は、先の7章と関連があります。また、この手紙はもともと一通の手紙ではなく、数通の手紙を編集して纏められたものであり、時系列も書かれた順番に従っていないということが分かっています。そのような視点で1章と関連する7章を読むと、この教会が悔い改めたことが分かります。教会の悔い改めは、神の御心に適うことであり、パウロの喜びとなりました。パウロの受けた苦難は、神の慰めに変えられ、パウロは感謝に満ちた思いを以て、この手紙を書いているのです。

さて、パウロの手紙には独特の言葉遣いがあります。残念ながら、今日の箇所にはこの言葉は出てこないのですが、お読みした箇所全体を理解するためには、必要であると思える言葉。それはギリシア語でエンクリストゥ「キリストのうちに」という言葉です。イエス・キリストによって救われて、肉眼では分からないけれど、命そのものがすっぽりと位置を移され、新しく救い主キリストと共にある命の中に入れられる、そのような意味です。私の前任地の目白教会で長く牧師をしておられた篠原信先生が、この言葉について熱心にお話ししてくださいました。「エンクリストゥは「キリストに結ばれて」とも訳されているところがあるけれど、手を繋ぐような、そんな結ばれ方じゃない、命がすっぽりキリストのうちに入れられるのだ。罪赦された新しい命なんだ」ということを、熱心に語り教えてくださいました。ですから、私もこの言葉には拘りをもってよくお話をさせていただきます。「キリストのうちに」すっぽり入れられる、信じた者たちは、初めの人、アダムの罪によって神と引き離されていた場所から、そのようなキリストと共にある命の中に既に移されているのです。キリストと共にあり、また、ここにおられるキリストを信じた私たちは同様に同じ確かな命のうちに入れられている。同じ命の循環、喜びも重荷も担い合う、そのような命である、とも言えましょうか。

さて、コリントの教会は、パウロが第二伝道旅行で長く滞在し、自らが伝道し、建てた教会でした。しかし、この教会ははじめに申し上げましたように、問題の多い教会で、パウロは非常に苦労したことが第一の手紙第二の手紙を通して分かります。少し先の2:4でパウロは「わたしは悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」と自ら語っていますように、この手紙は「涙の手紙」とも言われているのです。パウロにして、非常に彼自身の弱さや不安を赤裸々に表すことが多い手紙で、パウロの赤裸々なまでの人間としての弱さが、私たち自身の弱さや不安と重なり、パウロの苦しみと、苦しみからの解放を私自身のものとして、受け取ることが出来る手紙となっています。

8節では「兄弟たち、アジア州でわたしたちがこうむった苦難について、ぜひ知ってほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失っていました。わたしたちは死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」とパウロは書いています。

前の手紙、コリントの信徒への手紙一を、パウロはエフェソで書きました。エフェソというのは、パウロが苦難をこうむったと語っているアジア州にある都市です。一コリント16章で、パウロはエフェソに五旬祭=私たちのいうところのペンテコステまで滞在し、その後、マケドニアを経由して、再びコリントに行きたいと書いているのですが、パウロは再びコリントに行くことが叶わずに、この手紙を書いています。恐らくは、アジア州のエフェソで、パウロは投獄され、死ぬほどの思いを経験したのだと思われます。おそらくはこの時の経験も含めた苦しみを、この手紙の11章でパウロは語っています。「投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度…飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と。血と汗にまみれ、侮辱され、どれほどの苦しみと痛みだったことでしょうか。よく生き延びたと思えることもしばしばだったに違いありません。

パウロの苦しみは、イエス・キリストを、神を宣べ伝えるためのものでした。しかし、パウロはキリストのためにそのような苦難を何度通って来ても、それで御言葉を宣べ伝えることを止めなかったのです。

さらにパウロが語ります。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難にある人々を慰めることができます」と。パウロがここで語っているパウロが受けた苦難、それは肉体の傷や猛烈な痛みを伴う、人間によって与えられた苦しみを指していると思われます。

東日本大震災以来、「苦難」の問題が「何故」という問いかけとして問われ続けて来ましたが、私たち人間が与えられる苦難は、自然災害によるものだけではありません。人間がその罪によって人に与える苦しみがあります。人間は他者の痛みに対して、鈍感なところがあります。いえ、人間はどこまでも人の痛みに鈍感になれる、恐ろしい罪の性質を持っていると思わされることがあります。人が人に対して、嘲笑うかのように、人を苦しめるということが歴史の中で、また私たちの非常に近くに於いても、しばしば起こります。

イエス様、そしてパウロが生きた時代のローマでは、キリスト教徒は信仰を持っているというだけで、捕らえられ、ローマのコロシアムで見世物にされ、獰猛なライオンに追われて引き裂かれ殺されたり、十字架に架けられ、死んで行くさまを、見物客が興奮と狂乱を以って喜び囃したと言われています。また、近年のアウシュビッツをはじめとするナチスドイツによるユダヤ人の虐殺。その傍で収容所長の家族が笑い団欒をしていたという記録。また、ドイツ人のすべてがそれらを「知らなかった」と言いつつ、実は知って知らぬふり、見て見ぬふりをして、日常生活を営んでいたという記録。恐ろしいことですが、人間は他の人の痛みに対して、どこまでも鈍感になれるものなのではないでしょうか。いえ、人の苦しみに鈍感であるという以上に、残酷なまでの性質があります。

この世は、アダムの罪によって、神と引き離された世界です。神から引き離され、神との繋がりの失われた世界に於いて、人間同士の関係も、引き裂かれ、どこまでも残酷になり得る。昨年、そして今現在の社会の状況と共に歴史を見つめなおす時、そのことを強く思います。パウロはそのような人間の残酷さの中にあって、苦しみに遭いました。しかし、苦しみの中にあっても、パウロはキリストを通して慰めが与えられることを知っています。

この「神の慰め」ということ。聖書が語る「慰め」という言葉は、私たちが普段使う「励まし」や安堵という意味とはかなり違う言葉です。元々の語源は、「息を吐く」「深い呼吸」という意味です。キリストのうちに入れられている者たちには、神の深い呼吸も直に届くのではないでしょうか。神の息。旧約聖書創世記2:7によれば、人は神の息を吹き入れられて生きる者となったとあります。私たちの命は、神の息と深く関わり合っているのです。そして、世でどのような苦しみの中に置かれることがあったとしても、キリストのうちに入れられた者たちにとっては、神の慰め、神の深い息に包まれる時となるに違いないのです。

さらにパウロは語ります。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」(5節)と。パウロは自分が人から受ける苦しみを、イエス・キリストの十字架の苦しみから流れ出るものとして捉えています。

イエス様の十字架の死は、人間の罪、残忍さによってもたらされた死でありました。イエス様の十字架に至る道の人間の最も大きな罪の思いというのは、ユダヤ人たちのイエス様への嫉妬から始まったものでした。イエス様は、その神の力、業によって周囲に人が集まり、自分たちの権威が脅かされることを感じたユダヤ人ファリサイ派、律法学者たちの嫉妬が基となり、人々を扇動し、罪の無いイエス様を十字架に架けたのです。主は、鞭打たれ、十字架の上で手と足首に釘を打たれ、苦しみ抜いて死なれました。

イエス様がそれほどの苦しみに遭って死を迎えられたということは、神であられるイエスさまご自身が、人間の経験する苦しみのすべてをその身を以て経験されたということです。そして、パウロがまた私たちが世で苦難を受けることがあった時も、同じキリストの命のうちに置かれている者たちのその苦難をキリストご自身が既に経験をしておられるということです。キリストのうちに、とはそのようなキリストがどんな時にも共にいてくださる命です。

そして、苦しみを知っておられるからこそ、同じキリストのうちにありながら、世にあって苦難の中にいる私たちの苦しみや悲しみを知り、私たちと共にいて、憐れみ、慰めて下さる。そこには、だからパウロは語るのです。6節「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また私たちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」と。キリストのうちにある者は、キリストと共に、痛みも慰めも共に分かち合う者とされているのです。

パウロは自分自身が苦しみに遭う時、イエス様の苦しみをそこに見ていました。キリストのうちに入れられた者には、イエス様の溢れる苦しみすら、及ぶことがある。パウロの認識です。厳しい言葉に聞こえますが。パウロは、キリストと同じ命のうちに入れられている者として、そのことに信仰をもって思いを馳せながら、キリストと共に苦しみに耐えたに違いありません。苦しみにあう時、パウロはイエス・キリストを、十字架の苦しみを自分のものとして捉えたのではないでしょうか。しかし、キリストと共にある時、苦しみは苦しみに終わらず、神の深い息、慰めに包まれるのです。

さらに問題が多いけれど、パウロが愛するコリントの教会と人々は悔い改めました。パウロはそれを喜びました。パウロの受けた苦難は、感謝へと変えられました。そして、悔い改めた教会の人々に向けて語ります。「あなたがたも祈りで援助してください」と。

キリストのうちに、同じ命の中に入れられた私たち。しかし、まだ不完全な世には苦難があります。イエス様はヨハネによる福音書16章33節ではっきり語っておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。命はキリストのうちに入れられていても、私たちの目に映る現実は、いま、ここです。しかし、ここにありながら、私たちは、キリストが共にあるいのちのうちに既に入れられています。キリストの勝利は、私たちと共にあります。

そして、いま、ここにあって、私たちは互いに祈りで援助すること、互いに祈りあうことが、苦難を乗り越える大きな助けとなるのです。パウロがコリントの教会の人たちに祈りの援助を求めたように、私たち土気あすみが丘教会も、この新しい一年も、互いに祈りによって支えあうことに、熱心でありたいと願います。支え合い、慰め合い、キリストが共におられる命のうちをキリストと共に歩んで行きたいと願います。

そして、パウロのように、私たちの新しい一年が、苦難が慰めに、感謝に変わる、恵みの年でありますように。

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