「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」(2017年2月12日礼拝説教)

「 皇帝のものは皇帝に、神のものは神に 」
詩編36:2~5
ルカによる福音書20:20~26

「人を陥れようとする悪意」というものは、あらゆるところに潜んでいて、巧妙に顔を出すものだと思います。悪意の根底には嫉妬心が根づいていることが多く、嫉妬によって人を中傷して陥れようとするということはありますでしょうし、それが思うようにいかなければ、別の人の手を使っても巧妙に自分たちの思うように事を運ばせようとする。悪意によって事実を捻じ曲げようとする、人間にはそのような罪の性質があります。
 お読みした詩編36編は、ダビデの詩として、そのような人の心の悪や、欺きを語っています。ダビデはこのことを「神に逆らう者に罪が語り掛けるのがわたしの心の奥に聞こえる」と、「罪」が擬人化されて、神に逆らう者に罪自身が語り掛ける。それをダビデの心は察知している。そのような言葉で始まる詩です。王となったダビデは、サウル王の嫉妬によって、命を取られる危険の中に長くいました。その他多くの苦難を受けました。人の悪意をダビデは知り尽くしていたのでしょう。
 そしてイエス様も、人々の悪意の只中に、この時、置かれておられました。いえ、宣教を始められてから、ずっとそのような中におられたと思います。福音書を読み続けておりますと、イエス様は絶えず人々の注目の中にあり、行かれるところにはどこにでも、嫉妬心や猜疑心が渦巻く悪意を持って近づいてくる人々がいて、イエス様を試し、陥れようとする祭司や律法学者などが、傍にいたことが記されています。そして、イエス様に論争を挑みますが、イエス様の巧みな返答に口をつぐまざるを得ないことが続きます。そして鬱積し増幅された悪意が、ますます激しいものとなっていくのです。
 この時、イエス様は御自身の十字架の死というものが近いことを、知っておられます。覚悟をもって、エルサレムへと入城しておられるのです。どれほど孤独で、どれだけの緊張感の中におられたことでしょう。
 イエス様は、人間の持つ恐れのすべてを―それも死に至ることへの恐れ、孤独、そして人から憎まれる悲しみも、その身で知っておられました。そのような中で、人々はイエス様に畳み掛けるように論争を持ちかけて参ります。

 先週の御言葉の終わりで、「家を建てる者の捨てた石、それが隅の親石になった」、これはどういうことか、とイエス様は問われました。イエス様の語られたことは、律法学者や祭司長たちにとって耳の痛い言葉で、自分たちに当てつけて語られた言葉であったことに気づき、「イエス様に手を下そうとした」=殺そうとしましたが、それをすることで、周囲に居る民衆が、律法学者や祭司長たちに向かって石を投げつけることを恐れて、その場では自分たちでイエス様に手を下すことはとどまりました。
 しかし、イエス様を陥れる機会を狙う彼らは、さらに「正しい人を装う回し者」を遣わし、イエス様の言葉じりを捉えて、ローマ総督の支配と権力にイエス様を渡そうとしたのです。
「回し者」ですから、謂わばスパイ。イエス様の味方を装って、心に下心を持って近寄る人たちです。また「正しい人を装う」というのですから、「自分は正しい者だ」ということに、躊躇の無い人々でありましょう。律法を守り、世の法を守ること、その行いに於いて正しい人を装っている人々です。
 しかし、パウロが詩編を引用して語る言葉に「正しい者はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10)という言葉がありますとおり、自分を「正しい者」とする人というのは、罪を知らない人であり、神の御前にすべての人は罪人であり、自分もそのひとりである、ということを認め得ない人でありましょう。彼らは正当な議論では、皆イエス様には敵わなかったので、ここで悪巧みをいたします。しかし、人間の悪巧みよりも、神の愚かさの方が、勝っています。

「回し者」、自称「正しい人」たちは語りかけます。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、またえこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」と。歯が浮くようなお世辞に思えますが、イエス様の真実を突いているとも思えます。神は、人間の悪巧みですとか、悪の力を用いても、神の正しさが顕されることがあります。
 さらに回し者は、巧妙な問いかけをいたします。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。
 
 当時ユダヤ人は、20歳以上の男子はすべて定期的に神殿税を納めることになっていました。これは神殿祭儀を維持するための税金であったと言います。マタイによる福音書17章に於いて、イエス様とペトロが、神殿税を納めているという記述があります。
 当時のユダヤ人の置かれている環境というのは複雑なものでした。エルサレムを中心としたパレスチナ=現代のイスラエル、シリア、ヨルダンのあたりに一定の自治権を与えられ住んでおりましたが、その地は自分たちの国ではなく、強大なローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国の属国であり、ローマ皇帝直属のローマ総督が派遣されて、その地域は総督によって統治されているというローマの傀儡政権でした。ローマの貨幣が日常生活には使われておりました。そして、神殿税を納めるときには、ユダヤ人は両替所で神殿の貨幣に両替をして納めるということをしていたのです。

 イエス様のお生まれになった時代には、ヘロデ大王と呼ばれる人が、ユダヤ人の王でした。ルカ2章のイエス様の誕生の物語の中に、シリア州総督キリニウスの時代に人口調査があった、という出来事が記されてありますが、これはローマ帝国が、ユダヤ人に課税をするために行った人口調査、住民登録でした。その時に、「ガリラヤのユダ」という人がローマの徴税に反対し立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたということが歴史書に残されています。これはローマ帝国及び、ローマ皇帝への納税に反対した反乱でした。それが、イエス様のお生まれになった頃に起きた事件であり、人々の記憶にもしっかりと刻まれており、この「正しい人」を装う人たちの問いかけには、この出来事が念頭にあったに違いありません。イエス様が「皇帝への納税はしない」と言えば、ローマへの反逆者として、訴えることが出来るという算段です。
 律法から見ますと、神の民ユダヤ人が、異邦人の支配者であるローマの皇帝に税金を払って良いわけがありません。しかし、ユダヤ人には一定の自治が認められているとは言え、ローマの皇帝の肖像が彫ってある貨幣が流通し、貨幣としてはシェケルのみが通用する神殿税以外は、誰もがローマの貨幣であるデナリオン銀貨を使用している現実がありました。

 イエス様は、「彼らのたくらみを見抜き」ました。「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、心の奥に聞こえた」のでありましょう。詩編はその詩の中で、イエス様を預言する言葉を度々語っています。先週の「家を建てる者の退けた石が隅の親石になった」という、預言の成就の言葉も、詩編の言葉でした。
そして「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」と、言われます。当時のデナリオン銀貨には、皇帝の肖像と共に「神に列せられるアウグストゥスの子、ティベリウス」という銘が彫ってありました。唯一の神を信じ、神は見えないとする神の民ユダヤ人にしてみればデナリオン銀貨は触れることさえ憚られる偶像が刻み込まれた貨幣です。しかし、そうは言っても皆持っており、日常生活に使っています。それをイエス様は、この回し者たちに敢えて見させ、そこには誰の肖像が刻んであり、誰の銘が記されているのかと尋ねられました。
 彼らは「皇帝のものです」と答えます。それに対しイエス様は「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えを返されたのです。

「神のものは神に」―先週、私たちは「ぶどう園と農夫の譬え」から御言葉に聞きました。ぶどう園は主人のものというのは、主なる神がすべてのものを造られ、ご自分の所有としておられる。そして、人間にこの世のさまざまなことを託しておられる=預けておられるけれど、人間は預けられていることを忘れて、知らぬ顔で、神のものを我が物顔に扱っている。何か、名誉なことがあったとしたら、それは自分の手で掴み取ったものだと考え、一層、自分の持ち物に固執をします。
 しかし、申命記8章に「あなたは『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主である」という御言葉がありますが、世で私たちが与えられているものすべては神からの委託です。人間のものではありません。神から預けられ、それらを愛を以って管理することが委ねられています。人間の持ち物は滅び行くもの、いずれ古びて無くなるものですが、自らを省み悔い改め、すべては神からのものであることを受け入れる時、すべての栄光を主に帰する(詩編29:1)ことを信仰を以って為す時、隅の親石なるイエス・キリストに連なる、朽ちない命を私たちは与えられます。
「神のものは神に」、私たちは絶えず心を高く上げて、神に自らと自分に与えられたすべてのものをお返ししていく生き方をしていきたいものです。私たち自身も神の所有であり、私たち自身も神に栄光を帰す、イエス・キリストへの信仰によって、御言葉によって、すべてを整えることに忠実であることです。

 それでは「皇帝のものは皇帝に」とはどういうことでしょうか。
 ユダヤ人が通常生活に使っている銀貨は皇帝の肖像の入った銀貨でした。ローマ帝国が作った、ローマ帝国の皇帝の権威のもとに造られた銀貨です。その意味で、ユダヤ人にとっての生活の糧ではありますが、皇帝から出た皇帝のものと言えましょう。税金もローマ皇帝の肖像の入った貨幣で払うのです。
 すべてのものは、神からのものであって、神の所有でありますが、神に委託されているこの世にあっては、国があり、その中に権力者がおり、またそこに住む人々には、国の、世のルールがあります。残念ながら、すべての人がイエス・キリストを信じている訳ではない。御言葉はまだまだ全世界に伝えきることが出来ていません。そのような中、人間の作った社会の構造があります。イエス様は、すべてのものは神からのものであり、神にお返しすべきものであるけれど、しかし、世のことに関して、必要なことは行えということを告げておられるのです。
 マタイ17章で、ここは神殿税のことが語られていますが、イエス様は「彼らをつまづかせないために」税を収めるということを為しておられます。イエス・キリストを信じる私たちが、また世に置かれている神の教会が、世に疎いまま、人々に迷惑が掛かるようなあり方で世を生きるのではなく、従うべきところは従い、節度と配慮を持ち、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す」という生き方を、なしてゆくべきなのです。
 しかし忘れてはいけない大前提として「すべてのものは神のものである」ということの中に生きつつ、一番重んじるべきことは、世のことではなく、国の制度に基づくことではなく、ただイエス・キリストへの信仰に、聖書に基づいて生きること。それを堅く堅持した上で、世のこと、世の様々な制度に対し、淡々と為すべきを為し、世に返すものを返すのです。

 私たちの教会は、再来週の教会総会に於いて「教会規則の変更」について審議いたします。土気あすみが丘教会は、2007年に宗教法人格を取得いたしました。宗教法人格というのは、宗教法人法という日本の国の憲法に定められた法律に基づいて、この地に、千葉市緑区あすみが丘2-19-10という、国土の一部に土地と建物を持ったキリストの教会が、国の中で「宗教法人格」という人格を与えられ、日本という国の中で、宗教団体の目的達成のための業務及び法律上の能力を与えられる、そのような法律に基づく権利です。一言で言えば、「世のこと」であり、「世俗法」とも呼ばれ、聖書と信仰に基づく「教会法」と区別されているものです。
 宗教法人法の第一義は、「信教の自由」であり、国が宗教団体の信仰の内容には、一切立ち入ってはならないという大原則があります。宗教法人法が関わるのは、この国に土地と建物を持つ教会の、土地と建物に関することだけです。
 信仰に基づく教会法としての教会規則を、私たちの教会は2003年に制定して持っておりますが、宗教法人格を取得した後、教会規則が脇に追いやられた形になり、国との関わりであり、土地と建物に対する権利である、世俗法としての宗教法人法に基づく規則を、教会規則と認識して、宗教法人規則に「施行細則」として、教会規則を加えてしまっておりました。
 この規則のままでは、この世にある日本という国の法律の中に、神の支配が入れられていることになってしまいます。本来、神の支配の中に、国はあります。それが逆転した形なっているのです。
 日本キリスト教団に属する、宗教法人格を持った教会は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」返すために、知恵を用いて、教会法に基づく教会規則と、世俗法に基づく宗教法人規則のふたつの規則を持つことが定められています。
 教会規則はイエス・キリストを頭とする信仰共同体の規則であり、「神のものは神へ」お返しするものであり、宗教法人規則は、世と世に対して教会が権利を行使出来る、今日の箇所で言えば、「皇帝のものは皇帝に返す」そのような性格のある規則です。
 そのように、私たちの教会が規則を認識し、変更を加えることを役員会は提案いたします。どうぞこのことを、この御言葉に合わせてご記憶いただきたいと願っています。

 イエス様の知恵ある言葉によって、この時、人々はイエス様の言葉尻を捉えることが出来ず、人々の悪意は退けられました。
 十字架を目前にしたイエス様。しかし、どこまでも冷静で知恵ある言葉を語られました。私たちも、人の罪や悪意の中に置かれてしまうことがあるかもしれません。しかし、もしそのようなことがあったとしても、そのことをその身に於いて経験され、知っておられるイエス・キリストが私たちにはおられます。私たちが対人関係で苦しむことがあっても、そのことの傷みを知っておられる主が私たちと共にいてくださいます。そのことを覚え、イエス様ならば、この時どのように相対されるのか、そのことに絶えず思いを馳せるものでありたいと思います。そして、どのような時にも取り乱されることなく、知恵ある言葉を語るイエス様に倣うものでありたいと願います。私たちの傷みや、生きる苦難のすべてをご存知の主は、私たちを取り巻くすべての問題をご存知であり、主を求めたとき、相応しい知恵を与えて下さることでしょう。
 さらに、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す」この、主の語られた世を生きる知恵を、行い生きる者、教会であることを願うものです。

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